小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その6:自販機と水:

2015年07月17日 | 健康
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その6:自販機と水:

歩き遍路の人の説明では、人間は、3日くらい食事をとらなくて、何と言うことはない、決して、死ぬことはないが、水を補給しなければ、間違いなく、死に至ると、とりわけ、山の中に入ってしまったときには、人間は、所詮、水分から出来ていることを改めて再認識すると、成る程、1リットル以上の水を携行していても、雨でも関係無い、汗をかくどころか、水分補給しないと身体が持たないのである。そんな分かりきったことが改めて実感される。走行すればするほど、歩けば歩くほど、水分を身体が必要とするのである。ジュースなども、もはや必要ない。湧き水でも雨水でも良いのである。山中で、喘ぎあえぎ、自転車を押しながら、歩いていると、今度は、ガス欠ならぬ、水欠に気がつき始める。こんな山の中で、一体何処に、水が、入手出来るのか?いざとなれば、沢の水を汲めば宜しいかな?そう思うと案外、気が楽になるも、水を汲もうとして、沢に転落はしないかな?怪我はしないだろうか?何とも、人間とは、色々な最悪の事態を考えるモノである。まぁ、車が通る道だから、倒れても何とか、誰かが、自転車を見つけてくれるであろうか?死ぬことはないであろうと、、、、、、。どれ程先に、自動販売機はあるのであろうか?必要な時には、案外、気にもならないし、自動販売機の存在それ自体に気が付かないモノである。必要でないときには、眼に入らないモノである。そして、本当に、必要とされるときには、手に入らないモノなのであろうか?何か、まるで、銀行からの融資のようではないか?必要な時には、手に入らず、必要で無いときには、結構、備えがされている。今回の旅行も、同じような教訓が導き出される。必要だと思って持参したモノは、あまり、用を足さず、実際、必要になったモノは、持参していなかったとは、実に、皮肉である。雨のために、予備として、持参したモノは、役立たず、アナログのポリ袋のようなモノのほうが、役に立つとは、困ったことである。それにしても、予想と予測、想定内と想定外とは、一体、何処から、こうした差異は、生じてくるのであろうか?まだ、旅行だから良いものの、これが、人生そのものだったら、どうなるのであろうか?安全対策上、被っているヘルメットの中から、耳紐の辺りに、どうやら、熱いお湯のようなモノが、したたり落ちるようになってきた。どうやら、汗が、暖まってしまったようである。いつも、冗談で、冷や汗しかかかないのに、汗は、冷たいモノと思っていたのに、何とも、皮肉なことである。
後で、そんな光景を想い出して、一句浮かんだ。
「冷や汗も 熱くしたたる 鬼龍野(オロノ)谷」
おまけに、行けども行けども、下り坂が終了すると、再び、峠で登りである。又、登りながら自転車を押す。この繰り返しである。やや、街の外れとおぼしきところへ出てきたので、自動販売機も期待できようものの、全く、コンビニも食料品店も自動販売機も見当たらない。いよいよ、残り少ない水を最期の一口残して、飲み干して、自転車を漕いでゆくと、行く手に、お店の横に、自販機が見えてきた。まるで、思わず、手を合わせて、拝みたい気持になるのは、都会の自販機とは大違いである。神山温泉に到着するまでに、結局、2回ほど、自動販売機で、冷たい水分補給をした。しかも、水とビタミン・ドリンクと一寸甘いネクターである。それにしても、車ならば、冷たい飲料水を積み込んでおけばそれで済むわけではあるが、自転車では、そうはゆかないことを改めて、実感する。13番大日寺でお握りを食べ終えてから、難行苦行、神山温泉に到着するまでに、結局4時間ほど、午後5時頃に、ヘトヘトになって、転がり込むことになった。山中、二人同行して貰った金剛杖を丁寧に洗って、床の間を見ると、紫陽花の花が、床の間に活けられていた。窓の外には、水車小屋が目にとまった。やっと、景色にも、目が行くようになったのであろうか?何せ、100m程度先しか、これまでは、見ていなかったような気がしてならない。景色は、本当に天気がよいときでなければ、或いは、心に余裕がなければ、愉しめないモノであることが、再認識された。ヌルッとした天然温泉の神山温泉で、この日は、ゆっくりと、疲れ切った筋肉をほぐし、入浴できた。


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