音読・朗読・語り・・・・・・声に出して言葉を発する行為は様々に定義付けられ、その解釈や受け取り方聞き方、また表現方法もいろいろにあると思いますが、私は時折音読する、あるいは吟唱吟詠することによって、思考の外側へ出て音そのものと共鳴するような一瞬を味わうことがあります。
何を読んでもそうなるというわけではありません。たとえは、ごく最近の例でいうとライナー・マリア・リルケ(手塚富雄訳)の「ドゥイノの悲歌」を読んでいて、その感覚を味わいました。
この作品は本編より注解の方にページ数を多くさくという難解なものですが、一旦意味の咀嚼は横に置いて、その言葉の持つ力・音・リズムに焦点を合わせると、心の底に隠された何かに触れて、ある種の一体感が浮き出てきます。表現を越えた感動の一瞬です。
これは高揚感というよりも浮遊感に近いものでしょうか?
それによって、この日本語翻訳がいかに原書に近い精神を受け継いだ名訳であるかということが感じられるわけです。
もちろん注釈の解読も必要ですが、私はどうしても音が先に来るので、意味は後回しになってしまうようです。
ただ、リルケがこの作品で書き表しているものが、単なる既成の宗教観に基づいたものではないインスピレーションを受けて、それを忠実に言葉にしようとしている、誠実で偉大な仕事であることは、その意味を解読するまでもなく伝わってくるということです。
これは宮澤賢治の詩作品にも同様のことがいえます。
何を読んでもそうなるというわけではありません。たとえは、ごく最近の例でいうとライナー・マリア・リルケ(手塚富雄訳)の「ドゥイノの悲歌」を読んでいて、その感覚を味わいました。
この作品は本編より注解の方にページ数を多くさくという難解なものですが、一旦意味の咀嚼は横に置いて、その言葉の持つ力・音・リズムに焦点を合わせると、心の底に隠された何かに触れて、ある種の一体感が浮き出てきます。表現を越えた感動の一瞬です。
これは高揚感というよりも浮遊感に近いものでしょうか?
それによって、この日本語翻訳がいかに原書に近い精神を受け継いだ名訳であるかということが感じられるわけです。
もちろん注釈の解読も必要ですが、私はどうしても音が先に来るので、意味は後回しになってしまうようです。
ただ、リルケがこの作品で書き表しているものが、単なる既成の宗教観に基づいたものではないインスピレーションを受けて、それを忠実に言葉にしようとしている、誠実で偉大な仕事であることは、その意味を解読するまでもなく伝わってくるということです。
これは宮澤賢治の詩作品にも同様のことがいえます。
いちかわさんのお墨付きの名訳を読んでみたくなりました。
宮沢賢治の作品、特に詩には難解なものも多いですが、私が高校生の時に賢治に出会い強く惹かれたのは、言葉や文字の表面の意味を超えたものが伝わってきたからなんでしょうね、きっと。(と、人ごとみたい…)
名前を入れるのをわすれました、すみません。
m(_ _)m
20代から書棚に納められていたにもかかわらず、何を読んでいたのか。
宮澤賢治という人にたいしても、まだまだ表面的な理解にとどまっているかもわかりません。私はどちらかというと、好きという感情を抱いてものめり込めないで、少し引いてしまう傾向があり、損だなあと思うことがあります。
貴女の真っ直ぐさに私は憧れます。ブログ更新してくださいね。楽しみにしています。