あらたへを まとひつつゆく 白飴の 月のおもひを われとひめやも
*「めやも」は推量の助動詞「む」の已然形「め」に、係助詞「や」がついた反語推量に、詠嘆を現す終助詞「も」がついた形です。こういうと難しく聞こえるかもしれないが、何、恐れることはありません。本気でやってみれば、案外簡単に身についてきますよ。
古語辞典では「~だろうか、いや~ではない」という感じに訳すと書いてある。つまりは、「われとひめやも」とは「わたしは問うだろうか、いや問いはしないとも」という感じになりますね。ひとつひとつ手繰っていけば簡単だ。勉強というのは、真面目にやっていけば、誰にでもできてくるのです。
人間が勉強をやめてしまうのは、たいていは、途中で、人に負けていると感じてしまうからですよ。それは人によって差がありますから、勉強が先に進む人と遅れる人はいる。遅れてしまった人が、それをいやだと感じて馬鹿にしてしまうからつらいことになるのです。
それはそれとして、表題の歌を訳してみましょう。「あらたへ」は粗末な布のことです。なあここでは、粗末な衣服というくらいの意味で使っています。
そまつな服をまといながらゆく、白飴のように甘いあの人のその思いを、わたしは問うだろうか。いや決して問いはしないとも。
なぜ問わないのか。もちろんとっくにわかっているからです。それがどんなに不可能と思える道でも、行く人だということはわかっている。無謀なことだとわかっていても、あの人をとめることは愚かなことだ。ほかにやるべきことは違うことなのだ。
まっすぐに思い込み、必死で人々を助けようとしている人の思いを、止められるわけがない。たとえその人々が、どんなことをしているかということがわかっていても。
あの愛を、できるだけ美しい形で全うさせてやりたい。あの人の心を知っている人なら、そう思うに決まっているのです。
問うということは、反対するという意味もある。そんなことをしても無駄だと、かのじょに言うことも意味します。
われわれは決してそういうことはしない。無駄なことなどありはしないのだ。たとえ努力が一切無駄に終わったとしても、決して無駄ではない。
自分が死ぬことによって、必ず何かが始まるはずだからです。