長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「迷える羊への招き」(ペテロ第一2:21-25、2015年7月12日、北大阪教会にて)

2015-07-12 17:43:34 | メッセージ

聖書中、人間と神様との関係はしばしば羊と羊飼いの関係に譬えられています。以下の箇所もまさにそのような箇所の一つです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)「魂の牧者であり、監督者である方」とは、天地を造られた神様です。神様を離れ、さまよっていた迷える羊であったあなたがたが、羊飼いである神様のところに帰ってきたのだと言います。今も神様の目には、言わば多くの迷える羊の姿が映っているのではないでしょうか。「帰って来なさい」という、迷える羊に対する神様の切々として訴えに耳を傾けましょう。

1.迷える羊

学生時代、夏目漱石の「三四郎」を読みました。主人公が出合った不思議な雰囲気を持つ女性が残した「迷える羊」という言葉が、小説全体のテーマとなります。確たるものを持ち得ず、いつも迷い、戸惑う人間の現実が描かれていました。聖書は言います。人は皆迷える羊だと。羊の幸せはどこにあるでしょうか。羊飼いのもとにあります。人間がおるべき所は、私たちの造り主なる神様のもとにあります。そこで、全能者にして愛なる神様に守られ、養われ、導かれる・・・そこに、私たちが安心して、幸せに生きる道があります。神様から離れ、さ迷ってしまっている・・・そこに人間のあらゆる問題の根源があるのだと、聖書は言います。

2.戻るための道

迷える羊に対して、神様は常に呼びかけます。「戻って来なさい」と。しかし、迷える羊は、「戻ってきなさい」と言われても戻ることができない存在でもあります。戻る道が分からなくなっている、分かったとしても、神様に背き離れて生きてきた生き方を今更変えることができないということもあるでしょう。同時に、神様に背いて生きてきた現実は、ただでは神様のもとに帰ることができないということをも意味します。そのような迷える羊のために、神様は、ご自身に戻るための道を自ら備えてくださいました。それが、御子イエス・キリストの遣わされた理由です。

実は、ペトロはここで、手紙の読者に、不当な苦しみを受けても耐え忍ぶことを勧めています。その模範としてイエス様を指し示しています(21節-23節)。神の御子が人となり、人として歩まれたお方、罪なくきよいお方、そのお方が受けるはずの理由のない、不当な苦しみを受けられます。そして、その最後には、極悪非道の犯罪者だけに与えられるはずの十字架刑に処せられます。なぜでしょうか。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです(24節)。実に、私たちのために、御子はその苦しみを担ってくださいました。その苦しみは、私や皆さん一人一人のためであったと言います。

神様を離れ、神様に背き、自分勝手に、自己中心に生きることを、聖書では「罪」と言います。そのような罪の中を生きてきた私たちの、その罪を背負い担って、死なれた・・・それがイエス様の十字架です。十字架に死なれたイエス様は、神の御子としてよみがえり、今も生きておられる救い主、主です。このお方を信じ仰ぐとき、過去の一切の罪が赦され、新しく神様のもとで生きていくことができる・・・神様はそのような道を神様の側で開いてくださいました。道を開いて下さった上で、「帰って来なさい」と招いてくださいます。

3.神様の招き

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)羊飼いから離れた羊ほどみじめな者ない、羊飼いのもとで、安心して、喜んで、生きていかないかと、神様は日々招いてくださいます。この主のもとに立ち返る者が起こされますように。

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