小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

大杉 漣、映画、<教誨師>を観る:

2018年10月16日 | 映画・テレビ批評

大杉 漣、<教誨師>を観る:

 

2018年02月21日に急逝してしまった、<300の顔を持つ男>と異名をとる、大杉漣、イグゼクティブ・ディレクターにして、且つ最期となってしまった主演作品である。ネタばれになるので、映画の内容は、予告編などで、参照してもらえれば幸いなので、ここでは、映画の評論にとどめることにする。限られた時間、残された時間の中で、生きている6人の死刑囚の経緯・馴れそめが、後半に懸けて、徐々に、観客にも、理解されてくると同時に、教誨師という経歴に何故になったのか、どういうきっかけでなったのかという、対峙する側の個人的な履歴も、この映画の中での大きなテーマであろう。求道者にして、罪人を悔い改めさせ、善人にみちびく、魂の安寧に至らしむる役割とは、キリスト教に限らず、ここで登場する宗教という役割自身、そして、何より、刑法・死刑制度、裁判制度、それ自身の在り方、又、栽培員裁判や陪審員制度とは、被害者と加害者、或いは、それら各家族や友人を含めた関係者との相互関係性、道徳的な罪と罰、国家権力による無慈悲な合法的な死の執行、究極的な物理的な生命の抹殺、等などとは、すべて、正しいことなのか、それとも、単なる自己満足・偽善的なことなのか、又、その本質を知ろうと追求することこそが、果たして、本当の意味で、真実とは、何で、正しいことなのか、それとも、自己満足であって、何故理解し、知ろうとするのか、?

一体、本質とはどういうことなのであろうか、裁く人間と裁かれる人間との間には、何があり、何故、死刑囚は、何のために、生き続けるのか、我々は、何故、残されても、生き続けるのか、理解者として教誨師の行う、<対話>とは、一体、何のために、それは、本当に、心と心、魂と魂が、激しく、ぶつかり合い、言葉と言葉が、火花を散らしながら、何か、互いに、融合でもするのであろうか?一見、懺悔と基督教徒への入信への牧師としての手助けも、後日、<罪が、誰によって、本当に裁かれるのであろうか?>というグラビア写真に拙い覚えたての平仮名でメモ書きに残されたホームレスの老人死刑囚の一文には、余りにも重いものがあろう。生きるためには、平気で、無意識のうちに、或いは、意識的にも、教誨師にも、平気で事実を捏造したり、嘘をつき、利用する死刑囚のしたたかさ、生きるためのギブ&テイクにも似た生きるために手段を選ばない取引のようなやり方など、相模原障害者殺人事件を模したようなエゴイスティックな狂信的な若い死刑囚との議論にも、一瞬、たじろがざるを得なくなる教誨師に、その死刑執行直前に、ふらつきながら、抱きついた瞬間に、<耳打ちで、口にした一言は、一体、何だったのであろうか?>この自分が犯した犯罪を理路整然と主張し続けた若者に、最期の瞬間直前に、<教誨師に、何をつぶやいた>のであろうか?私には、大変、興味深く、気になるところである。

今から、50年ほど前の大島渚監督の<絞死刑>や数年前の是枝裕和監督の<3度目の殺人>など、併せて、再度じっくり、観てみたいモノである。本当ならば、大杉漣に、イグゼクティブ・ディレクターとしての感想やら、コメントが、貰いたいところだし、第二作・第三作も、期待したいところであるが、誠に、本人も無念な想いであろうことは、容易に想像できる。各俳優の評価も、余りよく知らないので、コメントは、差し控えることにしますが、70年代に、若くして、藤十郎や寺山修司に、学び、その後、劇団で、<沈黙劇>を学び、80年代の下積の食えない役者時代には、ピンク映画やVシネマで、食いつなぐ中で、あの独特な癖のある、嫌らしいカメレオン的な役柄を、<300の顔を持つ男>として、雌伏して、ようやく、90年代に、<遅咲き俳優>として、HANABIやソナチネで、北野武監督に、しかも、その見いだされ方というのも、際だって、偶然の出来事で、役者人生とは、誠に、奇妙なものである。最期の息を引き取るときも一緒であった田口トモロヲも、含めて、こうした役者達が、一瞬の閃光とともに、光を放ちながら、消えてゆくのは、おおいに、残念で仕方ないし、映画の手法や、ディテイルには、若干満足いかないものがあるものの、その大命題である、各種のアングルから、とりわけ、教誨師という観点からのアングルは、評価されて宜しいのではないだろうか、又、長編歴史小説など多数作品を残している吉村昭の短編、原作<休暇>(中公新書の蛍に所蔵)も、読んでみることにしよう。

志半ばで急逝した大杉漣の御霊よ、安らかに!と祈ってやまない。