小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

愛犬のお墓に落ち葉を盛り土する:

2014年11月08日 | 動物・ペット
愛犬のお墓に落ち葉を盛り土する:
今年も、紅葉の紅葉が終わり、松葉の尖った落ち葉が、ハラハラと道路に落ち始めた。レーキーで、道路の上を匍わせるように、50mばかりを行ったり来たりすると、大量の松葉が、幾つもの山盛りになった。毎年、これを樹木の根元に、肥料代わりに、盛り土すると同時に、我が愛犬のお墓にも、山盛りに盛り土してあげ、最期に、その頂きに、子供達が小さい頃に工作の時に作った素焼きの家を、チョコンと置いて、その玄関とおぼしきところに、ミニチュアの虎の小さなおもちゃの人形を、寂しくないように置いて、雨にも強いラミネートフィルムに入れた愛犬の写真を飾るのである。その頭上には、毎年、春には、八重桜が咲くし、秋には、モミジが、真っ赤に枝毎全体が染まる。又、玄関の出入りをいつでも、見れるように、生前同様に、番犬の役目を果たしていたお気に入りの場所にも、目と鼻の先に近い。もう一緒に、春の花見も、秋のモミジの紅葉も、愉しめないが、これからも、季節が変わる節目毎には、君を想い出すだろう。もう、すっかり、モミジの紅葉した葉も落ちて、今度は、どんぐりの樹木が、黄色い葉に、変色してきています。晩秋から、いよいよ、冬支度の準備を進める時期になってきました。

亡き愛犬の絵を描く:

2014年10月26日 | 動物・ペット
亡き愛犬の絵を描く:
玄関の横にあるモミジの紅葉が、いよいよ始ってきた。今から、2年前の11月08日付けの日付の入った愛犬の写真が、写真立ての中でこちらを見つめている。あれは確か、昨年の6月11日に永眠してから、愛犬の絵を描こうと思い立ち、スケッチブックを買ってきて、子供達が小さい頃に使用したクーピーのクレヨンで、彩色しようとしたが、なかなか、スケッチが、難しくて、断念したという曰く付きの絵である。足かけ二年に亘って、作業が中止されたままのスケッチを、たまたま、版画を彫ってみる図柄を幾つか考えていたときに、そう言えば、未完のスケッチ絵があったことを想い起こして、スケッチブックを捜してきて、突然思い立って、彩色してみようとするものである。それにしても、鮮やかな真っ赤に紅葉したモミジの樹をバックにして、もう足腰も衰えて、後ろ脚をやっと、何とか踏ん張りながら、太い前脚で、階段の上から、亡くなった母の冬のスラックスを、女房殿が再生利用で、冬の散歩用のコートを作ってくれたので、これを羽織って、これから、階段を辛うじて、降りて、散歩に出掛ける前に撮った写真が、元になっているものである。考えてみれば、もう、この時には、眼も、耳も、不自由で、おまけに、足腰も衰えて、やっと、鼻だけで、なんとか、散歩していたことを想い起こす。目が不自由だったのに、何故か、こちらを凝視して、カメラにポーズをとってくれた訳である。私は、モミジが紅葉する季節になると、毎年、この出来事を想い出して涙が溢れてきます。一緒に散歩の途中で、投げては、拾って遊んだ松の枯れ枝の棒きれも、リードを外して、自由に走り回った松林も、もう、私は、君を思い出すので、哀しくて、行きません。家族みんなで、君と一緒に愉しんだ春の桜の花見も、秋のモミジの紅葉も、冬の雪の野原で走り回ったことも、その季節が来る度毎に、君を想い出されます。絵の中の君は、一寸、私の拙い腕のせいか、顔が大きく描かれてしまいましたが、許して下さい。でも、モミジが、紅葉する度に、私は、ずっと、君のことを、君と一緒に過ごした時間を、忘れることはないでしょう。今年も又、その時間が、近づいてきました。君は、そのモミジの樹の傍で、深い眠りについていることでしょう。今度は、桜の樹の下で一緒に愉しんだお花見の絵を描くことにしましょう。いつになるか、又、分かりませんが、待っていて下さいね。


我が亡き愛犬に酷似したワンちゃんに出遭う:

2014年09月21日 | 動物・ペット
我が亡き愛犬に酷似したワンちゃんに出遭う:
我が愛犬との散歩を、これまで、日課としていたにも拘わらず、亡くなってしまうと、良く通った散歩道も、何気なしに、寂しく感じられてしまうものである。そんなことで、いつしか、散歩の脚が遠のくことになってしまった。そうなると、徐々に、糖尿予備軍から、退役していたはずであるのに、知らぬ間に、再び、予備軍再編入の危険性が高まるという皮肉な血液検査の厳粛な結果が通知されて、やむなく、再び、日課の散歩を、ノルディック・ポールを活用して、歩くことにした。そんな中で、偶然、我が亡き愛犬に、そっくりなワンちゃんに出遭ってしまった。体つき、模様、体格もほぼ、類似していて、思わず、買い主に声を掛けて、挨拶させて貰った。それにしても、良く酷似したワンちゃんがいたものである。その昔、我が愛犬の別れた姉妹犬と偶然、公園で出遭った事があったが、それ以来の驚きである。今度は、我が女房殿と一緒に、このワンちゃんを借り受けて、散歩に一緒にゆきたいものである。ひとつ、楽しみが出てきた。

ふと、愛犬を想い出して、涙溢れる:

2014年07月15日 | 動物・ペット
ふと、愛犬を想い出して、涙溢れる:
何故か、ふと、君が、ベランダから、網戸を器用に、その鼻先で、開け放って、部屋に、ヌウーと入ってくるような気がしてならない。子犬の時に、初めてリードをつけたときに、嫌がったのだろうか、それとも、散歩に興奮してなのだろうか、いつもリードに、その小さな歯を押し当てて、必死に、噛もうとしていたことを想い出す。又、新車の助手席に乗せたところ、シートベルトをかじり始めたこと、凍えるような冬の夜、一緒に、綺麗な満月を眺めていたら、寒かったのであろうか、君は、お座りをしたまま、そっと、寄り添ってきたこと、寒かったのであろうか?それとも、甘えん坊で、外で飼っていたから、きっと、寂しかったのであろうか?家に連れてきた初めての日に、息子の部屋で、下痢をして、部屋中が臭くなったこと、その後も、体調不良続きで、元気がなく、診療所で診察して貰ったこと、夜の散歩の途中で、10数頭の野生の鹿の群れの横断に遭遇して、一緒に、驚いたこと、スーパーの買い物で外でお座りをして待っていたら、「犬相がとても良いですね!」と、見知らぬ犬好きの人から、褒められたこと、東京のお向かいのお宅の勝手口に来る宅配便も、必ず、吠えて知らせて、ご褒美を戴いたこと、その紋様が、そっくりだったから、「シェパードの子供が来たよ」と小さな子供に間違えられたこと、写真を見ると、本当に、シェパードみたいにピンと立った耳をもつ君には、きっと、幾分かの血が混じっていたのかも知れないね、頭も良かったから、、、、、、。散歩の途中で、君の姉妹とおぼしき同じ紋様の犬に、たまたま、遭遇したこと、そして、偶然にも、診療所も同じであったこと、りんごの果樹園を尻尾と耳を後ろになびかせて、いつまでも走り回っていたこと、君は、本当に走ることが好きだったんだね、真夏の藪の中に、野良猫を追いかけ廻して、やっと、出てきたら、冷たいコンクリートの上に、大の字に、伸びてしまったこと、谷間に、急に降りていって、しばらくして、上がってきたと思ったら、ビニール製の肥料の袋を引きずりながら、その臭いことと云ったらなかったこと、知らぬ間に、二階へ上がって、ちゃっかりと、私の布団の上で、眠っていたこと、怒られて、下へ降りる時に見せた、残念そうな顔、きっと、一緒に、寝たかったのだろうか?お漏らしをするようになったので、犬用のオムツを当てようとしたときに、いつも、尻尾の穴に、入れさすまいとして、嫌がって、尻尾を振っていたこと。余程、嫌だったのだろうね、綺麗なエメラルド・グリーンの瞳を持っていた君が、段々、灰色に雲ってきて、最後には、眼が見えなくなってしまったこと、あんなに、散歩が好きだったのに、よろよろとふらつくようになってしまったこと、そして、歩けなくなってしまったこと、そして、食事も、お水も飲めなくなってしまったこと、最後まで、よく、18年4ヶ月も頑張って、生き抜いたね!君の天性の「生きる力、生命力」とガス室から生還した「強運」を、私は学びました。君は、今、写真の中で、本当に気持ちよさそうに、寝ています。幾つものエピソードが、走馬燈のように、瞼に浮かんできて、写真が、見えなくなります。来年は、きっと、家族が増えるかも知れないよ、そんな気がします。そうなるといいね!

愛犬の一周忌を前にして:

2014年06月11日 | 動物・ペット
愛犬の一周忌を前にして:
去年の今頃は、空梅雨で、溜め池に水が不足していたのに、今年は何と雨が多いことか?別に、命日を気にするガラでもないが、愛犬が亡くなった頃をふと、想い起こす。この一年間、ペット・ロスにも幸い見舞われず、何とか、無事に、過ごせて来れました。今は、気持ちよさそうに、ぐっすり眠っているラミネート・フィルムに保護された写真が、八重桜の樹の下の盛り土の上に置かれています。亡くなってからすぐに、取り外された一寸古びた赤い首輪が、本棚の棚の上に、ポツンと置かれています。その横には、粘土に、前脚をスタンプのように、押し当てて作られた足形の記念の盾と子犬の頃の懐かしい写真が、立てられています。女性陣の反対もあって、避妊手術は行わず、乳癌や子宮癌のリスクも、「なるがままに任せる」という家族一致の基本方針の下、よく、18歳4ヶ月もの長い寿命を全うしたものです。人間の年齢ならば、92才にも相当しましょうか?両親の介護もさることながら、まさか、愛犬を介護、看取るとは、想像もしていなかったものです。眼も見えなくなり、足腰も立たなくなり、お水も最後には、飲めなくなり、スポイトで、与えようと思っていた矢先に、突然、痙攣を起こして、1時間半後に、さようならも言わずに、逝ってしまいました。亡くなる前日に、膝の上におむつのまま、抱き抱えて、玄関先で、外の風を感じながら、体をさすってあげたら、少し、鼻をクンクンさせて、気持ちよさそうに、薄眼をあけて嬉しそうに反応していましたが、その時の毛並みの感覚を今でも忘れることが出来ません。君だけが、私の口笛に、真っ直ぐにピンと立った小さな耳をピクピクとアンテナのように、振りながら、近づいてきたんだネ。意地悪をするかのように、無視して、反対側から、口笛を吹いても、君は、再びやってきたものです。初めから、口笛に反応してやってきた犬を貰おうと、そう決めていたので、君を貰ってきたんだよ!君は、自分の力で、殺処分を免れたのだね。いつまでも忘れないよ、家族として過ごした日々を、、、、、、、これからも、、、、、ずっとね。ビデオの中の君は、広い野原を耳を後ろになびかせて、颯爽と嬉しそうに、いつまでも疾駆しています。隙を見ては、鼻先で、網戸を器用に開けて、さっと、部屋に入ろうとして、みんなに怒られていたことも又、想い出されます。きっと、君は、外で1人で暮らしていたから、家族と一緒にいたかったのだろうね。あんなに、君が駆け回った近くのりんごの果樹園も、今や、シカ対策の電気防御策が出来てしまい、自由に、通れなくなってしまいました。一緒に通いとおした河沿いの散歩道も、もう、私は、散歩しなくなりました。又、いつか、一緒に散歩しようね!そんな日が来るといいね!君もきっとそう思っているだろうか?盛り土の上の写真は、そんな私の思いを、知ってか知らずか、気持ちよさそうに、寝入っています。ベランダのデッキの上で、風に吹かれて、桜の樹の木陰で、気持ちよさそうに、君は、いつも午睡を愉しんでいたことを想い起こします。好きなだけ、ゆっくりと、お休みなさい、私も同じ場所で、君を偲んでみます。

ふとしたきっかけで愛犬を偲ぶ:

2014年04月18日 | 動物・ペット
ふとしたきっかけで愛犬を偲ぶ:
たまたま、車を運転していたら、後ろから来た車が、右折車線にスーと赤信号で、自分の車の右隣に停車した。何気なく、その車の助手席に目をやると、何と、柴犬と思われる犬が助手席の大きく開け放されたガラス窓越しに、長い顎を乗せて、気持ちよさそうに、初春の外気を嗅いでいたのであろうか、実に、その様子が、何とも気持ちよさそうで印象的であった。我が愛犬も、決められた自分の席に、ちょこんと座っては、夏の女神湖へのドライブ時には、高原の冷気を満喫するために、エア・コンを止めて、窓を大きく、開けると、気持ちよさそうに、鼻を高く突きあげて、高原の冷気と森林浴を、家族共々、一緒に、ひととき、愉しんだものである。不思議と、東京の自宅へ戻るときには、何故か、最後の角を曲がるときには、必ず、ガバッと寝ていても、空気の違いが分かるのであろうか(?)自分から目を覚まして、モゾモゾと下車する身支度を始めたものである。モミジと松葉の落ち葉で少々盛り土されたお墓の横には、八重桜の枝に、小さな蕾が、膨らみかけている。ラミネート・フィルム加工された写真の中で、愛犬は、何とも、気持ちよさそうにカーペットの上で、うたた寝をしている。今にも、伸びをしながら、起きてきそうである。今でも、撫でたときの嬉しそうな顔と毛並みの感覚が、懐かしく、偲ばれる。いつまでも、忘れないよ、君のことを、、、、、、。よく頑張ったね!18年と4ヶ月も、家族として、一緒に過ごした日々を、、、、。ふとしたきっかけで、想いだしてしまった。

節分の豆まきに涙す:

2014年02月03日 | 動物・ペット
節分の豆まきに涙す:
節分の頃になると、亡き愛犬のことをどういう訳か、想い出す。我が愛犬は、保護犬であったから、その氏素性は分からない。頭の良い愛犬であったのは確かであるが、唯一、欠点と云えば、散歩の時に、必ずと行って良いほど、拾い食いをする癖である。小さい時から、散歩の際に、道に落ちているちり紙を加えて、素早く、くしゃくしゃと噛み砕き、呑み込んでしまう。金属製のチョークひもをグイグイと引っ張っては、首に、衝撃を与えると、立ち止まり、お座りで、一旦制止するが、その後、良しというと、再び、同じように、グイグイと引っ張ってゆく。女房殿に至っては、ちり紙を引っ張り出そうとして、口に手を入れて、ガブリと噛まれたこともある。まさに、飼い犬に噛まれる始末である。そんなこんなで、長じても、この悪食は、直ることなく、私は、氏素性が分からぬから、仕方ないと、匙を投げていたものである。そんな愛犬も、節分の日だけは、特別である。どういう訳かわからぬが、戸外に投げられた炒り豆が、大好きで、地べたに、警察犬の如く、鼻先を擦りつけながら、クンクンとかぎつけては、器用にも、長い舌をペロリと伸ばしては、平気で、ボリボリと貪り喰うのである。そんな愛犬も、亡くなる昨年には、外の散歩も困難になり、結局、特別に、炒り豆を買ってきて、手から、一粒一粒づつ与えると、美味しそうに、その味を噛みしめながら、愉しんで食べていたことが想い起こされる。炒り豆の香りが良いのであろうか、それとも、大豆イソフラボンが好きなのか、よく分からぬが、そんな愛犬も、残念ながら、今年の節分には、もういない。鬼は外、福は内という掛け声を聴くにつけて、そんな想い出が、我が胸に去来する。小諸のお墓には、炒り豆を供えてみることにするか、どうしているのであろうかと、、、、、、思うと涙が滲んでくる。ラミネートに加工された写真は、気持ちよさそうに、穏やかに、眠っている。



愛犬の七五三と動物霊園に思う:

2013年10月31日 | 動物・ペット
愛犬の七五三と動物霊園に思う:
何でも、最近では、神社での七五三詣でが、少子化の影響からなのか、激減する代わりに、愛犬の七五三のお参りが急増しているそうである。本当なのかと、まず、耳を疑ってしまう!神妙な顔つきをして、飼い主様は、我が愛犬とともに、お祓いと祈祷を受けるのであろうか?それとも、御犬様は、これ又、神妙な顔つきで、チョコンと横に鎮座ましまして、3歳、5歳、7歳、それぞれ、歳に応じて、着飾って、神社にお参りにゆくのであろうか?何とも、神社にとっては、有難い話であり、邪険に出来ることではない。むしろ、切実、且つ、死活問題であるのかも知れない。家族であると云う感情は、自分の経験からいっても、決して、分からぬものでもない。しかしながら、既に、余りに擬人化されてしまい、まるで、幼子のように、思われる感情には、一寸、何か違いませんかねという思いがつきまとう。我が老犬を18歳と4ヶ月で看取った経験からすれば、愛犬の死というモノは、必ずしも、全く、人間の死とは、異なるモノではないこと、人間の孤独死や、葬式費用も出せないために、その死体すらも遺棄してしまう今日、火葬や埋葬等、これまでのゴミ扱い的な死骸の処理では、確かに、飼い主の感情が納まらず、ペット霊園的な墓地が、必要とされるのも、頷けないことではない。しかしながら、人間様の墓地ですら、今日、墓地の管理料が、滞納されたり、高齢化に伴う相続人の廃嫡・断絶などにより、管理自身が、立ちゆかなくなりつつあるのも、これ又、現実であろう。してみると、一時的な飼い主である人間様の勝手な(?)都合で、誰が、次代の墓守をするのであろうか?本当に、御犬様は、果たして、草葉の陰から、喜んでいるのであろうか?初七日、49日、1周忌、3回忌、等、信仰心の厚い飼い主様は、その都度、お布施と管理料と供物・読経代金を、お支払いし続けるのであろうか?何とも、飼い主の我が儘とは言わぬまでも、若干、こうした傾向には、行き過ぎた動物愛護の精神を感じないこともない。何が、家族同然だった犬にとっての幸せなのか、私は、まもなく5ヶ月近く経過するが、未だに、自問自答することがある。喜びも悲しみも、家族の記憶の中に、写真とともに、いつもあり、すやすやと、気持ちよさそうに、寝ている写真が、こちらに、何かを問いかけているように、思えてならない。自分の人生が終わるその時まで、ずっと、忘れないからねと、、、、、、。そして、家族の愛犬として、一緒に過ごした時間は、ラッキーには、幸せだったのだろうか?と、、、、、、、。



ペットショップにいくまえに ~ちいさな いのち のこえ~:

2013年10月14日 | 動物・ペット
ペットショップにいくまえに ~ちいさな いのち のこえ~:
なかなか、雪が積もってしまうと、十日町にも行くのも大変である。11月30日迄、殺処分を考える運動を推進しているどいかやさんやとりごえまりさんら、29人の作家が描き出す「いのち」がテーマの作品展が、絵本と木の実の美術館で開催されており、更に、十日町の情報館で、上映会と「覚悟の決まった恥知らず」を自認している田島征三さんとのトークが、行われるというので、これも、何かの「亡きラッキー」の縁だと思い立ち、出掛けてゆくことにした。それにしても、過疎地とも言えなくはないような雪深いであろう集落の廃校となった真田小学校の校舎を利用して、その流木や木の実を使用した芸術作品を展示するという大地の芸術祭の里とは、その来場者、参加者の多さといい、その開催期間の長さといい、しつこいほどの熱意は、どこから来るのであろうか?想い起こせば、もう、5-6年前になるだろか?小学校のクラス会で、津南の天満宮、天神の湯なる温泉宿に行ったことがあるが、その横を通り抜けて、一路、飯山から、十日町を目指してゆく。地図のナビゲーションがなければ、なかなか、目指す美術館に辿り着くのは、容易なことではないだろう。入り口にある大きな教室の地図をよくよく眺めれば、作品を鑑賞する上で、作品の理解に役立ちそうである。小学校の教室というものは、幾つになっても、何か、懐かしいような気がしてならない。まるで、時間が止まったまま、タイム・スリップしてしまうような感じである。音楽の楽器や黒板での殴り書き、理科室の人体解剖の躯体、お化けの絵、子供達の表彰状、絵画、机や椅子や、時間と空間とまでが、流木や木の実などで出来上がった作品のキャンバスなのであろうか?しかも、十日町のみならず、その近隣の地域をも、巻き込む形で、芸術的なエリアが、拡大してゆき、海外からもその視察団が、訪れるようになってきていると、生活と観光とが、融合する可能性が広がりつつあるかも知れない。十日町の情報館と言うから、どんなところかと思えば、何と図書館で、PCやら、イベント、視聴覚室も兼ね備えた近代的な施設である。本を読みながら、カフェで食事をしながら、一日が過ごせような施設で、なかなか、良い施設である。上映と講演の後は、覚悟を決めた恥知らずを自認する田島征三さんによる高知弁での読み聞かせによる、白い犬に因んだ、花咲かじじいに題材を得た花じんまの朗読である。殺処分を無くそうとする運動が、色々な所で、拡大することを願ってやまないものである。奇しくも、同じような方向性を持った運動体を知り得たことは、これも、何か、ラッキーが、結びつけてくれたのかもしれない。
HP 参考まで:フェースブックは、「天使の祝福」で検索可能です。
http://www.bikke.jp/pet-ikumae/


あれから、二ヶ月が過ぎようとしています:

2013年08月17日 | 動物・ペット
あれから、二ヶ月が過ぎようとしています:
我が愛犬を看取ってから、二ヶ月が過ぎようとしています。やっと、涙が出てこなくなり、やや、落ち着きを取り戻しつつあります。先日、女房殿が買い物をしている間に、椅子に腰掛けているのも暇なものですから、偶然、ペット・ショップの中を覗きましたが、もう、オムツやペット・シーツやドッグ・フードも買うこともありません。何気なしに、子犬の入っているサークルを眺めてみましたが、どうも、手を出す勇気が湧いてきません。きっと、又、手をペロペロなめられたら、犬を飼いたいなる衝動が抑えられなくなるのが、怖かったためかも知れませんネ!遠巻きに、子犬たちが、爪先立ちしているのを眺めているだけでした。愛犬が子犬の頃は、まだ、現役で、日中は、働いていたわけですから、それ程、正直言って、昼間、何をしていたのかを覚えてはいません。写真も、まだ、ウィンドウズ95が、出た頃でしたから、デジカメの写真もありません。アルバムに貼られた子犬時代の写真を、先日、子供達のアルバムの中に、見つけました。まだ、子供達も中学生頃の写真で、ちょこんと一緒に写っています。最近では、ホーム・センターにも、めっきり、ご無沙汰になりました。あれ程、餌を買いによく行っていたのに、ポイント・カードも折角作ったのに、何の役にも立ちません。あれ程、朝に、晩に、一緒にしていた散歩も今や、中断です。亡くなる前日の朝、オムツを着替えさせて、玄関脇の椅子の上で、私の膝に抱きかかえて、前脚を持って鼻筋を撫でてあげると、嬉しそうに、私の腕に、前脚を置いて、クンクンと何か、臭いを嗅ぐのでしょうか、鼻先を上に向けて、嬉しそうに、空気を吸っていたのを、何故か、想い出します。きっと、もっと、生きたかったのかも知れません。まさか、その翌日には、逝ってしまうとは思いませんでしたが、、、、、、。うぅーん、又、涙が溢れてきました。よく頑張ったね!18歳と4ヶ月、そして、共に過ごした人生の歳月と家族としての想い出に、有り難うと、、、、、。ゆっくり、おやすみなさい。でも、もう一度だけ、逢いたいねぇ!



雨中、夜道の蛙ピョンピョンには参ってしまう!:

2013年08月01日 | 動物・ペット
雨中、夜道の蛙ピョンピョンには参ってしまう!:
自動車を運転中に、鹿と遭遇するのにも、困ってしまうが、もっと、嫌なものが、雨の降り始めに。ヘッド・ライトに照らされて、道端をぴょんぴょんと飛び回る小さなカエル達には、手を焼くものである。できる限り、直前で、避けながら注意深く、轢き殺さぬように運転するものの、恐らく、何匹かは、無意識のうちに轢き殺しているに相違あるまい。とりわけ、田んぼの側道は、カエル達の天下で、そこを通る車の方が悪いのかも知れない(?)!翌朝、散歩していると、大体、何匹かのカエルやトカゲが、白い腹を仰向けに、ペシャンコに干からびていたりするのは、無惨であり、又、考えようによっては、残酷でもある。時として、蛇なども轢き殺されているが、生態系の中で、食べられるのであれば、致し方ないものの、何ともお気の毒であるとしか、云いようがない。我が家の紅葉の樹に棲み着いている小さな蛙は、無事であろうか?決して、道端へなんぞは、出て行ってはなりませぬぞ!紅葉の葉や枝に、掴まって雨に打たれていればそれで宜しい。決して、浮かれて、お銚子こいて、ピョンピョン跳ねたりしてはなりませぬぞ!皆さんも、雨中の夜道での運転には、どうか、ご注意あれ!それにしても、里山では、自転車よりも、カエルや鹿に注意とは、都会との落差が大きすぎて、戸惑ってしまいますね。



危うく、鹿とぶつかりそうでした!:

2013年07月30日 | 動物・ペット
危うく、鹿とぶつかりそうでした!:
数年前に、自宅近くの反射鏡の横で、メスの鹿が、車に跳ねられて死んでいたのを、散歩に愛犬と出掛けたときに見たことがある。もともと、獣道の所に、後から、道路を作ったのであるから、何とも、申し訳ないが、、、、。スピードを出せないカーブのところであったから、良いが、2メートルくらいの目の前を、道路を右の崖の方から、ピョンと左の谷側方向へ飛び降りてきて、谷底へと消え去っていった。この付近は、カモシカも出没するところで、居住空間が、人間の居住空間と重なり合っているようである。以前には、未だ、愛犬が元気な頃に、月が余りに、綺麗だったので、散歩がてら、月を愛でるために、歩いていた所、急に、ドドドドッツと大きな崖崩れのような音がしたかと思うと、黒い一団が、一塊となって、崖を飛び降りてきて、目の前をピョンピョンと、谷底へと、飛び降りていったことが想い出される。5-6頭は、いたであろうか?翌朝、実地検証のために、同じ場所に行ってみると、数多くの蹄が、そこには、足跡として、残されていて、成る程、成る程、これが、獣道なのかと、変に、感心したことを覚えている。我が愛犬は、その足跡を、クンクンと嗅ぎ廻っていたことを想い起こすが、、、、、、、。それにしても、北海道では、自動車が、へこんでしまう程の事故も起きていると云うではないか、事故や愛車がへこんでしまうのも嫌であるが、それ以上に、動物を殺してしまうのも、何とも、嫌なものである。畑を荒らされるのも困ったものであるが、何とか、共存する手立てはないものであろうか?鹿注意の看板が欲しいところである。



愛犬が逝ってしまってから一ヶ月が経ちました:

2013年07月12日 | 動物・ペット
愛犬が逝ってしまってから一ヶ月が経ちました:
どうやら、主観的にも、客観的にも、所謂、「ペット・ロス」シンドロームには、ここ、一ヶ月の間では、陥ることはなかったようである。やっと、気持ちの整理もつき始めてきました。もっとも、不意に、我が老犬が、ご飯をせがむ鳴き声や、フエーンという情けない淋しい声が、空耳で、しないわけではないのですが、、、、。その都度、心なしか、寂しくなってきてしまいます。或いは、ドアーを鼻先で、ヒョイと器用に開けて、廊下から歩きながら、顔を出してくるような錯覚も起こらないではないですが。いつも、「ラッキー」と名前を呼ぶと、自分が、「ラッキー」であることを自覚していて、ちゃんと、呼び掛けているこちらへ、顔をヒョイと、向けていたものです。口笛でも、ホイッ、ホイッ、と二度呼び掛けると、遠くからでも、その口笛に反応して、全速力で、長い耳を後ろになびかせながら、急いで、走って戻って来たものでした。この三年間は、体力の衰えを考慮して、室内で、一緒に生活するようにした為か、もう、自分が、人間であるとも思っていた節がみられました。チャッカリ、知らぬ間に、二階へ、階段を登っては、お気に入りのマットの上で、昼寝を決め込んだり、自分の決められたハウスに、食後は、キチンとお座りして、昼寝をする日課でありましたが、、、、、。それも、徐々に、二階への階段や屋上への階段が自力で登れなくなり、やがて、目も耳も衰えて、最期には、あんなに大好きだった散歩ですら、やっと、四つ脚で、立っていられるのが、精一杯になり、脚がもつれたり、角に、ぶつかったり、本当に、可哀想で、自分でも、何故、こうなってしまったのかと、最期の最期まで、自分の「生」を全うしようと、頑張ったものです。先日、動物愛護協会へ、手つかずのドッグ・フードや缶詰、オムツやドッグ・シートや食器やリードなど寄附してきましたが、まるで、人間の遺品を整理するかのようでした。今、やっと、落ち着き、写真の整理をしながら、絵本の最終イラスト待ちですが、今月末には、完成する予定で、おおいに、楽しみです。どんな具合に、仕上がることでしょうか?本当は、生きているうちに、刊行したかったのですが、、、、、、。残念ですが、致し方ありません。「ラッキー、ボスは、何とか、元気だよ!」(涙)




想い出と共に、生きる:

2013年06月14日 | 動物・ペット
想い出と共に、生きる:
東京の太陽光発電の工事の最終検査に立ち会わなければいけないので、女房殿は、バスで、帰って行ったが、一人、家に戻ると、寂ばく感に襲われる。急に広くなってしまった玄関は、随分と違和感がある。昔は、仕事で、遅く帰宅して、門扉をカチャンとあけると、ハウスから、同時に、ジャリジャリと鎖の音を響かせて、やや、迷惑そうな顔で、ノソッと、顔を出してきて、ブルッと身震いしてから、頭を撫でると、お返しに、ペロペロとその手を舐め返すのが、日課であった。その後、膿皮症を3年前に患ってから、徐々に、免疫力が落ち始め、屋外ではなくて、室内で、一緒に暮らすことにした。一緒に暮らした18年もの年月に刻まれた愉しい想い出と共に、一緒に、生きていきたいものである。今日は、もう、只今と戻って来ても、誰もいない玄関が、こんなに広かったのかと不思議に感じられた。子供達は、未だ、仕事で、気持ちが紛れるかも知れないが、皆、家族、一人になると、まだ、喪失感と寂ばく感が、どうしても拭えない。女房殿は、昨晩、シャッターを降ろすときにも、埋葬した場所が、見えるものだから、「おやすみなさい!」と一言言って、シャッターを閉めた。愛犬でも、こんな感じだから、これが、不慮の突然死や不条理な予期せぬ事故死だったら、どんな気持ちなのであろうかと、想像してしまう。介護やある程度の老衰のその先に見えるものは、予想がつくものであるものの、それを差し引いても、何やら、胸の辺りが、重苦しく感じられるのは、どうしたものであろうか?緩やかな時の流れだけが、想い出と共に、涙が、その喪失感を癒やしてくれるのかも知れない。そして、家族の記憶の中で、想い出と共に、一緒に、生き続けるのかも知れない。もう少しだけ、気持ちの整理をする時間を下さい。



小諸の里山に埋葬する:

2013年06月13日 | 動物・ペット
小諸の里山に埋葬する:
子供の頃、荘内の公園で、子供達と一緒に、自由に追っかけごっこをしたり、お菓子をベンチに腰掛けて一緒に、食べたり、里山の森の中をリードをつけずに自由に、木の棒をくわえたまま、帰ってこなくなったり、藪の中に突進して、ハァハァと息を切らして、突然、あらぬ方角から出てきて、又、走ってきて、足許に、ベタッと地面に這いつくばって、長い舌をだらりと出して、もう走れないとばかりに、ゴロリと寝転がったりもしたものである。冬には、スキー場で、私が、雪に脚をとられて、ブーツが抜けなくなると、心配して、クンクンと駈け寄り足許の雪を掘り出そうとしたり、直江津の海で、初めて体験する打ち寄せる波の音にビックリして、尻込みしたり、喉が渇いたといっては、湖の水をペロペロ舐めたり、随分、色々な所へ、家族共々、車で、一緒に行ったものである。車に乗ると、自分の座席に、といっても、段ボール製の空き箱であるが、チョコンと飛び乗り、きちんとお座りして、碓井峠のS字カーブも、しっかりと、脚を踏ん張って、左右のバランスを保っていたものでした。外で、飼っていた為か、お向かいさんの勝手口の門番も自分の仕事だとばかりに、宅急便が来る度に、吠えて知らせていたものでした。そのお陰で、ご褒美まで貰ったことがありました。自宅での11日のお通夜は、子供達が帰宅してから、皆んなで、涙を流しながら、お別れでした。後で、女房殿から聞いた話ですが、長女は、「家族が段々と減ってゆき、増やせなくてご免なさい。」と涙ながらに、ポツリと呟いたそうです。長男は、雌犬だったのに、まるで、弟を亡くしたかのようだと、涙を流しながら、身体をさすってやりながら、頬ずりしていました。エメラルド・グリーンの瞳で、しっかりと、いつまでもアイ・コンタクトをして、視線を決してそらすことがなかった瞳は、今や、閉じられて、眠りから覚めようとはしません。翌12日朝、女房殿と一緒に、小諸の里山の玄関脇に佇立している松の樹の横で、且つ、八重桜の樹の近くに、穴を一緒に掘って、消石灰の粉を散布して、安置しましたが、未だ、それ程、死後硬直しておらず、まるで、暖かい毛皮の剥製のように、寝ているようでした。抱きかかえて穴に、入れるときには、涙が溢れ出てきて、作業は、二人で、一時中止と相成りました。暫くして、気を取り直して、再び、東京から持ってきた自宅の土をかけて、埋め戻し、最後に、腐葉土を盛り土として、掻き集めました。そして、長男が、子供の時に作った素焼き製のハウスの作品が、大事にとってあったので、これを目印に、上に、置いて、無事、埋葬が終了しました。後は、東京で、鑑札の返却と狂犬病予防接種記録証明書をもって、死亡届けを提出する段取りだけです。何とも、寂しい限りです。玄関に、置かれていた箱もなくなり、急に広々とした玄関が、やたら、もの悲しく感じられました。親の最期も、海外出張やらで、看取れなかったのに、皮肉にも、我が愛犬から、介護を勉強させて貰い、更に、息を引き取る最期の瞬間に、立ち会わせて貰った機会を得られたことは、何と感謝したら良いのであろうか?最期まで、一生懸命に、生きようとしていった姿を、私は、決して、一生忘れることはないであろう。埋葬して、こんな事を、まさか、我が愛犬から教えて貰うとは、よもや思わなかったものです。もう、再び、動物と一緒に、暮らすことは、恐らく、ないであろう。今は、そんな感慨です。