長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「大いなる光を見た」(イザヤ9:1-7、2016年12月4日、神戸聖泉教会にて)

2016-12-04 18:05:51 | メッセージ

イザヤ9章を開きました。イエス様誕生の700年以上前、預言者イザヤがメシアの誕生を預言した箇所です。今回特に2節に注目したいと思います。

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」(イザヤ9:2)

「先行き不透明時代」と言われますが、イザヤの時代もそうでした。イスラエルの国は、周辺諸国に攻められ、大国の勢力も拡大しつつあり、暗雲垂れ込める状況でした。そのような中で、イザヤはどうして「大いなる光を見た」と言うことができたのでしょうか。

1.暗やみの現実を見ていたから

第一のことは、逆説のようですが、イザヤが暗やみの現実をしっかりと見ていたからではないでしょうか。「大丈夫じゃない?」と、気休めを言うことは簡単です。しかし、そういった言葉が説得力を持つためには、現実を見据えた言葉である必要があります。

イザヤは現実の闇の深さを知っていました。8章後半には、北イスラエル王国がやがては大国アッシリアに滅ぼされ、「見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり」(8:22)という状況が訪れることが記されます。その意味で、イザヤはこれからどんな闇が覆うようになるか、その厳しい現実を見据えた上で、そのような闇を貫き通すような形で「光を見た」と言いました。9:1に出て来る様々な地域は、アッシリアに滅ぼされる諸地域であって、そのようにして闇が覆うようになるその只中に、光が照るようになるのだ、と言いました。

しかも、イザヤは、そのような闇の背後にあるものを見抜いてもいました。神様に背く人の罪こそこのような暗黒の源であると、預言書の中でしばしば指摘しました。そこまで見ていたイザヤだからこそ、逆に説得力をもって「光を見た」と言い得たのではないでしょうか。

2.地上に現実に現われる神の救いを見ていた

第二に、イザヤが見ていた救いは、地上に現実に現われるものでした。決して絵空事でなく、神の救いのみわざが、地上の歴史の中で一人の方の誕生を通して行われると告げました。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:6)

夢物語ではありません。空想話でもありません。歴史の現実の只中でのことなのだ、と言います。

数年前、イスラエルに行かせて頂く機会がありました。ガリラヤ湖畔に立って、ここで嵐が起こり、イエス様が静められたのだ、エルサレムに行っては、このところでイエス様が十字架につけられ、死なれた、収められた墓は、ここだろうか、と見させて頂きました。少年時代を過ごされたナザレの町は、小さな町ですが今でも残っています。町中を歩きながら、少年イエスはこのあたりを走り回っておられたのだろうかと、不思議な感じがしました。イエス様が赤ん坊として誕生され、成長し、この地上で30数年生きられたということは、現実のことだったという、当たり前のことを心に深く刻む時でした。

信仰の歩みをしておりましても、時に神様の愛はどこにあるのか、と言いたくなることがあります。神様の救いは確かな事なのかと、問いかけることもあるかもしれません。しかし、イエス様の生涯、十字架上での死、そして復活は、神様が起こしてくださった現実です。神様の救いは現実であり、神様の愛は、これらの歴史的事実の中に証しされています。私たちの希望の根拠はそこにあります。

3.天からの救いを見ていた

第三に、イザヤは天からの救いを見ていました。イザヤがその誕生を示したメシアはどのような方だったでしょうか。

「まつりごとはその肩にあり」(6節)、「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め…」(7節)後の時代、ユダヤ人にとってこれらの言葉は特に大切なものとなりました。大国に滅ぼされ、他国の支配下に置かれた中で、ダビデの子、民族的解放者、政治的な王としてのメシアを求めました。

しかし、よく見ると、このところに記されているのは、ここに言われている方がそれ以上の方であるということです。「その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。人を越えたお方、天からの方、永遠なる方、神ご自身です。

地上には人間ではどうすることもできない事が沢山あります。その奥底には人間の罪と死の現実が大きく横たわっています。これらの問題の根本的解決を地上にさがしても見つけることはできません。天から、神様だけに解決があります。イザヤは単なる地上的な救いではなく、天からの救いを見ていました。

4.救いの背後にある神様の思いを見ていた

第四に、これらすべてのことの背後にある神様の御思いを見ていました。「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9:7)千々万々の天使率いる万軍の主なる神様ですから、当然のことながら何でもおできになります。ちょっと指を動かせば宇宙さえ揺り動かすことがおできになります。そのお方が、気紛れではない、熱心をもってこれをなさるのだと言います。私たちを罪から救い、私たちに御国を与えるこの救いは、決して気紛れでのことではない、大能の神が本気を示して行われたもの。

だからこそ、神様がここに示された光は、途中でふっと消えてしまうものではない、私たちを新天新地、永遠の御国に至るまで導き入れることのできる光です。

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