4月は新しい出発の時期。緊張しながら日々を過ごしておられる方も多いことでしょう。しかし、少しずつ落ち着いた日々に向かっていかれることと思います。そんな中、改めて考えてみたいのは、神様が私たちに与えておられる使命についてです。
復活の主にお出会いしてまずなすべきは礼拝でしょう(28:17)。同時に、礼拝は宣教に向かいます(29:19、20)。二千年前、ガリラヤの山の上で弟子たちを宣教に遣わされた復活の主は、この日、私たちをも同じように遣わそうとしておられます。
1.宣教に遣わされるお方
復活の主は、開口一番、こう語られました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(28:18)死に打ち勝たれた主にとって、天においても、地においても、その権威が及ばない場所や領域はありません。そのようなお方に個人的にお出会いするならば、このお方を礼拝するのみならず、そのお方の御声に聞き、「私は何をなすべきでしょうか」と尋ねるのが自然であり、当然なことです。
2.宣教の範囲
「行って、すべての国民を弟子として」(28:19)。宣教の対象はすべての国民、宣教の範囲は全世界。「宣教師」は、このことを真剣に受け止め、御声に聞いて異国に遣わされていく人々です。しかし、全世界の中には、日本も含まれます。日本の中には私たちのすぐ隣のあの人も、この人も含まれます。そのような方々にイエス様を証しするよう、私たちも主から遣わされているのです。
3.宣教の目標
「弟子として…バプテスマを施し…いっさいのことを守るように教えよ」(28:20)。宣教の目標は、伝えるだけにとどまりません。伝えられた人々が、イエス様を信じ、弟子として生きるようになること、バプテスマを受け、イエス様の御言葉に生きるようになることまでを含みます。そうだとすれば、伝える者の生き方が変えられつつあることが大切です。未熟な所は多々あったとしても、昨日よりは今日、今日よりも明日と、イエス様によって造り変えられつつ、イエス様を証しして参りましょう。
4.派遣に伴う約束
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(28:20)イエス様は私たちを遣わし放しにはされません。「共にいる」とのお約束をもって遣わされます。厳しいこの社会で主を証しすることに、困難を覚えたり、弱さを覚えたりしたとしても、主が共におられるなら、私たちは使命を果たし行くことができます。
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