人間が自分の最奥、魂の本来の純粋な側面にまで達し、自分の純粋な意図というものに気づけば、そこから発する意図・意志はケテルとなるはず。
ただ、そのケテルまでに達するまでが時間がかかる。
人間はマルクトにいる。マルクトから上の層、イエソドやネツァク、ダアトへと上がって自分を覆う様々な誤解を認識し
それが各種のスピリチュアルのワークや瞑想。ヘミシンクでいうならレトリーバルとか瞑想とか過去生探索、高次元探索など。
よくワンネスが取りざたされるが、案外皆の言うワンネスは低い領域な気もする。例えばティファレトとか。
その上には「深淵」があり、ダアトがある。それより上は人が「上がって」介入するのは難しい。
生命の樹はこの宇宙…自分の認識可能限界内を示す。深淵より上も認識は可能であるが、自分が意識をむければ到達できるような気がしない。その領域は上からの意志が降りてきて引っ張り上げてくれないと出会えない。
マルクトでどのように生きるか。それは人間としてどう生きるか。そう考えた時、恒星意識や高次元存在とも言える「ケテル」は、人間に苦労を強いるだろうか?そもそも人間の常識とかわからないはず。なにかしらのテーマや目的はあるにせよ、マルクト内で「人間的苦労をしながら、それを達せよ」とは意図していないはず。
苦労は勝手にマルクト内で起こっている現象で、「上」はそれを不思議におもっている・頭をひねっているのでは?魂の欲求・意図をみたす楽園をつくったはずなのに、人間たちはなぜこうも苦労をし、勝手に低く重い沼のなかで溺れているのか?と。
本来マルクトはケテルの玉座であり受け皿。マルクトが満足いく「王国」であればスピリチュアルなことなんてしなくても、自分のケテルの意志が為されているということ。
で、このマルクトが思う通りの状況になっていないということは、スピリチュアルな界隈で色々行われいてうワークなりして変えていけばいい。
大体は「基礎」となるイエソド、「美」としてゲブラー、ケセド、ホド、ネツァクの中心であるティファレト。
ティファレトの「美」というのは「バランス」でもある。その人にとってもバランス。ゲブラー、ケセド、ホド、ネツァク、ティファレトは四元素がそろった状態とみてもいいし、五行ととらえてもいい。比較的人間がアクセスしやすい。
またダアトを考慮にいれて、ダアト・ゲブラー・ケセドを「創造の三つ巴」と擬似的にとらえて、ここの状態を点検すれば、ケテル・ビナー・コクマーの真意に気づきやすいかも。
このあたりはアストラル体として捉えていいかもしれない。また、H48やH24やH12。なにかしら固執・妄執・偏りがあれば、それを偏ったままでバランスをとってH48状態に。各セフィラの偏りを認識して修正していけばH24やH12に。ティファレトはパスワークでは、ケテル(ダアト)から下におりて「2女教皇」。TORAを保有するパスであり、アカシック・レコードをあらわすことも。
アカシックとは虚空であり、ある意味アインーアインソフーアインソフアウルから集約され顕現したケテル(およびコクマー、ビナー)まわりの知識やデータを保有している?
そういった自分のなかの知識、叡智、データをティファレトはH12として受信するのかもしれない。ダアトはH6?ケテルはH1もしくはH6。それはどこに生命の樹の法則をあてはめるかという状況によって分かれるかも。
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チャクラやクンダリニは、肉体感覚なのでマルクトちかく。これに固執してもあまり意味がないかも。むしろ「イエソドからマルクト」への道「世界」のパスワークに該当する行為として、自分の病気や症状、体にむきあうことをしたほうがいいのでは。