マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

母と暮らせば/亡霊の意義

2016-01-30 | 映画分析
2015年、日本、山田洋次監督

説明過剰な山田監督作品は以前から苦手だった。今回もセリフの多用が目につく。
助産師役の吉永小百合が、仕事をしている場面は皆無。セリフを流すだけ。清く、正しく、美しい老母、伸子…。20歳の息子の母役を演じるのは、流石に無理がある。

どこが過剰なのか?
亡霊の息子、浩二は母に、「(婚約者の町子にとって)僕よりいい男はいないよ」と二度も言う。

上海のおじちゃんが、伸子を好きなことは、彼女も分かっている。彼も自分が伸子に利用されていることを知っている。さらに言葉に出して求婚するのはくどい。

町子は、『東京物語』の原節子のように、婚約者の母、伸子に尽くすが、伸子は彼女を呼び捨てにする。悪ノリであり、不快だ。

町子の新たな婚約者、黒田は足が不自由だが、墓参りできつい坂を登り下りさせる。
優しい彼女が、浩二の代わりにハンディのある人を選んだことを強調したいのだろうか?
見ていて辛かった。

極め付けは、天国へのバージンロードを、母と息子が手に手を取って進むラスト。
ここまで近親相姦を連想させるヴィジュアルを提示しなくても、この母子は十分に偏愛関係にあることは分かっている。

さらに、原爆で亡くなった亡霊たちの平和を願う合唱シーン。
メッセージを、これでもかというほど発信しなければ届かない、ということなのだろうか?

その一方で、「一生独身を通す」と言っていた町子の、黒田との関わりかた及び葛藤のプロセスが省略され、唐突に婚約者として伸子に紹介される。
ある程度予測できたが、過剰さとのアンバランスは否めない。

もちろん評価したい点もある。
黒田は、浩二の再来を暗示している。
2人ともメンデルスゾーンが好きで、浩二は指揮者を夢見ていた。黒田は音楽教師である。
「結婚行進曲」は、2人に共通する、町子との関係性を示す。

ジャック・デリダは、「亡霊」を、「他であり得た私」として現前する「死者の権利」である、という。

黒田は、すっぱりと町子を諦めた浩二の痕跡。そして、町子を幸せにする亡霊(別の誰かー他であり得た私)として町子に取り憑いたのだ。

そうして見ると、ラストの亡霊たちのレクイエムも、平和を願う亡霊(別の誰かー他であり得た私)として私たちに憑依した、と考えられる。

2015年は、敗戦後70年を考える様々な作品が制作されたが、本作の位置付けもその中にある。
演出方法の好き嫌いは別にして、若い人たちに平和の大切さをアピールする格好の作品の一つといえよう。
(★5つで満点)
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