長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

1章 その2

2013-09-07 09:56:19 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(3)本書の概要


前回の(2)でまとめられていたような歴史的経緯を受けて、新約聖書学者として、著者は以下のような問いを立てます。

・ペンテコステ派が「聖霊のバプテスマ」という表現が意味すると理解していることは、新約聖書がその表現によって実際に意味することなのか。
・聖霊のバプテスマは、「回心-入信式(Conversion-initiation)」と分離させられるべきであり、クリスチャン生涯の始まりは、明確な二段階によってこのように区分されるべきなのか。
・聖霊のバプテスマは、クリスチャンになることとは本質的に違う何かであり、それゆえ、長年のクリスチャンでさえも、聖霊のバプテスマを受けていないという事があるかもしれないのか。

著者は、このような問いに対して答えを見いだすために新約聖書を調べ直すことが本書の主要課題であることを明らかにします。そして、要約的に言えば、クリスチャンになるという複雑な出来事の全体において、聖霊のバプテスマがどのような位置を占めるのかを見つけたいのだと言います。

但し、このような問いに答えるためには、単にペンテコステ派との論争というよりも、より広い議論が余儀なくされることも指摘します。というのは、ペンテコステ派以外では、聖霊のバプテスマと水のバプテスマと言うクリスチャンの礼典とを直接的に同一視することが多いからです。(但し、聖霊の二回の賜物を区別する者もある。すなわち、第一は「回心-入信式」の時、第二は、その後の時期に、堅信礼等において。)従って、著者は自分の位置を二つ、あるいは三つ四つの異なる立場に対して定義づけるつもりであることを明らかにします。

その後、著者は自分の主張の概要を述べます(4頁)。

a.新約聖書の著者たちにとって、「聖霊のバプテスマ」あるいは「聖霊の賜物」は、福音の有効的宣言、主なるイエスへの信仰、主イエスの名によるバプテスマと並んで、クリスチャンになるという出来事(あるいは過程)の一部である。
b.聖霊のバプテスマは、「回心ー入信式」において、主要な要素であるので、それによって聖霊を受けた者だけがクリスチャンと呼ばれうる。
c.聖霊を受けることは、非常に決定的かつしばしば劇的な「経験」(原文イタリック)であり、「回心ー入信式」において、決定的かつクライマックス的経験である。
d.従って、聖霊のバプテスマのダイナミックで経験的な性質についてのペンテコステ派の信念は、十分立証されるが、ペンテコステ派における聖霊のバプテスマと「回心-入信式」との分離は、全く正当化されえない。
e.逆に、水のバプテスマは、「回心-入信式」の複雑さの中で重要な要素ではあるが、聖霊のバプテスマと同一視されたり混同されてはならず、その複雑な出来事の中で最も重要な部分とされてはならない。
f.「回心ー入信式」における高い部分は、聖霊の付与であり、クリスチャン生涯の始まりは、聖霊のバプテスマから判断されるべきである。

続いて、本書の本文が以下のような順序で進められると予告されます(4、5頁)。

第一部
第2章 聖霊のバプテスマは当初から入信的経験として理解された。
第3章 イエスご自身においてさえ、ヨルダン川での聖霊の注ぎは入信的であり、ヨハネの水のバプテスマは、聖霊の付与の準備に過ぎず、聖霊の付与と融合されてはいない。
第二部 ペンテコステ派の教理は、主に使徒行伝に基づいているが、詳細な研究によれば、使徒行伝の著者にとって、人がクリスチャンになるのは聖霊を受けることによってである。水のバプテスマは聖霊のバプテスマと明確に区別され、正反対でさえあり、聖霊を受ける信仰の表明と理解されるのが一番よい。
第三部 パウロの手紙において、水のバプテスマと聖霊のバプテスマの区別はそれほど明確ではないものの、事情は全く同様である。
第四部 ヨハネ文書については、ペンテコステ派も礼典主義者も、立つべきより堅固な土台を持っているが、それぞれの神学の重さを支えるに十分堅固ではない。
第五部 ヘブル人への手紙と第一ペテロを最後に調べると、洗礼に与えてられてきた役割について、消極的な結論とより限定的な役割を確証させられる。

このように見てくると、a.~f.の主張は、ペンテコステ派に対してと、礼典主義者に対して、共にNoを突き付ける形になっていることが分かります。このような主張が、新約聖書各書において検討され、確かめられていきます。

聖化としての聖霊のバプテスマを強調する教団で育った者としては、その方面の見解をもう少し取り上げてほしいという気がしますが、おそらく、世界のキリスト教会の現状として、そのような立場を掲げる者が少数になっているのかもしれません。日本の福音派の中で、いわゆる「きよめ派」に属するグループは決して少数派とは言えませんが、世界的に見ればむしろ少数派に属するのでしょう。

私として注目したいのは、著者がペンテコステ派に対してNoを言うと同時に、礼典主義者(水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視する立場)に対してもNoを言っている点です。新約聖書の各部分について検討が進められる中で、常にこの二つの立場に対する著者の立場を明らかにしています。 

私としては、この両者に対してNoを言う結果、著者の主張には見かけよりはかなりラディカルな部分があるように思えます。本文各章の検討の中では、その辺にも少しずつ触れていければと思っています。

コメント
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