蟷螂の おのがみちゆく 声をきき 神の与えし 蟷螂の斧
*蟷螂の「斧(おの)」とおのれの「己(おの)」をひっかけて詠んでいますが、実はこれには先例があります。かのじょが詠んだこの歌です。
蟷螂の おのがみちゆく ちさきわれ だいなるわれと かはりゆくとき
いろいろあって、スランプの底にあり、苦しんでいた時にひねり出した歌の一つですが、これはうまいと思ったので、友人が採用して詠んでみたのです。
こういうふうに、譬えや洒落をつかって言葉を導くのが、序詞という技法です。
蟷螂とはかまきりのことで、その斧とは、小さいもののくだらない武器という感じで、非力なことの譬えに使われます。弱いものが強いものに挑んでいくときの、無謀さを戒めることに使われたりしますね。まあ確かに、勝ち目のない戦いに挑んでいくのは、十分に考えねばいけないことです。戦っても全く無駄だという時には、戦わないほうが良い。しかし、自分の力が蟷螂の斧に等しきものではあっても、大いなる目的のために、命をつぶすことが有効であれば、戦わねばならないときもある。
結局、何のために戦うかということが、一番大事なのです。
小さなカマキリが、己を生きていくと自分でいう。その声を聞くとき、神はカマキリに、それにふさわしい斧を与える。いかにも小さく頼りないものに見えるかもしれない。だが、それを馬鹿だと思うな。おまえはそれで、痛いことができるのだ。青いバッタを捕まえることができる。そしらぬ顔で飛んでいくチョウチョウを捕まえることができる。
できるということが大事なのだ。その意味を考えてみよ。
おまえが勇を鼓して生きていくのに必要なものを、神はすべて与えているのだ。阿呆にならず、何かをやってみよ。
この時代、天使に与えられた武器は、ほとんど小さなパソコン一台でした。かのじょはそれに貝の琴と名をつけた。本当に、これだけで一体何をすることができるだろうと、思うのが普通でしょう。だが、何かがあれば何かをしてみるのが、本当の自分というものだ。
神が与えてくれた、小さな琴を、懸命に弾いてみた。すると、とてつもないことが起こった。
かのじょの人間を救いたいと思う一心でやってくれたことが、あまりに美しかったので、神がそれをとりあげたのです。かのじょはただ、自分のやれた精いっぱいのことを、神のために捨てるだけでよかった。
蟷螂の斧に等しき道具でも、できることがあると思うなら、やるべきです。何もできないと言って逃げるのは、馬鹿だ。やれることは必ずやるのが、本当の自分というものです。
勇というのはそういうものだ。この時代、金と権力というどでかい武器を持っていた男がそれはたくさんいたが、結局は何もできなかった。
蟷螂の斧に等しき小さな武器しかもっていなかった、弱い女性一人だけが、すばらしいことをなしとげた。
大事なのは、何のために戦うかです。