小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

死の軽重という誘惑

2019年06月09日 | 社会戯評

人の死の重さとか、その価値を敢えてつけようとする、禁断の議論の誘惑に、つい駆られてしまいかねない、誠に、理不尽な、不条理な事件である。近所と諍いを起こしていたとか、プライバシーを尊重しているのかどうか分からぬが、容疑者死亡というわずか、2-3行の行間で、哀れにも、小さな子どもや、前途有望である外交官があっけなく、命を奪われてしまったことに、誠に、唖然とせざるを得ない。集団登校の是非やら、犯罪心理学者の分析を後付けされても、この安全神話が横たわる列島に、激震が走り去った。数多くの交通事故死というものも、この事件の前では、全く、跡形もなく、もろくも、その衝撃度からして、崩れ去り、嘗ての秋葉原無差別殺傷事件を想起して、慄然とし、改めて、この世の無常を痛感せざるを得ない。被害児童の通学するカソリック系学園関係者の毅然とした記者会見の態度には、少なからず、教育者としての矜持が感じられたことは、少なからず、多少の救いを感じられたモノである。

それにしても、事件への今後の対策とか、原因究明とか、そんなことは、誠に、後回しでも宜しいし、全く、関係のない他社を巻き込んだ形の無理心中まがいの一種の自殺劇は、まるで、新宿都バス・ガソリン炎上事件をも、想起させるようで、実に痛ましい。識者の中には、一報を聞いて、覚醒剤や精神疾患を患った人間の犯行ではないかという見立てもあったが、全く、その筋の延長線上ではなく、冷静に、柳刃包丁を複数準備したうえ、当日朝に、平然として、隣人に挨拶を交わして出かけたとも伝えられているようでもある。こうなると、もう、ほとんど、無理心中に近い形での自殺なのであろうか? 人は、生まれながらにして、幸福に暮らすことを与えられていると同時に、一方で又、理不尽に、命を奪われてしまう危険性も、孕んでいることが、改めて、再認識される。そういう負の可能性を有するものなのであろう。わずか10数秒間での凶行に、偶然、遅れて、或いは、早めに、それこそ、後30数秒でも、時間的に、違えていたら、、、、、、、、、と思うと、実に、それはそれで、又、むなしさが増してきてしまう。それが、人生というものなのであろうか?そして、人生とは、そういうモノであると思わざるをえないものなのであろうか?果たして、それで、納得されるものなのであろうか?民事損害賠償請求が出来ない場合には、国家的に、救済援助してくれるような制度は、あるのであろうか?合掌する手も、思わず、その理不尽さともっていきようのない怒りと諦めとで、震えてしまう。

 何故、宗教界のリーダー達は、沈黙して、やまないのであろうか?面と向かって、人の死には、価値の軽重も大小も一切なく、諸行無常なのだとはっきりと断言して、散々に、ネトウから、大炎上することが、必要ではないだろうか?テレビ画面の向こう側で、何やら得体の知れぬ闇が、にやにやと笑っているように思えるのは、私だけであろうか?年の終わりに、漢字一文字で、その年の世相を書いて演じる、高僧は、何を思っているのであろうか?聞こえてこないですね、、、、、、、。今こそ、宗教界の自称リーダー達は、発言すべき時でしょう。