長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「ガリラヤから始まる神のみわざ」(マタ4:12-22、2015年3月1日、笹谷教会にて)

2015-03-05 20:18:28 | メッセージ

イエス様の宣教の働きはガリラヤから始まりました。ガリラヤは、都エルサレムから見ればはるか北にあり、言わば田舎です。しかし、そんな所からイエス様はお働きを始めなさいました。そこには意味があるのではないでしょうか。

特にマタイは、そのことを強調しているようです。イエス様はガリラヤで宣教を始められただけでなく、復活後再びガリラヤの山に弟子たちを呼び寄せられました。そして、そのところで弟子たちに「行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」と、大宣教命令をお与えになりました。マタイもガリラヤ出身だったからでしょうか、どうもマタイは、神様のみわざがガリラヤから始まったのだと強調しているようです。しかし、イエス様はなぜガリラヤから働きを始められたのでしょうか。そこにはいくつかの意味が見出されるようです。

1.暗やみの中でこそ光は輝く

イエス様の宣教はガリラヤから始まりました。マタイはそのことを記しながら、イザヤ書の言葉を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地…異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(15、16節)。イエス様がガリラヤの地で宣教を開始されたとき、それは、このようなイザヤの預言が成就したことなのだと言うのです。

当時、ガリラヤは田舎というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれました。度々異国人の侵略を受け、混血の人々も多かったようです。宗教的にも混乱していました。道徳的にも、宗教的にも闇が覆う地、そんなイメージがあったようです。そのような地にイエス様は宣教を始められました。それは、暗闇の中に光が輝く出来事であったと言います。しかし、裏返して考えるならば、光が明るく輝くことのためにイエス様はあえてこの地を選ばれたと言えないでしょうか。

昼間街灯がついていることがあります。しかし、ほとんど人々に気づかれることはありません。他方、真夜中、街が闇に閉ざされた中で街灯がついていたならばどうでしょう。暗い足元を照らす貴重な光となります。今、私たちの周りを闇が覆っていると感じるかもしれません。霊的に深い闇があるように思えるかもしれません。そうだとしても、否そうであればこそ、神様はご計画をもってみわざを進めてくださるのではないでしょうか。

2.無学なただ人を通して神様のみわざは進む

18節以降には、イエス様がガリラヤ湖畔を歩きながら、ガリラヤの漁師達を招いて弟子とされる様子が描かれています。ペテロ、アンデレ兄弟もそうですし、ゼベダイの子ヤコブとヨハネもそうでした。後に使徒とされたパウロは、パリサイ人であり、ユダヤ人の中ではエリート的な存在でした。しかし、彼らは、特に学があるわけでもない、ただの漁師たち。そんな彼らの中からまず弟子集団が作られました。不思議と言えば不思議です。しかし、後に、彼らがエルサレムで聖霊を受け、人々に大胆にイエス様を証したとき、人々は驚いて言いました。「無学な普通の人ではないか」。彼らがイエス様と一緒にいた人々だと分かったとき、人々の目は彼らを越えてイエス様に向けられることになりました。

後に、パウロはコリント教会宛の手紙に書きました。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者たちは多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリ1:26-28)。

私たちはしばしば、「神様用いられるために、自分にはあれが足りない、これが足りない」と考えやすいです。しかし、むしろ人間的に足りないところ多い者を神様はあえて用いられることがあります。そこに栄光の光が輝くことがあります。神様のみわざのそのような側面を覚える必要があります。

3.イエス様は人々を遠くからでも引き寄せられる

23節以降には、イエス様の宣教の働きがガリラヤ地方一帯広まる様子が描かれています。その影響はガリラヤ地方だけにとどまらず、「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った」(25節)と言います。ガリラヤのような田舎で働き始めてどんな働きができるかと私たちは考えます。しかし、「イエス様の教えはすばらしいそうだ」、「どんな病気も癒すそうだ」、そんな噂がたちまち広がり、遠くからも人々が押し寄せたのです。

もちろん私たちはイエス様ではありませんから、高邁な教えを語ることができないかもしれません。癒しの奇蹟が度々現わされるということもないかもしれません。しかし、無学なただ人であるガリラヤの漁師たちが、聖霊に満たされ、日々イエス様共に歩んでいた者たちであることが注目されたとき、人々は感じ取ったのではないでしょうか。「ここに希望の光がある、ここに求めるべきものがある」と。

今この時代、神様がみわざを始めようとしておられるガリラヤの地はどこでしょうか。私たちの思いを越えて働かれる神様を覚えましょう。そして、小さな私たちであったとしてもが、その存在が人々に希望の光を与えるものとなりますように。

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