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マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

座頭市 ★★★★★

2005-03-05 | 映画分析
勧善懲悪の復讐劇なのに、後を引く傑作となっているのは、随所に見られる異化の企みによるものだろう。ヴィジュアル的な異化としては、座頭市の金髪やタップダンスを初めとして、女装、藁人形、武装した裸男などの執拗な反復。博徒・新吉の剣の稽古のシーンや座頭市に眼を描くなどのお笑い。そして過剰なまでの暴力(座頭市や悪人一味、その用心棒などのそれだけでなく、田んぼで3人の百姓が1人の真面目な仲間をいたぶるなど・・・)がある。

心理的な異化としては、新吉の女装願望や、旅芸者の妹が実は男で将来的にも女装を続けると宣言するくだりなどのジェンダーの解体。真の悪人の露顕とその処罰方法の意外性。極めつけは、座頭市が盲目かどうかというエンディング・・・。

旅芸者姉妹のしたたかさと強さ、野菜売りの女の地母神的なありよう、用心棒の妻の良心に基づく行為など、女性の描写に見られる北野武のジェンダー観に納得。さらには、観客を勧善懲悪という結末に一気に引き込むのではなく、立ち止まらせ、引っかからせながら、根源的な暴力や“眼”の考え方、自己中心のエコノミーの解体、メシア的なものの到来といった深い読みのできる演出が秀逸だ。
                  
座頭市の過去を描いた唯一の回想シーンが、天気雨の中の8人斬り。土にしみ込んだ血を雨が洗い流す、凄残さの一際目立つショットがある。突然、何の脈絡もなしに挿入されるこのシーンは、根源的な暴力のメタファーだ。人は他者と係わらずに生きることはできない。しかし、そのプロセスで必ず暴力が介在するというパラドックス。人は同時に複数の人と係わることはできないのだ。1人の人間と係わるその瞬間にその他の他者を切り捨てることになる。これが根源的な暴力である。その痕跡=切り傷=トラウマにとりつかれつつ、生きていかざるを得ない人間存在の悲しさ。座頭市が、子供たちに打ち捨てられた藁人形(野仏)を暴力の痕跡として手厚く弔うのは、そういう悲しみを知っているからである。

盲人の座頭市は眼前のものが見えないので、無限に開かれた世界の中にいる。その一方で、選択することができないので、検閲・排除・抹消という行為から疎外されている。つまり、何も見ずに未来の人々の前に身をさらし、ネガティブなものを自分で引受ける役割を果たすことになる。しかも、無宿者。ということは、彼は脱固有化のメタファーであり、未来を切り開くメシア的な存在である。それに対して目明きの世界は有限。視野の届く限りの地平で、自己中心的な選択をしつつ生きるのである。

盲人の座頭市と目明きの服部源之助。この2人が無宿者の剣の達人として果たし合いをする。座頭市の出自は一切描かれていないが、服部は剣の道で挫折し、病弱な妻の薬代を稼ぐために暴力を職業とする用心棒をしている。しかし、妻は人殺しをやめてほしいと渇望。座頭市の暴力は正義のために使われる。何ひとつ自己に戻ってこない純粋な贈与に基づくものであるが、服部のそれは、いつかは剣の達人と相まみえたいというトラウマの癒しと、経済的な理由に基づく自己中心的なものである。
2人の勝負では、当然の如くメシア的な意義を持つ座頭市が勝つが、同時に、夫の良心に訴えた服部の妻の自死という、二律背反的な複雑さが浮上する。

聖と俗を切り結ぶ暴力という構造、アウトロー・座頭市のメシア的な存在感、ジェンダーなどの描き方が、時代劇の常識を打ち破る様式美の斬新さとあいまって、既成概念の転倒こそ未来への切り札となることを感じさせる深い作品となっている。


座頭市

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