長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

2章 その1

2013-09-15 16:54:53 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第二部は、福音書を扱う部分です。第2章と第3章に分かれています。

第2章 「バプテスマのヨハネの期待」
第3章 「ヨルダンでのイエスの経験」

「聖霊のバプテスマ」という表現(ギリシヤ語では名詞形でなく動詞形)が見られるのは、新約聖書中7か所だけですが、そのうち4か所は、バプテスマのヨハネが語った言葉が四福音書に並行記事として記されているものです。ですから、バプテスマのヨハネのこの言葉から検討が始められるのは、自然なことと思います。

マルコ1:8では以下の通りです。

εγω εβαπτισα υ΄μας υ΄δατι,
αυτοσ δε βαπτισει υ΄μας πνευματι α΄γιω.

「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、
その方は、あなたがたに聖霊の(によって)バプテスマをお授けになります。」

マタイ、ルカでは、「聖霊によって」のところが、「聖霊と火とによって」となっています(マタイ3:11、ルカ3:16)。

ちなみに、聖書本文を記すこの部分、原文では英訳がつけられていません。おそらく、読者としては一般の読者を想定しておらず、研究者、神学者が想定されているのでしょう。

著者は、第2章でバプテスマのヨハネの言葉を調べるのに、以下のような三つのステップを踏みます。
(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」ということの本来的意味
(2)ヨハネの水のバプテスマの役割
(3)聖霊によるバプテスマについてのヨハネの予告はクリスチャン経験においてどう理解されるべきか
  (特にクリスチャンのバプテスマとの関わり)

今回は、(1)の部分を調べてみます。

(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」とは

著者は、この課題に取り組むにあたり、二つの問題に分けます。

a.その部分の本来の形は何か
b.その部分の本来の意味は何か

a.その部分の本来の形は何か

この部分は、現代の新約学者らしいテーマ設定と言えるでしょう。これは、19世紀終りに二つの再構成が行われ、その結果、多くの学者はヨハネが聖霊について語ったということを否定するようになったことを反映しています。つまり、本来は、火によるバプテスマについてだけ語ったのではないか、あるいは、風(霊と訳されるプニューマは、風とも訳される)と火によるバプテスマについて語ったのではないか、というものです。両者共に、バプテスマの比喩は、直後の火によるあおぎわけと破壊の比喩と同一のものとされます(マタイ3:12、ルカ3:17)。

これについては、二つの点に注目する必要があると著者は指摘します。

・バプテスマのヨハネは、単に怒りの預言者ではなかったという点

・クムラン集団が霊(神の霊)を洗いきよめる力として語っている点(ヨハネがクムラン宗団と接点を持っていたという仮説に基づく)

これらを踏まえ、著者はこう結論づけます。「ヨハネが風と火についてだけ語ったという示唆は魅力的なものではあるが、バプテスマのヨハネの言葉が本来Q資料のものであったことを否定する決定的な理由はない」(10頁)。Q資料とは、新約学者の間でマタイ、ルカ福音書の共通資料となったと考えられている資料ですので、「聖霊と火によって」というのが、本来の形であることを否定する理由はないという結論になります。

この部分、聖書観も関わってくる領域で、私自身はより保守的な考えを持ちますので、あまり考慮する必要を感じませんが、幅広い学者と対話するには必要になってくる部分なのでしょう。

b.その部分の本来の意味は何か

続いて「ヨハネが聖霊と火によるバプテスマについて予告したとき、彼は何を意味したのか」という問題に移ります。

まず、二つの伝統的解釈が紹介されます。
(ア)燃え上がらせ、きよめるバプテスマ―純粋に恵み深い聖霊の注ぎについて語った。(クリソストムス)
(イ)二重のバプテスマ、すなわち、義なる者については聖霊のバプテスマ、不義なる者については火のバプテスマについて語った。(オリゲネス)
(両者共に、本当に「伝統的」!)

著者は、両者共に不適切であると言います。

(ア)に対しては、ヨハネの説教の特徴的な点として差し迫った裁きと怒りがあること、「火」は目立った用語であり、刑罰的滅亡の火をも意味するものであることを指摘し、「聖霊と火によるバプテスマ」は、単に恵み深いものというだけでなく、少なくとも裁きと滅亡の行為を含んでいるに違いないと言います。

(イ)に対しては、ヨハネがきたるべき方のバプテスマを自分自身のバプテスマの補完また成就としてみなしている点をまず指摘します。

εγω υ΄μας βαπτιζω (εν) υ΄δατι
αυτοσ υ΄μας βαπτισει εν πνευματι α΄γιω.
(原文には引証個所が示されていません。「Q資料」という意味なのでしょうか。και πυριがなぜないのかも不明です。次の論証のためには、あったほうがよいと思うのですが・・・。)

そして、第一に、「εν」(英語でいえば、in や with)は両方の要素にかかっているので、将来のバプテスマは聖霊と火による単一のバプテスマであり、聖霊のバプテスマと火のバプテスマとの二つのバプテスマが考えられているのではないことが指摘されます。

第二に、ヨハネのバプテスマときたるべき方のバプテスマが同じ人々「あなたがた」に対してなされていることが指摘されます。すなわち、聖霊と火のバプテスマは、ヨハネのバプテスマの代替物として提供されるのではなく、また、聖霊と火のバプテスマを避けるためにヨハネのバプテスマを受けるのでもないのであって、ヨハネのバプテスマはメシヤによる聖霊と火のバプテスマに備えるためのものであるということです。この場合、きたるべき方のバプテスマは、ただ刑罰的、滅亡的なものではありえません。ヨハネによって悔い改め、バプテスマを受けた者は、究極的には恵み深いバプテスマを受けなければなりません。要するに、ヨハネが将来のバプテスマについて語ったとするなら、そこには福音と裁きの両方があるということです。

さて、このあたりまでの議論は、伝統的解釈(ア)(イ)が不適切であることを立証するものとして展開されてきていますが、この後、ここまでの議論を受け継ぎながら、著者自身の見解を述べていきます。ところが、すぐにでも結論が示されそうな気配でありながら、ここからかなり長い議論が続き、旧約聖書の森に分け入っていくような展開になります(11頁~14頁)。それらしい予告なしにこの議論が進められて行きますので、途中で目も眩むような思いになるのですが、よくよく考えると、ここでの議論はかなり大切な議論であることが分かります。それで、回を改めて、この議論を追ってみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1章 その3

2013-09-09 19:50:33 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(4)「回心-入信式」という用語について

第1章(概説)の後半では、この章の前半で既に使われてきている「回心-入信式(Conversion-initiation)」という用語について説明されます。この用語は、著者が本書でクリスチャンになるという出来事を表現するために用いるものですが、著者自身、「優雅でない」ことを認めています。にもかかわらず、この表現を用いるのは、ただ思考の明晰さを目的とすると、著者は言います。

クリスチャンになることを表す普通の短い表現としては、「バプテスマ」があります。ところが、「バプテスマ」という表現は、らせん状の構造を持った表現であって、実際に水に浸す行為を表すこともあれば、その意味が儀式を越えて、「回心-入信式」の諸儀式や構成要素をより大きく含むものとして拡大させられることもあります。このため、この表現を用いることにより、思わしくない色々な結果が生まれうることを著者は示唆します。

また、バプテスマという言葉が、文字どおりにも比喩的にも用いられるにも関わらず、新約聖書ではこれらの用法が全く区別されていることも著者は主張します。にもかかわらず、同じバプテスマという用語を用いることによって、両者の用法の区別があいまいにされることを警戒するわけです。また、正確さのためには、水のバプテスマを、口での告白や按手などの儀式的行為から区別したいとも言います。

このようなことから、著者は、次のように用語を定義します。

a.回心(conversion)=クリスチャンになるという全体的出来事のうち、より内的、主観的、(神秘的でさえある)側面。たとえば、悔い改め、赦し、キリストとの結合のような。
b.入信式(initiation=クリスチャンになるという全体的出来事のうち、回心とは区別される儀式的、外的行為。
c.上記のように定義された用語によって、クリスチャンになるということは、「回心」と「入信式」の両方を含むことになり、その意味で「回心-入信式」と呼ぶ。

このようによく考え抜かれた用語を使うことにより、著者の主張が明確に、誤解の余地のないものとして伝えられることになります。取り上げられているテーマは複雑で、その周りを種々の議論が渦巻くような種類のものであるにも関わらず、本書全体を通して、著者の議論が常に明晰なものとして伝わってくることの一つの理由がここのあるように思われます。

ただ、これらの用語使用に対しては、小さな疑問も感じないわけではありません。

一つには、これらの用語使用の中に、既に結論への示唆が込められているのではないかという問題があります。「ここでの私の唯一目的は、思考の明晰さである」と著者は言います(7頁)。確かに、意図を明確に伝えるためには、とても有効な方法であると感じます。しかし、続いてこう記されます。「選ばれた用語は、『回心』と『入信式』との間の関係が、区別されるものであるか、同時のものであるか、同意のものであるかということについて、先入観をもたらすものではない。」

この点については、これらの用語が定義されるに当たって著者が説明したところを振り返ってみると、「どうかな?」という感想を持ちます。著者は、「回心」と「入信式」という言葉を、両者が明確に区別されるために定義づけたわけですから、これらの用語が明確に区別されるものとして意識づけられて当然です。また、これらの用語が用いられることによって、「クリスチャンになる」と言う事の中に、この二つの明確に区別される要素があるという主張を、読者は自然に想定するのではないでしょうか。

もう一つは、著者が言うように、「バプテスマ」という言葉が、常に、水の洗礼そのものを指す場合と、比喩的
に用いられる場合と、明確に区別されていると言えるのだろうかという点です。特にローマ6章における「バプテスマ」では、両者の意味合いが微妙につながっているような気がするのですが、この点は、著者自身によってこの個所が検討される部分を扱うときに、注意して吟味してみたいと思います。

もしかしたら、バプテスマと言う表現が、らせん状の構造を持った用語であるからこそ、新約聖書であえてこの用語が用いられているのではないか、そうだとしたら、「回心-入信式」という用語を用いることによって、その部分の微妙な意味合いが見失われてしまう危険性はないのか、その辺にも注意しながら、今後の議論を吟味していきたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1章 その2

2013-09-07 09:56:19 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(3)本書の概要


前回の(2)でまとめられていたような歴史的経緯を受けて、新約聖書学者として、著者は以下のような問いを立てます。

・ペンテコステ派が「聖霊のバプテスマ」という表現が意味すると理解していることは、新約聖書がその表現によって実際に意味することなのか。
・聖霊のバプテスマは、「回心-入信式(Conversion-initiation)」と分離させられるべきであり、クリスチャン生涯の始まりは、明確な二段階によってこのように区分されるべきなのか。
・聖霊のバプテスマは、クリスチャンになることとは本質的に違う何かであり、それゆえ、長年のクリスチャンでさえも、聖霊のバプテスマを受けていないという事があるかもしれないのか。

著者は、このような問いに対して答えを見いだすために新約聖書を調べ直すことが本書の主要課題であることを明らかにします。そして、要約的に言えば、クリスチャンになるという複雑な出来事の全体において、聖霊のバプテスマがどのような位置を占めるのかを見つけたいのだと言います。

但し、このような問いに答えるためには、単にペンテコステ派との論争というよりも、より広い議論が余儀なくされることも指摘します。というのは、ペンテコステ派以外では、聖霊のバプテスマと水のバプテスマと言うクリスチャンの礼典とを直接的に同一視することが多いからです。(但し、聖霊の二回の賜物を区別する者もある。すなわち、第一は「回心-入信式」の時、第二は、その後の時期に、堅信礼等において。)従って、著者は自分の位置を二つ、あるいは三つ四つの異なる立場に対して定義づけるつもりであることを明らかにします。

その後、著者は自分の主張の概要を述べます(4頁)。

a.新約聖書の著者たちにとって、「聖霊のバプテスマ」あるいは「聖霊の賜物」は、福音の有効的宣言、主なるイエスへの信仰、主イエスの名によるバプテスマと並んで、クリスチャンになるという出来事(あるいは過程)の一部である。
b.聖霊のバプテスマは、「回心ー入信式」において、主要な要素であるので、それによって聖霊を受けた者だけがクリスチャンと呼ばれうる。
c.聖霊を受けることは、非常に決定的かつしばしば劇的な「経験」(原文イタリック)であり、「回心ー入信式」において、決定的かつクライマックス的経験である。
d.従って、聖霊のバプテスマのダイナミックで経験的な性質についてのペンテコステ派の信念は、十分立証されるが、ペンテコステ派における聖霊のバプテスマと「回心-入信式」との分離は、全く正当化されえない。
e.逆に、水のバプテスマは、「回心-入信式」の複雑さの中で重要な要素ではあるが、聖霊のバプテスマと同一視されたり混同されてはならず、その複雑な出来事の中で最も重要な部分とされてはならない。
f.「回心ー入信式」における高い部分は、聖霊の付与であり、クリスチャン生涯の始まりは、聖霊のバプテスマから判断されるべきである。

続いて、本書の本文が以下のような順序で進められると予告されます(4、5頁)。

第一部
第2章 聖霊のバプテスマは当初から入信的経験として理解された。
第3章 イエスご自身においてさえ、ヨルダン川での聖霊の注ぎは入信的であり、ヨハネの水のバプテスマは、聖霊の付与の準備に過ぎず、聖霊の付与と融合されてはいない。
第二部 ペンテコステ派の教理は、主に使徒行伝に基づいているが、詳細な研究によれば、使徒行伝の著者にとって、人がクリスチャンになるのは聖霊を受けることによってである。水のバプテスマは聖霊のバプテスマと明確に区別され、正反対でさえあり、聖霊を受ける信仰の表明と理解されるのが一番よい。
第三部 パウロの手紙において、水のバプテスマと聖霊のバプテスマの区別はそれほど明確ではないものの、事情は全く同様である。
第四部 ヨハネ文書については、ペンテコステ派も礼典主義者も、立つべきより堅固な土台を持っているが、それぞれの神学の重さを支えるに十分堅固ではない。
第五部 ヘブル人への手紙と第一ペテロを最後に調べると、洗礼に与えてられてきた役割について、消極的な結論とより限定的な役割を確証させられる。

このように見てくると、a.~f.の主張は、ペンテコステ派に対してと、礼典主義者に対して、共にNoを突き付ける形になっていることが分かります。このような主張が、新約聖書各書において検討され、確かめられていきます。

聖化としての聖霊のバプテスマを強調する教団で育った者としては、その方面の見解をもう少し取り上げてほしいという気がしますが、おそらく、世界のキリスト教会の現状として、そのような立場を掲げる者が少数になっているのかもしれません。日本の福音派の中で、いわゆる「きよめ派」に属するグループは決して少数派とは言えませんが、世界的に見ればむしろ少数派に属するのでしょう。

私として注目したいのは、著者がペンテコステ派に対してNoを言うと同時に、礼典主義者(水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視する立場)に対してもNoを言っている点です。新約聖書の各部分について検討が進められる中で、常にこの二つの立場に対する著者の立場を明らかにしています。 

私としては、この両者に対してNoを言う結果、著者の主張には見かけよりはかなりラディカルな部分があるように思えます。本文各章の検討の中では、その辺にも少しずつ触れていければと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1章 その1

2013-09-05 18:59:10 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(1)本書執筆の背景


この本の執筆の背景については、短い「はしがき」(Preface)の最初に、こう記されています。「この研究論文は、主として新約聖書研究である。しかし、この研究は過去10年においてペンテコステ主義への関心とその影響とが増大してきたことが誘因となった。」1970年発行ですので、1960年代当時のイギリスの状況を背景にしているものと思われます。


(2)「第2の恵み」についての歴史的経緯


第1章は、"Introduction"となっていますが、「序文」と言うより「概説」と訳したほうがよいような内容です。

著者は、この章の最初で、キリスト教の歴史の中で、救いが二段階で経験されると考える伝統が生まれてきた経緯について記します。

a.ピューリタン-ウェスレー-ホーリネス運動-ケズウィック・コンベンション

・救いの二段階における経験について背景となったのは、敬虔主義的プロテスタントである。
・多くのピューリタンにとっては、第二の経験は、確証の経験であった。
・ウェスレーにとっては、第一段階は義認と部分的聖化であり、第二の経験は全的聖化という神の賜物あるいはキリスト者の完全であった。
・ピューリタンからメソジズムを通っての直接的流れは、「より高い生涯」というメッセージを伴う19世紀ホーリネス運動に至る。
・ホーリネス運動の最も活発な所産であるケズウィック・コンベンションは、その「第二の恵み」の教えで知られてきた。
・これらの伝統において、聖霊のバプテスマの概念はしばしば第二の段階に関連付けられてきた。(トーマス・グッドウィン、ジョン・フレッチャー、初期の「より高い生涯」の教師たち。)

b.聖化から奉仕の力への強調点移行

・19世紀終り頃、特にアメリカで、「聖霊のバプテスマ」という表現使用の強調点が、次第に、「聖化とホーリネス」の概念から「奉仕のための力」の概念にシフトした。
・同時に、アメリカでは、次第に霊的賜物への関心が増大し、幾人かの主要なホーリネスのリーダーたちは、これらの賜物が教会の中でなお働くことができるし、そうであるべきだと教えた。

c.ペンテコステ運動

・上記のような文脈から直接生まれたのが、ペンテコステ運動であった。
・ペンテコステ運動は、十分な規模の運動としては、1906年に始まったロサンゼルスのアズサ・ストリートでの一連の集会から始まっている。
・しかし、その始まりは、トペカ聖書学校にまでさかのぼることができる。19世紀の終わり、ペンテコステ派の際立った信念が最初に十分に定式化された。すなわち、「使徒時代において、ある人が聖霊のバプテスマを受けたという最初の身体的証拠とみなされたのは、異言を語ることであった」という信念である。
・ペンテコステ派は、今や世界大の影響力を持つ運動となった。更には、1960年以降、ペンテコステ派の教えは、古い教派の中にも重要な浸透をなした。このような結果、ペンテコステ派の教理を詳細に調べることが避けられなくなった。

前回書きましたように、私も「第二の恵み」については、神学校の卒業レポートのテーマとして選んだ者です。私なりに色々な文献に当たって、かなり苦労した結果、その歴史的変遷についてある程度把握できるようになりました。けれども、この概説部分の最初の2頁で、私が苦労して把握したその内容が、簡潔明瞭、また的確に要約されていて、大変びっくりしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本書との出会い

2013-09-02 17:55:15 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

このコーナーでの2冊目の本は、洋書です。

James D. G. Dunn "Baptism in the Holy Spirit" The Westminster Press,1970


「洋書も読むの?」と言われそうですが、驚くなかれ、私としてはきちんと読んだ2冊目の洋書でもあります。(洋書はまだ2冊しか読んだことがないということ。)

このコーナーの問題意識としては、「福音とは何か」「救いとは何か」ということですが、この本は、「聖霊のバプテスマ」という視点から「救いとは何か」という問題を掘り下げた本、ということができるでしょう。


(1)この本との出会い


この本を購入したのは、神学生時代です。4年生時、自分でテーマを決めて卒業レポートを書かなければなりませんでした。私が選んだテーマは、「第二の恵み」。私が所属する教団では、「第二の転機としてのきよめ」が強調されてきましたので、このようなテーマが自然に私の中で問題意識として固まっていました。

実は、私が所属する教団では、この「第二の転機としてのきよめ」を別の角度から表現した言葉として、「聖霊のバプテスマ」という言葉が使われてきてもいました。ですから、私の卒業レポートでは、「きよめ」についてと共に、「聖霊のバプテスマ」についての検討をしました。

このレポートをまとめるために、色々な本を購入したり、読んだりしました。日本の文献だけでは限界もあると思い、キリスト教書の洋書カタログの中から「聖霊のバプテスマ」をテーマとしていそうな本を、タイトルだけから判断して何冊か購入しました。その中の一冊が本書だったわけです。ちなみに、購入した別の本は、今見てみると、本書に対する反論として書かれた本のようで、これもびっくり。(まだ読んでいませんが。)

ところで、当時購入したものの、この本は長い間読まれないまま本棚に眠ることになりました。自分の英語力からすると、この本を読みこなす余裕がないように思えたことも、もちろんあります。それと共に、私のレポートのテーマは、「第二の恵み(転機)」です。「第二の転機」としての「聖霊のバプテスマ」について検討するのに役立ちそうな本を探していたわけですが、ざっと見た所、この本は、「第二の転機としての聖霊のバプテスマ」という考えをばっさり拒絶する内容に思えました。それで、せっかく購入したこの本を読まないまま、卒業レポートを書いたわけです。

神学校卒業後、20年。ある牧師が、「聖霊のバプテスマ」についての聖書神学的研究の最重要図書としてこの本を紹介しました。びっくりしました。「あの本が!」というわけです。こうして、本棚に眠っていたこの本は、20年振りに手に取られ、読まれることになりました。


(2)このコーナーで取り上げるにあたって


本は、テーブルに辞書(英和、ギリシヤ語)や聖書(日本語、ギリシヤ語)を並べながら、どうにかこうにか読み終えました。内容的には、私の問題意識から言っても非常に刺激に富んだ本でした。とは言っても、このコーナーで取り上げるには、それなりに躊躇もあります。1つには、自分の英語力、ギリシヤ語力から言って、この本の論旨を100%理解できた自信はないからです。

もう1つは、この本には続編があるかもしれないのです。この本の最後には、この本の結論がもう一つの基本的問題を提起することになる、ということが記されています。そして、この課題について、本の末尾にこう記しています。「もし神が望まれるなら、やがてこの課題について取り上げるであろう。なぜなら、その課題は、本研究の必然的続編だからである」。(229頁)

私としては、この続編をぜひ読みたいと思っています。それは確かに重要なテーマであり、著者がこの課題にどう答えているか、興味深いところです。(本になっているのかどうか、また本になっているなら、どんな結論を著者が提示しているのか、ご存じの方がありましたら、教えてください。)

というわけで、この大切な続編を読まないうちに、前編に過ぎない本書だけを読んで、あれこれ評価するのは、妥当とは言えないかもしれない・・・そんな気持ちもあります。

ただ、それでもあえてこのコーナーで取り上げていきたいと思ったのは、せっかく苦労して読んだ洋書も、時間が経つと段々内容を忘れていくだろうからです。まだ記憶が残っているうちに、自分なりに内容を咀嚼し、色々と問題点を整理していきたい・・・そんな風に思って、勇気を出してこのコーナーで取り上げることにしました。

とは言え、作業が困難をきたすであろうことは目に見えています。もしかして、途中で断念することになるかもしれませんが、その時はご容赦頂きたいと思います。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする