小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ジュリアンを植える:

2015年01月14日 | 自然・植物・昆虫
ジュリアンを植える:
日本海沿いの街々は、毎日、どんよりとした雪雲に蔽われて、毎日、すごい積雪に悩まされていることであろうが、太平洋側では、ここのところ、連日、冬晴れが続いている。気温といっても、零下になることはない。それでも、東京は、まだまだ、冬の気配が漂っていることには変わりはない。そんな中でも、花々は、春の気配が、ほのかに、感じられる。女房殿が、冬場のガランとしてしまった幾つかのプランターに、春の装いを彩るべく、小さな蕾と色とりどりの花を咲かせているジュリアンを購入してきた。黄色・白・深紅・紫・薄紫・赤、それぞれを、どんな色の配置で、丸いプランターと長方形のプランターに、植えたらよいのか、取りあえず、配色を考えながら、並べてみることにした。なかなか、色合いのバランスというものも、頭を使い、結構、難しいものである。最終的には、最高執行権限者たる者の最終調整を経た上で、無事、プランターへの植え付けが終了しました。花の下からは、多数の蕾が顔を出していて、これから、次々と、暖かくなるにつれて、花を咲かせそうである。実に、楽しみなことである。冬の高枝切りから、1ヶ月、あと一ヶ月もすると、今度は、梅の蕾が膨らみ始める頃となろう。そして、白木蓮、雪柳、小手毬、そして、花桃、花水木へと、春爛漫の花のオン・パレードへと今年も、連なってゆくのであろうか?急に、玄関周りが、明るく華やぎだしたのは、気のせいだけではなさそうである。

シンガーソング・アクトレス、中森明菜を観る:

2015年01月13日 | 社会戯評
シンガーソング・アクトレス、中森明菜を観る:
シンガーソング・ライターというものは、良く知れ渡っているが、アクトレスという範疇とは、唄を、歌手でありながらも、歌うだけではなくて、衣装も歌うステージの場面もビジュアルも含めて、総合的に、あたかも、女優が役を演じるように、ステージで歌うことを目指そうとする歌手をどうやら、そう呼ぶそうである。大晦日の紅白に、あたかも、病み上がり後のようなか細い声で、NYから、レコーディングのスタジオから、新たな歌声を中森明菜は、聴かせてくれたが、長い間、心と体のバランスを明らかに崩していた影響が、如何にも、その顔つきに、色濃く刻印されているようで、若い20代の頃のジャケットの写真と比べると、誠に、隔世の感がある。自身に満ちていたあの頃と心と体のバランスを長い間、崩した後の時間の経過は、流石に、この歌手にも、例外なく、呵責にも、襲いかかっているようである。それでも、唄というものは、何らかの復活の可能性をおおいに、残していることが、この歌手から感じられたのは、若干の救いである。カバー曲からのリハビリを始めていったためであろうか、他人の唄を自分流に、自分の世界で、歌うことで、自分自身を歌手というものは、取り戻すものなのであろうか?いずれにせよ、復活のきっかけと心技体のバランスを仕事の中で、取り戻すことは容易なことではない。画家に、画風があるように、同じように、歌手にも、似たところがあるのであろうか?個人的には、初期作品の来生たかおによる「スローモーション」、「セカンド・ラブ」、「トワイライト」、竹内まりあの「駅」等の、如何にも、ガラス細工のようなか弱い女を支えて上げたいとおもわせるようなそんな思いを聴き手に与えるようなイメージが、好きである。残念乍ら、初期作品の頃には、ビジュアルで、唄を聞いていたわけではなくて、カセット・テープで聴いていた頃であるから、アクトレスという本来の彼女の目指したような世界を、実感したわけではないが、再び、今度、聴くときには、このコンセプトを再確認しながら、楽曲を楽しみたいものである。仕事を再開すれば、再び、心と体のバランスを失う可能性もないとは限らず、慎重に、この問題を解決させながら、再び、活躍を期待したいものである。

古田織部展を覗く:

2015年01月12日 | 伝統工芸・展示会
古田織部展を覗く:
東京という大都会は、確かに、美術展示会を観覧するには、便利なところである。中小の地方都市では、余程の文化や芸術、美術に関心を払っている都市は別にして、なかなか、思うようにゆかず、難しいものである。銀座松屋で、年末から19日まで、開催されている、「古田織部展」を覗いてみることにした。ウィーク・デイの昼過ぎだから、茶道や生け花の関係のお年寄りのご婦人方が多いのは当然のことなのであろう。こちらは、特別、茶道や生け花に精通をしているわけではないが、焼き物・陶器を眺めるのは、おおいに、興味深く、とりわけ、海外文化との影響を受けて、独自の日本文化を反映させてきた織部焼きは、只単に、茶道具というだけの範疇では、括れない何か、日本人の潜在的な能力をこの没後400年の武人茶人に見いだせそうである。桃山・慶長文化の中で、開花した様々な陶器にしても、それ以前の時代には、神仏に捧げられた供物や食物などを白木製の謂わば、その時・場限りの今で謂う、ディスポーザルな感じで、処分されてしまっていたものを、この時代、陶器で、再現したようなものであるそうである。その意味で、茶会での釜・水指・竹茶杓・茶入・茶碗・猪口・向付(皿)・花生・蓋物・振出(薬味や調味料、菓子などをいれたもの)等、今日の様々な食器や、或いは、酒器、会席料理にも影響したと謂われている器(食器・酒器・皿・徳利)、猪口、今日的に謂えば、ぐい飲み盃のような酒器セットにも、大きな影響を及ぼしている。デザインに於けるデフォルメされたような三角や四角、三日月型や扇型や、手付け鉢、その歪みや斬新な幾何学紋様、漆黒を基調にした白と黒のコントラストの美意識感覚とか、内面と外面とにみられる自然の水辺の景観とか、渦の模様とか、当時の絵画からの影響も見られるような斬新な、変化に富み、優れた意匠が多いようである。没後400年でも、現代風なデザインの勉強には、おおいに役立つのかも知れない。私は、陶器の産地や、様式には、門外漢ではあるが、流石に、織部の果たした、美濃焼・薩摩焼・上野(あがの)焼・唐津焼・信楽焼・高取焼・備前焼・伊賀焼等、各地の窯元とのアドバイザー的な役割も、今日的には、興味深い。元々は、荒木村重の謀反の折には、中川清秀の調略の勲功や、山の闘い、賤ヶ岳の戦いでも武功を上げているところからすれば、やはり、千利休の自刃以後は、茶の湯を通じて、政治の中枢世界で、それなりの裏交渉や、政治的な人脈を築いてきたことが、推測されようが、やはり、利休にとっての秀吉同様に、織部の徳川家に対する関係性(二人の自刃という形での死そのものを考えると、それ)も、所詮は、文化の庇護者と支配者という関係性からは、逃れられない宿命を背負っていたのかも知れない。それにしても、当時の作品を眺めて、その時代に生きた人々や作者や所有者の息遣いを感じたり、想像したりすることは、とても、楽しい事ではないでだろうか?最後に、庭園や数寄屋作りというものも、路地という概念も、茶室作りや、部屋廻りから、歴史的に、来ているのかと、或いは、床の間を飾る生け花の花瓶というものも、そういうものなのかと、改めて、日常生活の中で、花瓶を見直してみたり、庭をみる目も変わってくることなのかも知れない。とりわけ、最近では、花瓶というものは、花を飾るという意味合いで、平地に、置くというイメージを持っているが、この時代には、壁に掛ける竹篭や、空間や空中に飾るという様式もみられることに、改めて、新鮮さを感じざるを得ない。黒織部も良し、蓋物も良し、デフォルメされた意図的な斬新な紋様も、或いは、きず物や割れ物にすらも、新たな美意識を見いだすという感覚も、おおいに、宜しいし、素晴らしいものである。個人的には、小さな「香合」と呼ばれる美濃焼には、色使いといい、斬新なデザイン性といい、或いは、フォルムといい、なかなか、小さいながらも、作者の想いが、凝縮されているように思えて、好きな焼き物である。百円ショップで、簡易な安い商品を使用するのも、決して、否定するモノではないが、やはり、日常生活の中でも、食に関わる、或いは、酒を嗜むときには、お茶を飲むときにも、茶碗や、器にも、何か、美的感覚を子供の頃から、培い、休みの日には、花を活けたり、或いは、テーブル・マットを敷いたりして、楽しみたいものである。茶碗というものは、上からだけみるものではなくて、やはり、底部までも含めて、本当は、自分の手にとって、下からも眺めたいものであるが、旧い美術品ではそういうわけにもゆかないのが、残念なところである。一階下の7階では、美濃焼のラーメンどんぶりの展示会も開催されていたが、これも、なかなか、力作揃いで、しかも、世界に打って出るには、こうした丼のデザイン性も必要不可欠かも知れない。ラーメン屋には行ったら、丼の器も様々なデザインを選べるようであると、面白いかも知れない。庭先の梅の枝も一寸、カットして、箸置きにでもして、今晩は、日本酒をお気に入りのお猪口で、戴くことにするか?又、新しい理由付けと絶好の良い言い訳がつけられて宜しいかも知れない、、、、、、。

りんごの唄:

2015年01月11日 | 社会戯評
りんごの唄:
この唄が、並木路子によって、謳われたのは、1946年1月だそうである。テレビの敗戦直後の焼け跡や闇市の風景のバックに、必ず、この唄が流れてくるので、いつしか、耳に残ってしまうのでろう。きっと、赤ん坊の頃に、母が聴いていたラジオからでも、流れていたのであろうか?それにしても、「あかいリンゴに、唇寄せて、黙ってみている青い空、リンゴの気持ちは知らないけれど、りんごの気持はよくわかる、、、、♪」という歌詞も、誰からも教わった訳ではないのに、不思議と、口から、メロディー・ラインとともに、出てきてしまうのは、どうしたものであろうか?空襲による焼け跡に建てられたバラックや闇市の屋根の隙間から、仰ぎ見た空は、一点の雲すらなく、澄み渡った青空が、これまでの戦中の重いくらい息苦しい雰囲気と対照的に、人々の心を移していたのかも知れない。赤いリンゴが天皇で、青い空が、アメリカである等という解釈は、後付けされた有識者によるこじつけかも知れない。美空ひばりの唄う追分ものや、故郷を唄ったなかにも、どういう訳か、リンゴが冠されている。当時は、考えてみれば、食糧不足であり、物資も、乏しく、日々の食べるものにも、事欠く状況で、赤いりんごは、確かに、貴重な食料でもあったのかも知れない。そんなリンゴに、想いを託した戦後間近の人々の心は、戦後70年、どんな唄や歌詞に、今日、凝縮されているのであろうか?そして、飽食時代、今や、食べるものには、気持を託すような時代ではなくなりつつあるような時代になってしまったのであろうか?

風刺と表現の自由:

2015年01月10日 | 社会戯評
風刺と表現の自由:
フランスの新聞社の襲撃事件の一報を聴いた途端に、昔の朝日新聞社に対する赤報隊を名乗る言論へのテロを想い起こす。もういつの頃であったかも、定かではないが、迷宮入りしているで、どこかで、犯人は、息を潜めて、潜伏していることだけは、間違いないであろう。表現の自由というものも、全く、命懸けでることが、これからも分かろうか?ペンは剣よりも強しとは、即ち、どれ程の人を味方につけられるかでもあろうか?カリカチュアーという代物は、そもそもが、根源的に、どこかで、本質を抉り取るようなところがあるのかもし得ない。宗教も政治も、本質的には、その風刺の対象から、逃れることが出来ないというのが、本来の自由な社会なのかも知れないが、残念乍ら、そんな世の中は、世界中捜しても、何処にもないことが、改めて、再認識される。香港にも中国にも、民主的な言論はないし、アメリカですら、いきなり、白人というだけで、いきなり、警官が銃撃されてしまう世の中である。ましてや、一部のイスラムの原理主義者達は、不条理な教義を更に、一方的に、偏向して解釈したうえに、暴力と恐怖で、教育の機会均等ですら、奪おうとしているのが現実である。考えてみれば、江戸時代の落語などや、落首なども、別の見方をすれば、庶民感情を代弁してくれていた一種の体制に対する風刺であったのかも知れない。それにしても、殺害された側には、それなりの言論・表現の自由に対する命懸けの覚悟があったのであろうか?ボディーガードまで、殺害されているところをみれば、それなりの覚悟と対応策を採っていたのであろうか。それにしても、こういう事件をきっかけにして、又ぞろ、極右からの平和的な一般イスラム教徒への云われなき差別や不当な・偏見と弾圧が行われることを危惧するし、又、それを助長するような風潮が、際限なく、融和の方向ではなく、得体の知れない疑心暗鬼と対立・抗争という構図の中で進展することを怖れるのは、私、一人だけではあるまい。残念乍ら、ガンジーのようなかつての対立を昇華できるような「高邁な理想と哲学」、或いは、それを具現化できるような「知の巨人」が、世界の何処を見渡しても、見当たらないことは、とても、不幸なことである。民族排外主義に対峙できるだけの、或いは、宗教間対立を止揚できるような何か、新しい哲学が、出てこないのであろうか?誠に、考えさせられる事件である。一体、社会の中にある二重・三重構造の社会的な差別や貧困、或いは、宗教的な対立、社会的な、心理的な「疎外」を、「共生」、とか、「多様性」と言う言葉だけで、どのように、昇華できるのであろうか?何処かの国の野党の代表選挙で、叫ばれた理念が、残念乍ら、無惨にも、冷や水を浴びせられたような気がしてならない。ユーモアとペーソス、ブラック・ジョークやカリカチュアーという言葉が、昔、あったけねぇとは、謂わせたくないものである。

マクドナルド、異物混入に思う:

2015年01月09日 | 社会戯評
マクドナルド、異物混入に思う:
現役の頃、まさに、海外生産で、嫌と云うほど、異物混入対策に振り回された経験があるから、この種の問題が出る度に、さぞや担当者は、夜も寝られないであろうかと、つい、同情してしまう。誠に、草葉の陰から、あの藤田田が、泣いていることであろう。もう、40年余りも昔の話であるが、当時、アメリカの自動車工場のワーカーが、冷やかし半分に、飲み干したコカ・コーラの缶を、ドアを取り付ける工程で、何でも内側に、差し込んだらしい。そうしたら、ドアを閉める度毎に、カランという音がするというので、クレームになり、ドアを解体して、調査したところ、中から、缶が見つかったらしい。この話には、落ちがあって、その缶には、ご丁寧にも、「良く見つけましたね!」と手書きのメッセージがあったそうである。これを、アメ車と日本車の品質管理の違いの逸話的ブラック・ジョークとして、面白おかしく、流布されていたことを想い起こすが、今や、リコールも、異物混入も、全く、消費者側も、どこか、可笑しな構図になってきてしまったのは、残念な限りである。ドアに缶を入れることが、宜しくないことは分かりきったことであるが、それでも、この種のアメリカン・ジョークは、まだ、その頃の時代には、多分に、許される(?)範囲のことであったのであろうか?それに引き替え、昨今の事例は、もはや、ある種の「ヒステリックな」様相を呈し始めているように思えてならない。現役の頃は、異物混入率を、限りなく、ゼロに近づける努力をすること自体が、目標であり、誰しもが、暗黙の了解でありながらも、それが、達成不可能であると分かっていても、まるで、素数の解明をするごとく、0.000000000,,,,,,,,と限りなく、無限に努力するという精神的な邁進力を試され、或いは、納入業者としての消費者様・お客様(?)(今や、絶対的な神と化した消費者)に対して、忠誠心を、これでもか、これでもかと、無駄な(?)(公式にそんなことを云ったら、途端に、取引停止になってしまうが、)エネルギーを費やす結果になってきてしまった。私は、どういう訳か、家族で、ファミレスで、同じメニューを4つオーダーしても、現役の頃には、髪の毛が混入している皿は、私のところに廻ってくると云う巡り合わせになっていたものである。ある時は、冗談で、一度、配膳された皿を、わざわざ、取り替えてみたところ、その取り替えた皿に、毛髪混入が発見されるというしたたかな前科者であるので、これも何かの因果応報なのかと思ってもみたくらいである。従って、テレビのインタビューに出ている消費者のコメントなどは、もはや、自分で、云っていることが、フード・エネルギー換算にしたら、膨大な無駄になっていること、又、加工賃金のどれ程の安い工賃が、これらの異物混入防止対策に、費やされているのか、承知しているのであろうかという、謂わば、「諸刃の刃」であることを忘れ去っていることの方が、空恐ろしい。ポテトにしても、ナゲットにしても、況んや、250円の牛丼をやであろうか?。ヒステリックな消費者が、のたまえば、のたまうほど、同時に、その反面でもある労働者の顔に、重く、別のストレスが、加重されてくることをこのヒステリックに泣き叫ぶ消費者は、分かっているのであろうか?それにしても、日本マクドナルドの外人社長は、もはや、会見にも顔を出さないところをみると、この一点でも、日本では、袋だたきにあいそうで同情してしまう。広報の対応も、一定のガイドラインに、適合していたとか、していなかったか、果ては、「意図的に隠蔽した」という疑惑まで浮上してくるのでは、何をや謂わんやではなかろうか?何か、日本人というものは、「神経質な鶏」ではないが、重箱の隅を徹底してつつかないと、食の安心・安全は、担保されないという議論に、何故、なってしまうのであろうか?異物混入があっても良いとは言わぬが、ヒステリックに叫ぶ消費者も、問い詰めるマスコミの記者も、生産現場で、どれ程の苦労と厳格な品質管理がなされているのかを、分かっているのであろうか?マクドナルドは、一日生産現場体験会でも、消費者や記者に、開催してみた方が、ずっと、効果的ではなかろうか?その昔、異物混入率を数値化して、議論していたら、「クレームというものは、そのお客様にとって、100%クレームであって、割合や率の問題ではない!」と一刀両断に謂われたことがありましたが、それだけの必要不可欠なコストをみて戴ければよいのですが、、、、、、そこは、「それをやるのが、貴社の仕事であり、役割でしょう!」と応えられてしまいました。懐かしい昔話ですが、現役の人は、大変なことに変わりありませんネ。否、むしろ、もっと、シビアーに、バージョン・アップされてきてしまったのかも知れません。お悔やみと同情の念を禁じ得ません。日本人の何か、民族性を垣間見えるような気がしてなりません。今時、工場で、透明のビニール・シートなど使用している工場はありませんね。それにしても、昭和恐慌前夜かの如き、ヒステリックなやり場のない得体の知れない怒りを大企業や大財閥に刃を向けた狂気のようなテロリズムのような眼に見えない嫌な感じがするこの消費者という得体の知れない大衆の不満は、何処へ向かうのでしょうか?韓国の大財閥の二世三世に対する不満を横目で笑っては居られないようですが、それは、考えすぎなのでしょうか?私には、実に嫌な感じがしてなりません。昔は、古新聞紙で、生魚を包んで、売っていたではないか?そう言うと、袋だたきにあいそうですが、敢えて、言わせて下さい。マックを擁護するつもりはありませんが、どこかで、何かが狂ってはいないだろうか?ふと立ち止まって、考えてみてはどうだろうか?どうして、日本人は、いつも、チンチンと、沸騰したヤカンのように、一億一丸となって、沸騰してしまうのでしょうか?

トヨタ、特許開放戦略の行方:

2015年01月08日 | 社会戯評
トヨタ、特許開放戦略の行方:
将来の自動車選びも、これで、混沌とするのであろうか?個人的な印象では、実に、悩ましいことである。燃料電池車、水素社会を一挙に、現実化されるために、インフラ整備のみならず、幅広く、市場性そのもの、引いては、競合相手も含めて、自社開発による特許技術すらも、将来、陳腐化させてしまうことで、市場で、優位性を保てるという、逆説的に言えば、自信の表れなのであろうか?大いなる英断という称賛の声もライバル企業からは聞かれるが、、、、、実際どのようなシナリオが裏に隠されているのであろうか?考えてみれば、ハイブッド車に始まる独自の技術は、これに反して、他社には、自社独占を優先して、ロイヤリティー・ベースで、技術公開したのに対して、おおいに、異なる戦略であろう。考えてみれば、ベンチャーのテスラ・モーターによる電気自動車・EV車の技術公開と云うことも影響しているのであろうか?それとも、グーグルOSによるアンドロイドのオープンソース化とかも、微妙に、将来のトヨタの技術開発に影響を及ぼしているのであろうか?それにしても、技術開発の現場というところは、本当に、熾烈な闘いの場であることは間違いないであろう。それは、今晩、床について、翌朝目が覚めた途端に、昨日の景色が一変しているかのように、技術が、一夜にして、陳腐化してしまうものなのかも知れない。ITや家電白物でも、必ずしも、劣勢に立たされているからといって、必ずしも、それが、未来永劫続くわけではないことは、ヨーロッパからの調理家電の市場席捲でも、緻密な市場調査と開発技術力でもってすれば、小さな風穴が、徐々に、大きな穴へと変化してゆくことになることは、明らかであろう。その意味で、今回のトヨタの特許公開戦略は、非常に、興味深いものがあろう。技術レベルがある一定程度に、達しない限り、おいそれとは、簡単にこれまでの技術を凌駕しうるような技術は、出てこないであろうが、お互いに、切磋琢磨することで、市場やインフラ整備が加速化されて、その結果、可能性の小さかった市場が、一挙に、現実味を帯びることになるやも知れない。半導体などの技術の移転ではないが、ある種、画期的なトヨタの戦略は、ひとえに、今後の成り行きに、十分目を凝らして見つめてゆかなければならないであろうことは、自明の理であろう。技術秘守・知的財産権の訴訟社会の中で、本当に、競争を勝ち抜けると判断しているグーグルやトヨタという会社は、世界的にも、稀な存在なのであろうか?

妖怪ウォッチから透けて見える子供のこころと日本人:

2015年01月07日 | 社会戯評
妖怪ウォッチから透けて見える子供のこころと日本人:
テレビのCMを観ていても、何故、可笑しな体操をしているのかとか、小さな子供達が、ブツブツ、「ゲラゲラポー♪」、(実際、残念乍ら、私の耳には、ゲロゲロフォーと聞こえたが、、、、)と呟きながら、歩いているのも、我が家には、小さな子供が居ないから、全く、何の事やら、了解出来なかったが、年末から、年始に掛けてのテレビの番組を視ていて、成る程、これが、例の今流行の「妖怪ウォッチ」なのかと気が付きました。もっとも、映画やテレビを詳しく観ていないから、さっぱり、何のことやら、分かりませんが、たかつ・ゆうすけという人の成熟社会を生きる、弱さと強さ、異質なもの、受け容れる心という、コラムを興味深く、読ませてもらいました。妖怪なる存在は、その昔には、水木しげるによるものが、流行りましたが、謂わば、妖怪なる物は、お化けと違って、おおいに、子供達とは、どういう訳か、仲良しになり、更に云えば、友人や友情関係が構築されるものらしい。謂わば、西洋的な絶対的な神なる一神教では、到底理解不能な日本的なアニミズムの影響なのかどうかは分からぬが、神と対峙する悪魔ではなく、或いは、絶対悪として、人間と戦うのではなく、何か、人間味溢れる、どこかで、日本的な折り合いをつけるというか、落としどころを探るような存在なのかも知れません。高度成長期での妖怪の位置づけは、今や、バブルの崩壊も経験し、更には、不可思議な大自然の神がかった力を痛感させられた東日本大震災以降、トナリのととろも、座敷童も、皆、他人との関係性の中で、氷のように、溶けてしまうことで、逆に、人間関係を再認識したり、構築するきっかけになるそういう存在なのかも知れないと、、、、。更に云えば、農耕民族に特有な、同時期に、一斉に、一緒に田植えや稲刈りをするという「同調性」や、「協調性」、「空気を読む」、「自粛」、「自主規制」、「絆」、等…、今や、「同調圧力」というものが、異質なものや、自分と違うもの、「多様性」に対する「虐めや差別や排外主義」という形で、子供達にも、影響が及んできているのかも知れません。だからこそ、子供達は、心の底から、妖怪に対して、恐れではなく、親近感とある種の本当の「心の理解者」として、受容しているのかも知れません。子供にとって、そういう「良き理解者」という存在そのものが、家庭内や学校、地域社会に今や、存在しないことを物語っているのかも知れません。考えてみれば、妖怪の範疇ではありませんが、ドラえもんや鉄腕アトムのような存在、ヒーロー・ロボットものも、みんな、子供達の悩みを一緒に、共有・共感・解決してくれるある種の理解者・仲間であり、触れあいを楽しむ存在であったのかも知れません。そうなるとすれば、一体、「進撃の巨人」というものは、20代-30代にとっては、どんな位置づけになるのでしょうか?妖怪も含めたサブカルチャー論から、或いは、妖怪とふれ合う子供達の姿から、実は、「日本人の大人」の世界が透けて見えてきそうな気がしてなりませんが、、、、、。これを本格的に、論じるには、妖怪ウォッチも進撃の巨人も、詳しく、観ないことには、分からないでしょうが、、、、、、どうしたものか?全く、困ってしまいます。若い人の中で、一刀両断的に、バッサリと、論じてくれる人はいないでしょうか?

広島、黒田に男気を感じる:

2015年01月06日 | スポーツ
広島、黒田に男気を感じる:
別に、広島出身でもないし、かといって、カープ女子ならぬ、カープ・ファンでもない。あえて、云えば、往年の懐かしき良き時代の草野球少年、プロ野球ファンであろうか?野球という球技は、個人プレーを基礎とするものの、やはり、団体スポーツでもあろうか。それも、主力のリーダーによる模範的な精神的な支柱と云った眼には見えない何らかの影響が、若い選手達に、無言の指導をすることにもなろう、そんな団体競技なのかも知れない。あまり、表だって目立つような選手でもなかった黒田が、メジャーで、二桁の勝利を何年にも亘って連続して、上げると云うことは、並大抵のことではない。広島入団時に、ドラフト何位で、入ってきたか知らぬが、それ程、華々しく、注目を浴びて入団したのであろうか?そんな玄人好みのするこうした燻し銀的な選手も少なくなってしまった。カネを積まれれば、サッサと、優勝する可能性の高い球団へ移籍してしまうようなそんな風潮は、今日の社会の裏返しでもあろうか?その意味で、10数億円にも登るであろうと思われる提示金額を蹴っても、古巣の広島カープのユニフォームを、MLBのピンストライプから、改めて、着替えると云うことは、並大抵の心意気ではない。まさに、野球人としての賞味期限を知り尽くしたプレイヤーの誇りと男気をそこには、感じざるを得ない。とりわけ、帰国後の春キャンプ参加での若手の有望選手に対する無言の、或いは、有言のアドバイスは、技術的なものよりもむしろ、「精神的なもの」の方が、大きく、作用するのかも知れない。野球ファンとしては、一体、どんな効果をもたらすのかが、楽しみである。とりわけ、カープ躍進の原動力になりつつある中堅・若手の選手達への影響は、並大抵のモノではないであろう。短期的なものだけでなく、練習や実践の中で、中期・長期に亘っての良い影響が、波及することは、間違いないところであろう。眼に見えない効果は、カネでは買うことが出来ない+アルファーを生み出すことになるでしょう。これで、イチローなどが、古巣の阪急にでも戻ってくれば、おおいに、日本のプロ野球も、さぞかし、面白いことになる可能性もあろうが、なかなか、そう一挙には、ゆかぬものでありましょう。目立たぬ燻し銀的プレイヤーの加入で、どんな成長を若手に与えるのかを試合の中で、観ることも、今年のプロ野球は、楽しみであります。逆説的に言えば、金満球団内で伸び悩みの若手には、何が足りないのかを考えるきっかけにもなりそうな気がしてなりませんね。今年は、カープの黒田投手に、注目したいところです。

変わらぬ画風で絵馬・ミニ達磨を描く:

2015年01月05日 | イベント 祭 催し
変わらぬ画風で絵馬・ミニ達磨を描く:
版画家、タジケン、こと、田嶋健氏主宰の茶房、読書の森での新年早々のワークショップである。何でも、一年の自分自身のお願いを今年の干支である羊に託して、絵馬を奉納する(?)ものであるそうで、起き上がりこぼしの小さな白い達磨に、これ又、自分の好きな色を塗り、オリジナルのミニ達磨を作るものである。それにしても、「画風」というものは、なかなか、変わらぬものである。今年こそは、もっとも、毎年、そう思うのであるが、革新したいと、願いこそすれ、これが、実に、大変難しいものであります。何せ、退化してしまった「右脳再生中」であるから、当然、願い事のひとつには、このスローガンを書き加えることにしました。参加者の方々は、ほとんどの人達が、イラストやデザイン、音楽や芸術に関係している人達であるから、謂わば、セミ・プロのような人達である。なかなか、こなれた筆のタッチで、構図や色使いが、それぞれ、ユニークなものである。作品が出来上がった後でのひとつひとつの講評が、なかなか、辛いところであるが、まぁ、右脳再生中であるから、そもそも、初めから、マヒしていると思えば、余興の域を出ず、宜しいのではないかとたかをくくることにしました。もっとも、いきなり、羊と云われても、簡単には、描けないので、事前に、それなりのスケッチを準備しておき、大体の構想を纏めておいて、描くことにしました。取りあえず、初日の出をバックにした山に棲む山岳地帯の羊をイメージし、これに、願い事の「右脳再生」、「家内安全」、「健康第一」と書き込んで、色塗りにかかり、完成である。ミニ達磨の方も、オーソドックスな色合いで、赤を基調にして、お目出度い金色を配色して、更には、願い事でもあり、やや、既に、遅きに失した感のあるふさふさの毛髪というイメージで、ミニ達磨を塗ることで、完成させました。こちらも、むろん、「右脳再生」という願い事を、正面全面に、書き込んでみました。残念乍ら、作品は、写真公表を出来る代物ではないので、撮り忘れてしまいましたが、適当な時期が過ぎましたら、記録に保存してみたいと考えております。こういうワークショップは、想像力と創造力とを活性化するには、最適かも知れません。今後も、こうした創作活動のチャンスがあれば、是非、今後、参加してみたいと考えております。