長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」第11回 新しく生まれる

2022-03-24 20:49:16 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十一回 新しく生まれる

ヨハネ三・一‐一五

 

 前回は、イエス・キリストが語られた神の国についての福音を学びました。その中で、当時のユダヤ人の間で、神の国についての期待はいろいろなイメージを伴っていたことを学びました。今回登場するパリサイ人も、何らかのイメージで神の国の到来を期待していた一人であったことでしょう。しかし、どのような人が神の国に入ることができるのかについて、キリストが語られたことは彼の期待とはかなり違っていたようです。それは、どのようなことだったのでしょうか。

 

一、新しく生まれなければ

 

 彼はニコデモという名のパリサイ人でした。ユダヤ人の指導者の一人であり、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人議会の議員でもありました。そのような彼が夜、イエスのもとを訪れたと言います。主イエスがなさっておられた色々な奇跡のみわざについて聞いたのでしょう。主イエスのもとに来て、彼はこう語りかけます。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ三・二)

 ニコデモは、「この方は神がともにおられる方だ」と考えました。そして、彼の知りたかったことについても教えてくれると期待したようです。しかし、主イエスは彼が質問を始める前に、こう言われました。

 

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ三・三)

 

 おそらく、ニコデモは神の国について知りたく思っていたのでしょう。そして、イエス様はそのことを見抜かれたのでしょう。神の国を見る条件について語られました。しかし、それはニコデモが予想していたこととは違っていたようでした。

 イエス様は「新しく生まれなければ」と言われました。当時、パリサイ人と呼ばれる人々は、神の国到来への期待を、律法の遵守に関わらせて考えていたようです。そのために、律法の解釈、生活上の適用について、彼らは多くの議論を重ねていました。彼らの議論は、時に律法の本質とは随分離れたところに進んでしまうこともあったようです。いずれにしても、彼らは自分たちがよりよく律法にかなうことができれば、その延長線上に神の国到来を期待することができると考えていました。

 しかし、イエス様がニコデモに語られたのは、「新しく生まれなければ」ということでした。まるで、「今のあなたの生活の延長線上に神の国はない」と言っておられるかのようでした。「新しいいのちが必要だ」ということでした。

 これまで見てきたように、イスラエルの民は律法を与えられながら、それを守ることができず、国が滅ぶ事態にまで至りました。その中で預言者たちは、メシアの到来について語り、新しい契約について語りました。それは、彼らがそのままでは神の国を見ることができないことを意味していました。

これは、私たちにもそのまま当てはまることではないでしょうか。良いことが分かっていてもそう生きることができず、悪いと思いつつその道に迷い込んでしまう私たち。イエス様は私たちにも言われるのではないでしょうか。「新しく生まれなければ」と。

 

二、御霊によって生まれる

 

 「新しく生まれなければ」と言われたニコデモは、その意味を理解することができませんでした。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(ヨハネ三・四)彼はどうやら、主イエスが言われた「新しく生まれる」とは、赤ん坊として生れ直すことを意味すると考えたようです。しかし、イエス様が語られたのは、もちろんそういうことではありませんでした。

 

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ三・五‐八)

 

 まず、「水と御霊によって生まれなければ」と言われました。この箇所の前に記された、主イエスの洗礼の記事に照らして考えると、これは、罪の悔い改めのしるしとして受ける「水のバプテスマ」、信じる者に与えられる「御霊によるバプテスマ」と関係しているようです(ヨハネ一・三二、三三)。

 イエス様は続いて、特に「御霊によって生まれる」ということについて教えられました。これはすなわち、聖霊によって新しく生まれることについての教えです。ニコデモは、主イエスのお言葉が飲み込めず、怪訝な顔をしていたのでしょう。イエス様は、風をたとえにして教えられます。風は目に見えません。ただ、その音を聞きます。あるいは、風が動いた結果、物が揺れるのを見ることはできます。聖霊の働きも同様だと言われます。

それまで神様のことを知らなかった人が教会で聖書の言葉に触れます。最初は関係ないように思っていても、ある頃から聖書の言葉が彼(彼女)の中で働き始めます。いつの間にか、彼(彼女)はイエス・キリストを信じ、神の御心の道を歩き始めます。その経過のどこかで彼(彼女)は新しく生まれたのです。聖霊による新しいいのちを頂きました。詳細は十分理解できなくても、聖霊によって新しく生まれるということは確かに起こることです。

 

三、信じる者がいのちを得る

 

 主イエスのお言葉にも、ニコデモの疑問は晴れなかったようです。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」と尋ねます。イエス様はその無理解に多少なりとも驚きつつ、主イエスはこのようなことを語られます。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ三・一四‐一五)

 

 「人の子」とは、イエス様がご自分をさしてよく用いられた表現です。「人の子も上げられなければなりません」とは、福音書を最後まで読むと、キリストが十字架に挙げられ、人々の贖いを成し遂げることをさしていると分かります。

「モーセが荒野で蛇を上げたように」です。この出来事は、旧約聖書に記されています。出エジプト後のイスラエルの民は、不信仰と不従順の罪の故に、毒蛇にかまれ、苦しんでいました。そのとき、神様はモーセに青銅のへびを造らせ、それを高く掲げさせました。毒に苦しむ人々は、その蛇を仰いで見たとき、苦しみが去り、いのちを得ました。

ちょうどそのように、自分の罪の結果に苦しんでいる者であっても、十字架に死によみがえられたキリストを仰ぎ見るとき、罪が赦され、いのちを得ます。聖霊による新しいいのちです。「永遠のいのち」とあるように、永遠に神と共にあるいのちを受けます。

福音書を最後まで読むと、どうやらニコデモはイエス・キリストを信じたようです(ヨハネ一九・三九)。神の国を見るために必要な新しいいのちをイエス様から頂きました。あなたも、キリストを信じて、新しいいのちを頂いてください。

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