第二部は、福音書を扱う部分です。第2章と第3章に分かれています。
第2章 「バプテスマのヨハネの期待」
第3章 「ヨルダンでのイエスの経験」
「聖霊のバプテスマ」という表現(ギリシヤ語では名詞形でなく動詞形)が見られるのは、新約聖書中7か所だけですが、そのうち4か所は、バプテスマのヨハネが語った言葉が四福音書に並行記事として記されているものです。ですから、バプテスマのヨハネのこの言葉から検討が始められるのは、自然なことと思います。
マルコ1:8では以下の通りです。
εγω εβαπτισα υ΄μας υ΄δατι,
αυτοσ δε βαπτισει υ΄μας πνευματι α΄γιω.
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、
その方は、あなたがたに聖霊の(によって)バプテスマをお授けになります。」
マタイ、ルカでは、「聖霊によって」のところが、「聖霊と火とによって」となっています(マタイ3:11、ルカ3:16)。
ちなみに、聖書本文を記すこの部分、原文では英訳がつけられていません。おそらく、読者としては一般の読者を想定しておらず、研究者、神学者が想定されているのでしょう。
著者は、第2章でバプテスマのヨハネの言葉を調べるのに、以下のような三つのステップを踏みます。
(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」ということの本来的意味
(2)ヨハネの水のバプテスマの役割
(3)聖霊によるバプテスマについてのヨハネの予告はクリスチャン経験においてどう理解されるべきか
(特にクリスチャンのバプテスマとの関わり)
今回は、(1)の部分を調べてみます。
(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」とは
著者は、この課題に取り組むにあたり、二つの問題に分けます。
a.その部分の本来の形は何か
b.その部分の本来の意味は何か
a.その部分の本来の形は何か
この部分は、現代の新約学者らしいテーマ設定と言えるでしょう。これは、19世紀終りに二つの再構成が行われ、その結果、多くの学者はヨハネが聖霊について語ったということを否定するようになったことを反映しています。つまり、本来は、火によるバプテスマについてだけ語ったのではないか、あるいは、風(霊と訳されるプニューマは、風とも訳される)と火によるバプテスマについて語ったのではないか、というものです。両者共に、バプテスマの比喩は、直後の火によるあおぎわけと破壊の比喩と同一のものとされます(マタイ3:12、ルカ3:17)。
これについては、二つの点に注目する必要があると著者は指摘します。
・バプテスマのヨハネは、単に怒りの預言者ではなかったという点
・クムラン集団が霊(神の霊)を洗いきよめる力として語っている点(ヨハネがクムラン宗団と接点を持っていたという仮説に基づく)
これらを踏まえ、著者はこう結論づけます。「ヨハネが風と火についてだけ語ったという示唆は魅力的なものではあるが、バプテスマのヨハネの言葉が本来Q資料のものであったことを否定する決定的な理由はない」(10頁)。Q資料とは、新約学者の間でマタイ、ルカ福音書の共通資料となったと考えられている資料ですので、「聖霊と火によって」というのが、本来の形であることを否定する理由はないという結論になります。
この部分、聖書観も関わってくる領域で、私自身はより保守的な考えを持ちますので、あまり考慮する必要を感じませんが、幅広い学者と対話するには必要になってくる部分なのでしょう。
b.その部分の本来の意味は何か
続いて「ヨハネが聖霊と火によるバプテスマについて予告したとき、彼は何を意味したのか」という問題に移ります。
まず、二つの伝統的解釈が紹介されます。
(ア)燃え上がらせ、きよめるバプテスマ―純粋に恵み深い聖霊の注ぎについて語った。(クリソストムス)
(イ)二重のバプテスマ、すなわち、義なる者については聖霊のバプテスマ、不義なる者については火のバプテスマについて語った。(オリゲネス)
(両者共に、本当に「伝統的」!)
著者は、両者共に不適切であると言います。
(ア)に対しては、ヨハネの説教の特徴的な点として差し迫った裁きと怒りがあること、「火」は目立った用語であり、刑罰的滅亡の火をも意味するものであることを指摘し、「聖霊と火によるバプテスマ」は、単に恵み深いものというだけでなく、少なくとも裁きと滅亡の行為を含んでいるに違いないと言います。
(イ)に対しては、ヨハネがきたるべき方のバプテスマを自分自身のバプテスマの補完また成就としてみなしている点をまず指摘します。
εγω υ΄μας βαπτιζω (εν) υ΄δατι
αυτοσ υ΄μας βαπτισει εν πνευματι α΄γιω.
(原文には引証個所が示されていません。「Q資料」という意味なのでしょうか。και πυριがなぜないのかも不明です。次の論証のためには、あったほうがよいと思うのですが・・・。)
そして、第一に、「εν」(英語でいえば、in や with)は両方の要素にかかっているので、将来のバプテスマは聖霊と火による単一のバプテスマであり、聖霊のバプテスマと火のバプテスマとの二つのバプテスマが考えられているのではないことが指摘されます。
第二に、ヨハネのバプテスマときたるべき方のバプテスマが同じ人々「あなたがた」に対してなされていることが指摘されます。すなわち、聖霊と火のバプテスマは、ヨハネのバプテスマの代替物として提供されるのではなく、また、聖霊と火のバプテスマを避けるためにヨハネのバプテスマを受けるのでもないのであって、ヨハネのバプテスマはメシヤによる聖霊と火のバプテスマに備えるためのものであるということです。この場合、きたるべき方のバプテスマは、ただ刑罰的、滅亡的なものではありえません。ヨハネによって悔い改め、バプテスマを受けた者は、究極的には恵み深いバプテスマを受けなければなりません。要するに、ヨハネが将来のバプテスマについて語ったとするなら、そこには福音と裁きの両方があるということです。
さて、このあたりまでの議論は、伝統的解釈(ア)(イ)が不適切であることを立証するものとして展開されてきていますが、この後、ここまでの議論を受け継ぎながら、著者自身の見解を述べていきます。ところが、すぐにでも結論が示されそうな気配でありながら、ここからかなり長い議論が続き、旧約聖書の森に分け入っていくような展開になります(11頁~14頁)。それらしい予告なしにこの議論が進められて行きますので、途中で目も眩むような思いになるのですが、よくよく考えると、ここでの議論はかなり大切な議論であることが分かります。それで、回を改めて、この議論を追ってみたいと思います。