小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

冷蔵庫の無い生活:

2014年10月15日 | 社会戯評
冷蔵庫の無い生活:
大型台風が、2周連続で、襲来するというのに、どういう訳か、突然、25年もの長きに亘って。活躍してくれた冷蔵庫が、故障してしまった。もっとも、毎日使用していたのではなくて、週末の休みとか、休暇の時にしか、使用していなかったから、そんなに長い間、頑張ってくれたのかも知れない。しかしながら、ここ3年くらいは、年の3分の2を、頑張って働いてくれたから、少々疲れたのであろうか?それにしても、冷えない冷蔵庫というものは、困ったものである。子供の頃は、考えてみれば、氷屋さんが、毎日、御用聞きで、大きな製氷された角氷を、冷蔵庫の中に、入れに来てくれたものである。それ以前は、どうして暮らしていたのであろうか?そう言えば、ミルクのパックなどもなかったから、牛乳配達の牛乳瓶で、毎日、ガブガブ、残さないように、飲んだものだ。肉なども、今から考えれば、その日に、すべて、消費完了するように、母親は、買い物をしていたのであろうか?翌日に、残りを冷蔵庫に保管しておくという考え方は、出来得なかったのかも知れない。それにしても、野菜も、魚も、肉も、作り置きしておいた料理も、冷凍庫に、補完していた材料も、皆、自分の腹に、無理矢理押し込んでしまわないと、いけない。それでも、全部は、一挙に処分できないから、仕方なしに、管理事務所で、使って食べて貰うことにした。結構、考えてみると、驚いたことに、そこそこの量になるものである。電気のないのにも、ホトホト、困るが、冷蔵庫が突然、何の前触れもなく、故障してしまうのにも、困ったものである。何とか、台風の来る前に、新品を購入しないといけない。風呂が壊れたり、ガスが、通じなくなってしまったりも、困るが、何はともあれ、突然、便利な現代世界から、非日常の生活に、舞い戻ると、昔の生活を想い出して、おかしくなる。テレビも冷蔵庫も洗濯機・掃除機も、PCも、スマホも、、、、、、、今度は、恐らく、洗濯機の番であろうか?もう、昔のなかった生活には、戻れない!感謝しなければならない。

山口マオ、絵本朗読会と版画教室:

2014年10月14日 | 社会戯評
山口マオ、絵本朗読会と版画教室:
すっかり退化してしまった右脳の再生活動の一環である。それにしても、まだ、孫がいないから、絵本を読み聞かせる恰好の相手が見つからないのが、ちと、寂しい思いがする。絵本というのは、やはり、声を出して、読みきかせるのが、一番であるようである。それは、黙読するために、存在するモノではない。声を出して、誰かに、読み聞かせて初めて、絵本に生命という息吹を吹き込まれるのかも知れない。だから、それは、一方通行ではなくて、双方向、或いは、多方向性のコミュニケーション作業でもあろう。読み手と聴き手役との間での何かしらの声を通じて、声を出して読むという行為を通じて、初めて、繋がるコミュニケーションであろう。読み聴かせられる側も、読む側も、互いに、絵本の絵を観ながら、その文字を追うのではなくて、読まれる声で、とりわけ、その抑揚や、イントネーションや、スットン狂な声でも、ある種の感動や驚きが、生まれるのである。同じ文章を、同じ絵本を読み聞かせても、その読み方ひとつで、全く、異なる感動が生まれるものである。今回は、おまけに、作者の小風さんの朗読と絵を描いた山口さんによって琵琶を奏でることで、一層、趣きが異なり、これは、なかなか、朗読というか、琵琶の弾き語りと云おうか、このコラボは、趣きがあったと思う。子供ならずとも、大人もおおいに、愉しめるものであることが、再認識されたのは、有難い体験である。
翌日は、今度は、版画教室である。版画というやつは、小学生の頃に、お正月の年賀状などに、彫刻刀で、版画を作ってから、なかなか、やろうとする意欲と貴課員恵まれないものである。思い切って、ど素人の右脳退化の強制的再生のために、参加してみることにした。一日限りの即席の版画教室であるから、参加者全員が、思い勝手気儘に、まずは、基礎の基礎、版画の作成の仕方に関する説明を受けて、どんな絵を彫るのかという第一段階の絵の作成である。何でも周辺をしっかりと色刷り出来るように余白を十分に空けておいてから、彫ると宜しいとのアドバイス。考えてみれば、版画とは、写真のネガティブとポジティブのようで、蟻は、凸凹印刷のようで、トレーシング・ペーパーに転写して、これを赤いカーボン紙の上から、なぞると裏返しのような絵が反転、版画板のうえに、現れる。これを彫刻刀で彫るわけであるが、インクが、うまく彫った溝に納まるように、三角刀や、丸刀や、平刀等でもって、掘り進むわけである。ど素人だから、ついつい、下絵の線をなぞって、彫ることに夢中になり、上述のネガとポジの関係性をすっかり、放念してしまうものである。そうすると、絵の陰翳が、はっきりとせずに、単なる線での描写にしか、ならなくなってしまう。とりわけ、これが、多色刷りをしたいとなると、なかなか、厄介なことになる。私は、北アルプスを遠望するような山並みと、夜空に浮かぶ月と叢雲と星という主題で、飽くまでも、気持としては、志高く、ほとんど伊藤若冲の手による京都から大阪へ船旅の道中を墨の黒と白との対比で描いた版画(乗興船)を目指して(?)、気持だけだから、少しは、許されるであろう、、、、それにしても、先生曰くでは、月や雲はなかなか、難しいらしく、(それは、彫りながら、実感するが、後の祭りであった)、とりわけ、夜空に浮かぶ月は、まん丸く、しかも、月全体を彫ってしまった方が、墨が現れず、むしろ、宜しいと、、、、、、、。或いは、多色で、黄色にするとか、成る程、理屈であるが、そんなことをすっかり忘れて、刷って貰ってから、月を再度、丸く全部、彫ってみることにした。
寒い冬には、ストーブにでも暖まりながら、じっくりと、版画を作成してみるのも、面白く、大変興味深い。暑い夏場よりも、冬場に向いているのかも知れない。見本で、刷って戴いた版画を、額に入れて、飾ってみるとするか、次の作品は、亡き愛犬の写真をもとに、描いて、葉書サイズに、彫ってみることにしよう。今度は、多色刷りにも、挑戦してみることにするか?又、版画という右脳を刺激する新たな愉しみが出来たことは、喜ばしい限りである。次回も、機会があれば、版画教室に、参加してみたいものである。

一寸気になるCM, 「見える、マクドナルド品質」:

2014年10月13日 | 社会戯評
一寸気になるCM, 「見える、マクドナルド品質」:
未だ現役で、食品関連の海外生産に、携わっていた頃に、現地の従業員の品質管理教育の一環として、よく、「商品のみが、すべてを語る。言い訳は、許されない」と、言い聞かせたものだったが、その頃は、藤田田の日本マクドナルドと云えば、言わずと知れた食品業界では、ダントツの品質管理を徹底していた巨人であったことを懐かしく想い出す。誰しもが、あんな風に、当たり前に、いつでも、何処でも、同じ品質の安心・安全に徹底した商品を生産したいものであると、思われていた。その頃は、商品の安心・安全は、一種の生産企業の矜恃・誇りのようなものであって、何も手の内を明かさずとも、安心・安全を視覚化することなく、自信を持って、その生産する物である「商品」でもって、すべてを語り、すべてを知って貰うということが、「消費者との暗黙の了解・前提」であったような気がしてならない。言い換えれば、それは、「ブランドの絶対的な信用力」のようなものであって、それこそが、ブランド力の真価を発揮している製品・商品だったように、思えてならない。しかしながら、もはや、今日、このCMの如く、おおっぴらに、安心・安全をビジュアル化して、手の内をウェッブ上で明かさないと、消費者は、全く、ブランドを信用しなくなってしまったのであろうか?そう言えば、昔の100円マックの出現したあの時の「衝撃」は、何だったのであろうか?あの驚きは、何処へ消えてしまったのであろうか?一体、いつ頃から、マックに行かなくなってしまったのであろうか?藤田田による超先物為替予約の100円のレートにも、当時は、驚かされもしたし、100円コーヒーにも、驚かされたが、今や、コンビニでも、100円コーヒーが、当たり前に、提供されたり、あの感動は、もはや、失われてしまい、挙げ句の果てに、食べたいと思うような商品が、提供されずに、前社長は、交代の挙げ句の果てに、ベネッセへ転身したら、個人情報の漏洩問題を引き起こし、今度の後任の新しい女性外人社長にしても、なかなか、V字回復の目途が立たないうちに、今回のチキン・ナゲッツの中国・上海工場での問題発覚という事態に立ち至ってしまった。誠に、ソニーといい、日本マクドナルドといい、あんなに、輝かしい絶対的だったブランド力というものが、あっけなく、一夜にして崩壊し、消費者の支持を失うものであることが、これからも容易に分かろうというものである。果たして、どれ程の消費者が、このCMを観て、成る程、確かに、「安心・安全」であると、再確信し直すのであろうか?何とも、昔の栄光を知る人間としては、複雑な思いで、このCMを眺めざるを得ない。失った信頼と信用をブランドは、どのように、取り戻すのであろうか?

青色LEDとノーベル賞と特許訴訟

2014年10月11日 | 社会戯評
青色LEDとノーベル賞と特許訴訟:
3人の受賞者の内で、名前を知っていたのは、基礎研究よりも、応用研究をしていた東亜合成科学時代の中村修二教授である。もっとも、その頃は、会社での研究開発に於ける貢献度に対する報酬をどのように、特許として、評価するかという所謂、会社と社員研究者の闘いという側面と、その後の裁判の行方と、更には、結局会社を辞して、アメリカ、カリフォルニアでの究極の研究を選択して、日本を後にしたと言う経緯である。研究者としてのとりわけ、基礎研究の礎を築いた赤崎・天野教授のような如何にも、研究・学者肌なのに対して、何でも、「怒り」が、源泉であったというではないか、基礎研究・理論から、実用の世界へと云う流れが、評価されたのであろうが、豊田化成と東亜合成化学という特許を巡った係争や生臭い話は、別にして、コツコツ、ひたすら、会社の研究所や、大学の研究室で、ひたすら、一人、曠野をゆくが如きひたむきな研究人生は、一口に、40年、50年と云っても、なかなか、同じ事を出来るモノでもない。STAP細胞を巡る昨今の学会や理研の一件で、暗い気持ちになっていたものの、これで、又、何か、日本の元気が改めて、甦り、若い研究者に、一層の刺激が与えられると嬉しいと思うが、、、、、、。学校教育、会社での研究所の在り方、島津の田中フェロー等、今後も、今只中で、組織の中で、まさに研究をしている研究者や学生に対して、新たな道しるべを、送ってくれているような気がしてならない。どんな分野で、どんな素材で、どんな商品として、新たに、世の中に、具現化、商品化されて現れてくるのであろうか?そして、どんな人物が、登場してくるのであろうか?間違いなく、そういう人が、まさに、今の世に棲む人達がいることであろう。社員研究者による発明の対価と報償は、今後、どうなるのであろうか?お互いにとって、より良い関係性と結果が得られると良いが、、、、、。そうしないと、積極的な動機付けも高まらないであろう。

戦闘に参加する若者の気持ち:

2014年10月10日 | 社会戯評
戦闘に参加する若者の気持ち:
既に、日本人でもイスラム国への戦闘参加への渡航準備だけではなくて、実際に、戦闘に参加し、負傷した26才になる若者がいると報じられている。それにしても、宗教的な、或いは、イデオロギー上の思想信条を理解することなく、只単に、日常性や退屈な現状を打破しようとするだけの為に、命を落としかねない、或いは、人を殺しかねないそういう行為に参加を決断するその動機や背景が、今ひとつ、理解しかねる。確かに、昔は、赤軍派によるパレスチナ支援とか、岡本公三らによるロッド空港射撃事件とか、ある種の政治イデオロギーに基づく、少なくとも、自己確信犯的な動機が、明確にされていたような気がするが、今日、何か、「傭兵」のような、もっとも、傭兵というものは、プロのしっかりとしたカネ稼ぎが目的だから、動機もハッキリしているのであるが、今回の実際に戦闘に参加した若者や、未然に、摘発された者の発言では、どうにも、動機・思想信条がハッキリしていないことに対して、何気なしに、不気味なものを感じざるを得ない。まるで、仮想世界のゲームの中で、戦う戦士達の世界に、自分を投影した挙げ句の果てに、現実世界の戦闘行為の中に、身を置きたいと考えてしまったのであろうか?血の臭いや死臭漂う現実の世界と仮想空間上の世界は、ゾンビを倒すのとは、訳が違う。剣の世界を極めれば極めるほどに、死を見つめ直し、そこから、生をも見つめ直すと云われているが、この若者達は、一言、「死ぬことを何とも思わない」と平然とインタビューに答えているが、自分が、殺される覚悟は、一歩譲って、ある意味、大したものであるとすれば、それでは、人を殺す覚悟は、鏡の裏表で、どのような覚悟を持っていたのであろうか?昨今の性的な猟奇的な殺人事件にも、困ったものであるが、こういう若者と言っても、既に、26才になる訳だから、もはや、10代の若気の至りであるとも、思えないが、、、、、、。いくらネット宣伝の時代とは云え、そんなに、容易く、日常生活の中から、思想信条に基づかない、非日常へジャンプが、可能なのであろうか?逆説的に考えれば、今日、そんな難しいことは考えないで、直感的に、思想信条もなく、非日常性の中に、まるで、容易く、仮想世界のヒーローに、なってしまうということが、一般化・現実化しているのであろうか?もし、そうであれば、恐ろしい世界に、なりつつあることに、驚いてしまう。恐らく、現実は、これらは、氷山の一角なのであろう。それにしても、秋葉原事件ではないが、自殺志望者が、或いは、自分で死にきれない若者が、こんな形で、又、新手のブラック・ホールに吸い寄せられるように、事件を起こすような社会は、どうなってしまうのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

映画、「柘榴坂の仇討」を観る:

2014年10月09日 | 映画・テレビ批評
映画、「柘榴坂の仇討」を観る:
井伊直弼の実像は、歴史上で、本当に、頑迷な時代を読めぬ大老であったのであろうか?未だに、その評価が、定まらない人物であると云っても過言ではなかろうか?皮肉にも、生まれてからも、出世する機会に恵まれずに、逆に、それが故に、結局表舞台へと押し出されてきた為なのか、それとも、そうした境遇だからこそ、風流にも、若い頃には、精通して、なかなかの人物であったとの評価がある、一方で、皮肉にも、開国の方針が、考えてみれば、桜田門外の変は、1860年3月3日だから、その後の明治の跫音は、もう間近に聞こえていたのかもしれない、そんな外交政策も、あっさりと、後の世では、雪崩を打ったように、熱に浮かされたような攘夷から、一挙に、開国へと、反幕府側も、動いて行ってしまう訳である。襲撃した側も、襲撃された側も、それぞれに、冷酷な仕打ちに晒されたのは云うまでもない。そんな加害者側の生存者と被害者側の生存者という、ある種、全く別の角度からの、対照的な生き方、片や、明治の時代になっても、13年間も、刀を棄て、武士を棄て、ひっそりと逃亡生活を送る者と、同じ年月を、ひたすら、「武士の矜恃」を持続しながら、仇討ちの相手を探し続ける者。そして、その間で、時代の急激な変遷に合わせて、時代にうまく適合してゆこうとする者達、どちらが、正しいとか、どちらが、ベターな選択とか云うモノではないが、それぞれの人生模様が、そこには、時代の劇的な変遷に適応せざるを得なかった人間が、数多くいたのであろう。もっとも、彦根藩では、警護に携わった者達は、家族・縁者も含めて、切腹などの過酷な処断がなされたのも事実であるし、襲撃者にしても、命懸けで、直訴した以上、自訴・自決したものも、数多くいるし、捕縛されて、斬首されたものもいるのも事実である。最期の展開を記すのは、興ざめであるものの、家族とともに、生き抜くという途を選択するというエンディングは、何か、現代の生き方という課題をも、暗示しているようなものである。二人が、仇討ちの禁止という太政官の布告を無視して、斬り合いの挙げ句に、共倒れにならなくて、本当に、良かった、良かったと内心、ほっと、するものである。形は変われど、武士の矜恃は、相反する互いの鏡の中に、或いは、時代に適合をするというその中間の選択をせざるを得なかった多くの者達にも、又、継承されていったものであろうか?それにしても、男というものは、勝手なものなのであるのかも知れない。この映画の中に、描かれた様々な年代の「女房殿達」の思いとは、おおいに、複雑なものであろうと想像される。老母・老妻・妻・密かに慕う女・女児、後に、「士族の反乱」という形で、士の時代は、西南戦争で、終焉することになるのであるが、まだ、それは、桜田門外の変から17年も後のことで、この映画でも、この後4年後の出来事である。生きることを選んだ映画の主人公達は、その時に、どうしていたのであろうか?いつの時代でも、時代に、積極的に、適合するという選択も、逆に、しないという選択も、一体、何を守って、継承して、生き抜く選択をするのであろうか?或いは、何かを棄てないと、出来ないのであろうか?武士の魂である刀を棄てたり、髷を切ったりすることで、払拭できるものなのであろうか?なかなか、中村吉右衛門もよいし、音楽の久石譲も、よろしい、無論、時代劇には今や欠かせない中井貴一、そして、阿部寛も、広末涼子も、好演ではないだろうか?共倒れという残酷な結末になっていたら、どうであったであろうか?それはそれで、美しい武士の矜恃に殉じたと褒め称えられるのであろうか?それとも、時代に適合しなかった不器用な生き方と笑うのであろうか?現代という時代も、いつの時代も、形は変われど、如何に生きるべきかを考えさせられる。

次は、本当にウェアラブルなのか?:

2014年10月08日 | 社会戯評
次は、本当にウェアラブルなのか?:
何せ、PC選びでは、いつも、半周遅れ、否、1周くらいは遅れていると自負(?)している自分であるが、やっとの思いで、人並みに、スマホに追いつき、やれやれ、これで、当分、一安心かと思いきや、何でも、今度は、メガネのように装着する型のウェアラブル端末の時代が、近い将来、到来しそうであるという有難い(?)ご託宣が、IT見本市では、下されているという報道がなされている。何とも、後追いランナーのユーザーにとっては、毎度のことだが、車選びと云い、PC選びと云い、困った、頭の痛い話である。持ち運びの良い軽いネット・ブックかと思いきや、そのうち、ネット・ブックという言葉自体が死語と化し、やがて、タブレット型が出てきたら、今度は、スマホが、主流になり、いつの間にか、腕時計やデジカメすらも、駆逐してしまうスピードの速さには、誠に、舌を巻かれてしまう。今度は、次世代の車のナビゲーション・システムにも、いよいよ、車の情報化や無線LANの実施で、移動する空間までもが、ひとつのメディア媒体と化し、いつでも、何処でも、誰彼でも、情報の受・発信が、リアルタイムで、可能になってしまう時代が、今や、すぐそこまで、きているというのであろうか?車を運転しながら、或いは、歩き乍ら、ジョギングし乍ら、或いは、ゴルフをしながら、ショットの合間に、PCを操作して、メール指示するそんな夢のような、冗談では済まされない時代が、果たして、やってくるのであろうか?海外リゾート地のゴルフ場から、パッティングの間にでも、知らぬ顔をして、指示を出したり、犬も歩けば、棒に当たるではないが、歩きながら、ウェアラブル端末を操作していて、電柱にぶつかりでもしないかと、、、、、、年寄りは、今から、下らぬ心配をしてしまうが、、、。それにしても、大変な技術革新の時代が、今まさに、進行中なのであろう。もう、年寄りには、周回遅れでも、不自由と感じなければ、旧モデルでも、宜しいのだろうか?時代の技術革新のスピードの方が早過ぎると感じるのは、私一人だけだろうか?

不正ログイン可能性の通知と迷惑メール:

2014年10月07日 | 社会戯評
不正ログイン可能性の通知と迷惑メール:
それにしても、今や、メール・アドレスは、別々のバック・アップ用のメール・アドレスを複数保有していないと、不正ログインによって、どんなに、自分がアンチ・ウィルスのソフトを入れていても、大元のサービスを利用している業者のサーバーが、攻撃されてしまうと、登録していた情報が閲覧されて、結局は、それが、名簿業者やいかがわしいIT業者やIT詐欺グループに、利用されてしまう恐れが極めて高くなる。無論、迷惑メールやジャンクメールの振り分け設定をしているから、ある程度のガードは、可能であるものの、何せ、相手は、巧妙で、アナログで、迷惑メールを発信しているのではなくて、恐らく、コンピューターの専門ソフトを活用して、昼夜を分かたずに、1時間おきでも、或いは、ドメイン名を文字や記号の羅列を無限に乱数表のように変更しては、似たような内容で、攻撃を仕掛けてくるから、不愉快極まりない。しかも、中には、ご丁寧に、銀行やSNSのサポートやセキューリティー、或いは、法務部門を装って、わざわざ、パスワードを新しく変更して下さい式に、要請してくる詐欺メールまでも、来る始末である。もうこうなると、具体的な手口を知っていないと、うっかり、騙されてしまいかねない。パスワードの新規作成も、ITコンサルタントの推奨する方法を採用して、再設定するが、考えてみれば、これとて、一般公開されているとなると、未来永劫、セキューリティーが保証されているとは限らないであろう。それにしても、ヤフーでも、楽天でも、不正アクセスのニュースが報じられる度に、スクリーニングされる迷惑ジャンクメールが、増加する傾向が垣間見られるのは、どうしたことであろうか?一体全体、無垢のユーザーは、どのようにして、自己防衛したら良いのであろうか?そんなに、簡単に、ドメインが、ランダムに、登録出来るのであろうか?しかも、最近では、Mobiとか、明らかに、携帯電話を活用したものや、海外の訳の分からない国名のサーバー経由で、日本語で、送附されてくる手の込んだものまでもあるのは、どうしたものであろうか?メール拒否設定も、特定の文字、ドメイン名、国名、こちらは、手作業で設定、相手は、それを更にかいくぐって、コンピューターで、苦も無く、対応してくるのであるから、たまったモノではない。もっとも、こちらは、毎日が日曜日であるから、問題ないが、現役世代の人は、さぞかし、大変であろう。何か、根本的に、対応する術は、あるのであろうか?あれば、教えて貰いたいが、敵もさるものであろうから、永遠の「矛と盾」の様相であろうか?いずれにせよ、実質的な被害がでないように、どのように、個人情報を守ってゆけば良いのであろうか?便利な反面、本当に、ウカウカしていられない時代である。

なかなか、地方都市の具体的な顔が見えてこない:

2014年10月06日 | 社会戯評
なかなか、地方都市の具体的な顔が見えてこない:
地域のブランド調査の知名度という基準が果たしてどんなものなのかは、定かではないが、どうやら、軽井沢は全国14位に対して、小諸市は、187位だそうである。小布施や上田・佐久・東御市は、何位なのであろうか?これを年間10位づつ、毎年順位を上げてゆきたいそうである。市の制定する基本計画施策の成果指標の見直しを各部の部長クラスと討議する審議会である。それにしても、標語の言葉というものは、概念を理解しそうでいて、なかなか、厄介な代物である。例えば、コンパクト・シティーとか、或いは、市の認知度を上げるために、シティー・プロモーションを推進するとか、税収を増やすためにも、企業誘致や起業支援や、人口減少対策として、移住・交流人口の増加やiターンの促進とか、個別課題を具体的なアクション・プログラムに落とし込んでその各々の成果と実績を評価してゆこうという、それ自体は、決して、間違っていることとは思えないが、何とも、具体的なやり取りの中での成果の評価は、厳しいものがある、即ち、起業誘致にしても、今日、高速道路の近くに、工業団地を造成して、起業誘致を目論もうというようなそんなビジネスモデルは、とうの昔に、海外生産移転や何やらで、決して、うまく軌道に乗っているとも思えないし、起業支援などと謳ったところで、一体全体、どんな産業の創生や新しいビジネス・モデルを創り出す人々の起業を支援していったら良いかという方向性が、模索中で、確立されていない。今更、山形県の鶴岡市のように、大学の研究室と提携して、最先端医療研究都市を目指せる訳もなく、ワイン特区の件にしても、隣の東御市や他の長野県の都市に、先を越されてしまう勢いであろうか、どうやら、情報発信が大変下手くそであると云われているが、今日、情報の自己発信も大切であるが、今や、「他人の褌」で、どんどん、SNS等で、瞬時に、その場から、情報を宣伝発信して貰うような世の中である。イン・バウンドの増加策にしても、グリーン・ツーリズムにしても、何処かの町や市でも似たようなコンセプトで、今や、競争激化であるのが、残念乍ら、現実である。肝心の人材育成や教育環境の改善施策についても、なかなか、役所という組織は、「実行に至るスピードに対する時間の概念」が、ひどく、希薄であると云っても過言ではない。何でもすみれ号の運行実績についても、年々、減少の一途を辿り、地域交通の確保の掛け声とは、全く、別のところにあると云っても宜しいかも知れない。不登校対策や貧困家庭の子弟に対する寺子屋式のボランティアによる課外授業の提供とか、頭と知恵を絞り出せば、何とか出来そうな問題解決が、そこここに転がっている。又、民間の新製品を実証試験やマーケティングしたい会社とタイ・アップして、電気バイクや電気自動車の貸し出しとか、話題性も含めたサービスをオカネを懸けなくても、他人の褌で、相撲を取れるような仕組みを叡智を駆使して考えられても良さそうである。ましてや、ビッグ・データの活用やオープン・データの一次加工販売とか、様々な可能性もあるように思えてならないが、どうやら、地方都市というものは、最初にやり出したところが、ファースト・ランナーで、結局、そのまま、走り出して、そのまま、ゴールを切るようなものなのであろうか?結局、実現困難だとか、難しいとか云っている間に、必ず、他の都市が、先行して、成功事例を作り、後追いになるのが、どうやら、小さな地方都市の宿命なのであろうか?結局、時間だけが空しく過ぎ去り、やがて、空き家も、空き店舗も増加し、街自体が疲弊してゆき、税収が減少し、行政サービスも低下し、挙げ句の果てに、有為な人材は流出し、縮小均衡と人口減少の末に、、、、、、、陥らねば宜しいが、と、感じざるを得ない。課題が多すぎて、しかも、時間との闘いが、一方では、出始めている。地方都市の議員・住民は、実際、どのように、この現状を考えているのであろうか?地方創生の課題が見えてくるものの、肝心の都市構想イメージの顔が見えてこない。

国会論戦にみる:

2014年10月05日 | 社会戯評
国会論戦にみる:
論戦というものは、所詮、同じ土俵の上に立ってこそ、実のある論議が行われるものであって、それが、まるで、かつての異種格闘技戦のように、同じルールの上に立たずに、戦わされたときのあの騙されてしまったような感覚を彷彿とさせる。同じ数字でも、常に、それは、表と裏、自分に都合の良い数字と悪い数字という側面があるわけで、それを互いに、例えば、実質賃金、名目賃金、或いは、役員や公務員給与が反映されたものかどうかを議論しても、なかなか、その同じ土俵の中には、入ってこないものである。もっとも、攻める側にしても、考えてみれば、それでは、てめぇが、政権を握っていた間には、デフレの克服も、実質賃金の上昇を実現できたかどうかを問われると、やや、怪しげなことになってしまう。アベノミクスの光と影は、以前から、云われていた話であるが、劇薬でも飲まない限り、坂道を転がり落ちてゆく日本経済の傾向を打破する途はないであろうという選択だったのかも知れない。もっとも、その成果は、それ程、短期的に、判断されるモノではなくて、もう、少々、時間を見なければならないのも、又、事実であろうかも知れない。どうも、攻める側には、少なくとも、過去の政権時に描いた政策の真摯な反省と詳細な分析と、これに伴う将来への政権復帰への青写真を国民に、単に、攻めるだけではなくて、具体的に、安全保障・集団的自衛権でも、急激な円安でも、実質賃金の上昇施策でも、アベノミクスに対峙できうる方向性を、提示し得ない限り、なかなか、論戦自身も空しいものになり、結局は、コップの中の嵐にしか、過ぎないような状況を招来してしまうのではないかと、年寄りは危惧してしまう。慰安婦問題に関する海外への情報発信にしても、イスラム国への攻撃の協力要請の可能性にしても、香港の民主選挙のデモにしても、どうも、攻める側からも、守る側からも、一向に、どう考えているのか、本音が聞こえてこない。円高の時にも、内需の拡大には、失敗して、結局は、輸出頼みとなり、今度は、急激な円安の時には、輸出が思うように、振るわず、逆に、原材料費の高騰に伴う競争力の低下を招いていると、、、、、、一体、全体、どちらにぶれても、八方ふさがりなのであろうか?それにしても、地方創生も、年金改革も、定数是正も、肝心の成長戦略も、最近では、影が薄くなってしまい、掛け声倒れにならないように、年寄りは、記憶に止めて、忘れないようにしたいものである。そんなこんなの間に、消費税の再値上げの時期は、刻々と迫ってきているのは事実である。民主6人衆の復権も結構だが、日本再生・復権の方は、如何であろうか?そんなグランド・デザインが、なかなか、見えてこないと感じるのは、私1人だけであろうか?

FM、音楽遊覧飛行を聴く:

2014年10月04日 | 映画・テレビ批評
FM、音楽遊覧飛行を聴く:
様々なテーマの中で、時々、アジア音楽の曲を聴く日があることは、嬉しい。中でもタイやインドネシア、ベトナム、インド、等は、なかなか、メロディー・ラインが、日本人の耳にも、何故か、耳馴染んでいて、心安らぎ、楽しくなる。尤も、歌の詞の意味が分からないから、頭の中で、想像で、何を謳っているのかを考えることが、これ又、楽しいものである。学校での音楽の受業などにも、取り入れてみたら如何なものだろうか?まずは、原曲を、直に生のまま聴いて貰い、何の説明もせずに、想像力だけを研ぎ澄ませて貰う。そして、間違っているかどうかは、問題ではなく、むしろ、想像力を最大限に高める過程の右脳の刺激が大切なのである。そして、更に、自分の頭の中で、どんな歌詞なのかを想像で、日本語で(?)書き出してみて、作詞をしてみるというものである。もはや、想像するだけでも、既に、十分なのかも知れない。これなら、楽譜が読めなくても、誰でも耳が不自由でなければ、曲を聴くことが出来て、未知の国のイメージを、想像力を逞しくして出来るのではないだろうか?年寄りの脳の老化の防止にもなるかも知れない。作曲というものは、なかなか、難しいものであるのかも知れないが、作詞、或いは、情景を目に浮かべるだけでも、メロディー・ラインに、とりわけ、その国の言葉が分からないけれども、(否、分からないからこそ?)何とはなしに、想像で、多分、こんなことを言っているのかも知れないと思い巡らせることこそが、大切なのかも知れない。ふと、アジア音楽を聴いていて、そんなことを感じる。小さな子供には、最適かも知れない。一種の替え歌の範疇かも知れないが、、、、、。それよりは、もっと、普段余り機能していない右脳の想像力をおおいに、かき立てられ刺激されそうである。

生死を分けたものとは何なのか?:

2014年10月03日 | 社会戯評
生死を分けたものとは何なのか?:
私の亡くなった父は、中国から南方戦線へ従軍中に、ラバウルで、痔を患って、手術を受けたために、ガダルカナルへ転戦されずに、そのまま、インドネシア戦線に残留することになり、終戦を迎えて、戦後、復員して、私が、結婚後、生を受けることになったと語っていた。一体、人間の生死を分けるものは、何なのであろうか?ここのところ、度重なる災害で、とりわけ、普段、想像すら出来なかったような突然の災害に際して、何が、一体、生死を分けたのであろうか?無論、夜中にでも爆発していれば、こんなに被害は、大きくなかったのかも知れないが、、、、、、。たまたま、健脚で、お昼前には、山頂で、お弁当を食べる予定で、登山していたのであろうか?それとも、それ程、健脚でなかったから、ゆっくりと、遅れていたから、頂上に、至らず、その手前で、爆発に遭遇したのか?動画を投稿していた人達のコメントを聴いても、何とも、理解出来ない。とりわけ、噴火直前に美しい火口付近の池の写真をツィッターで投稿した方は、どうやら、亡くなられたらしいことが、報道されている。それにしても、噴石による後ろからの外傷性の損傷死やら、想像以上に、その現場に遭遇した時間と場所が、何処に居たかによって、生死を大きく分けたのであろうか?徐々に、生存者の生の証言や、捜索の状況が明らかになるにつれて、我々は、一体、どのように、考えたら良いのであろうか?予期せぬ災害も事故も、かつて、何処かで聞いたことのある、あの「想定外」という言葉を、改めて、想い起こす。一緒にいた家族や友人や子供を亡くした被害者の心中を考えると、複雑な思いがしてくる。それにしても、どのくらいの人達が、遭難死に至り、何人が、奇跡的に生還したのであろうか?まだ、行方不明の人達が何人いることであろうか?全貌がつかめるには、まだ、時間が掛かりそうである。学者が言うところの「噴火予知のレベルは、まだ、こんなものである」という言葉と、遺族の云う、「せめても、入山規制の引き上げがあったら、、、、、、」という言葉には、何とも言い得ない複雑な思いが、垣間見える。日常の中に潜んでいる災害や事故は、一体、どのように、予知できるのであろうか?そして、生死を分けたものとは、何だったのであろうか?自問自答が続きそうである。亡くなられた犠牲者のそれぞれの人生模様を聴くにつけ、何とも、複雑な思いに駆られてしまう。

一国二制度と香港雨傘革命:

2014年10月02日 | 社会戯評
一国二制度と香港雨傘革命:
爪を研いで、待った甲斐があったせいか、今日、中国は、経済力をつけたが、小平が保証した香港での「一国二制度」は、逆に、諸刃の刃と化しつつある。とりわけ、経済力をつけてしまった今日、政治上の民主主義という代物は、学生が叫べば叫ぶ程に、中国にとっては、あの忌まわしい天安門事件を想い起こすことになり、最期には、伝家の宝刀である人民解放軍による武力鎮圧が待っているだけのことであろう。それが証拠に、常任委員会での決定は、どんな圧力を以てしても、決して、覆ることはないであろうと、断言もしている。所詮、自由な民主主義選挙と呼ばれるものは、「一国二制度」の香港の中であっても、結局は、許されざるものなのであろう。余程、金融的、行政的な混乱でも起こらない限り、最終的には、武力弾圧をちらつかせながら、威圧的に、事を運び、或いは、東ウクライナではないが、親ロシア住民とか云う、親中国派の住民を傀儡として使用しながら、対峙させてゆくという構図に遅かれ早かれなるであろう。その行き着く先には、中国中央政府の思い通りのシナリオの下で、傀儡民主主義成る「一国二制度」の形骸化と矮小化が着々と進むことになるのであろう。香港島の中心部の物理的な占拠も、いつまで続くやらわからないが、又しても、ひとつ、東シナ海の問題と言い、中国少数民族への強権的な弾圧政策といい、国内政治へ波及する恐れのある、新たな火種が、生じることになった。これは、まだ、第一章の幕開けなのか、それとも、単なる壮大な序章の始まりなのであろうか?否、所詮は、線香花火なのであろうか?

アイルランド税制なるもの:

2014年10月01日 | 社会戯評
アイルランド税制なるもの:
おカネというものは、簡単に、国境を越えて、一番税の安いところを利用するものなのであろうか?一体、このグローバリズム全盛の中で、なるべくならば、税金の少ないところに、利益を移転して、限りなく、利潤を膨らませたくなる誘惑に、企業は駆られるものなのであろうか?もはや、社会的な使命とか、税金をきちんと支払ってこそ、企業人はなんぼであると云う昔風の企業人としての矜恃は、もはや、遠い昔の戯言になってしまったのであろうか?何ともアップルを誘致するためのこのアイルランドの税制なるものに対して、やっと、EUが、重い腰を上げたことは、米国政府にも大から少なかれ、影響を及ぼしてくることは必至であろう。それにしても、国家間での国際競争、企業税制の税率競争、誘致合戦、一円でも安い労働力を求めて、まるで、渡り鳥のように発展途上国を渡り歩く企業活動、そういうことが出来る人達は、未だ良いかも知れないが、まさに、競争条件が不当に歪められて、そうした競争にも乗り遅れてしまう、それが出来ない人達は、どうしたらよいのであろうか?結局、危険危惧種にも指定されず、空しく、歴史の中で、淘汰・消滅してしまう運命なのであろうか?国際的な租税回避策に対するルールの策定が急がれているが、やっと、こうした矛盾が解決されそうな兆しが見え始めてきたのであろうか?それとも、税収の急激な減少に伴い、結局、背に腹は替えられなくなりつつあるのか?否、もっと、もっと、ずるがしこく、ニッチなところを、狙って、そういう人達は、世界の果てまで、再び、場所を移動させてゆくだけなのであろうか?考えてみれば、労働力の安いところへ、税金の安いところへ、昔も今も、人々は、カネと一緒に、流れてゆくのであろうか?それが出来得ない残された人間は、どうなるかと思い描くと、考えさせられてしまう。