白飴の 甘きすくひを たふとびて まよひの闇に 垂らす細糸
*これは「白飴の」を、「甘き」にかかる枕詞のように使ってみたものです。
白飴のように甘い救いとは、すべての人間を救い、次の段階に導きたいという、かのじょの本願のことです。それが可能なことかどうかは問題ではない。ただ救いたいと願ってその願いのために一身をかけて行動することが大事なのです。確かにかのじょは生きていたころ、その夢に向かって努力していた。ただ、人間の現実が、それを全くダメにしてしまったのです。
すべての人間を救うということは事実上不可能なことでした。この人類史の総決算の時代、人間を落ちる人間がたくさん出た。神の発する愛を問う質問に正しく答えることができず、次の時代を生きることのできない人間の魂が、あまりにもたくさん発生したのです。
しかしだからと言って、かのじょの本願を馬鹿にすることはできない。現実問題たくさんの人間が落ちるが、その中でも助かるものは助けてやりたい。すべてを救うことは無理でも、少しでも多くの人間を助けてやりたい。
だからわたしたちは繰り返し、救いの細い糸を迷っている人間の心の闇に垂らすのです。
すべてを捨てて、その細い糸にすがって来いと。
芥川の小説を思い出したりもしますね。「蜘蛛の糸」では、お釈迦様が盗人の魂を救うために、細い蜘蛛の糸を垂らすのだが、盗人は自分が助かることばかり考えていたので、その糸は切れ、また地獄の底に落ちていったのでした。
細糸の暗喩は、要するにそういうことです。自分のことばかり考えているそのエゴを捨て、真正直な自分になって、神の糸にすがって来いと。何もかもを捨てて、神のもとに逃げてこいと。そうすれば救われるのだ。
だが迷いの闇に溺れている人間は、なかなかその糸にすがることができないのです。今自分が得ている幻の幸福が、惜しいからです。それらを捨てて、真正直な自分に戻れば、いやなことばかりしてきた自分の真実の姿が出てくるからなのです。
それが怖くて、馬鹿者は永遠に苦しむ地獄の道を選ぶのです。