マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

葦牙(あしかび)/地域の人間力

2010-02-09 | 映画分析
 昨今、3日、いや2日に1人、親からの虐待により子どもが殺されている、という。
本作は、そうした子どもたちが、地域の養護施設で再生を果たしていくプロセスを丁寧に追った、明るく希望に満ちたドキュメンタリーである。

葦牙-あしかび- こどもが拓く未来 - goo 映画
 虐待シーンなどはいっさい無い。
顔にモザイクを掛けず、ありのままを撮った貴重な作品だ。
 上映会場だけの映写を条件に撮影許可が下りたという。登場者と制作スタッフの勇気を讃えたい。
 キネマ旬報ベストテン文化映画6位を獲得したのも納得である。

 他人事ではない、と思った。
 観賞後、身近な人に語ったところ、「親のレールに乗せようとする」ことも、ある意味で虐待だ、親が子どもに良かれと思ってしたことでも、子どもにとっては迷惑行為なのだと言われた。

 そういえば、高校球児でエリートだった知人も、幼い時から親の期待を一身に受け、確実に応えてきた。
 一流会社に入り出世街道まっしぐら。妻子にもにも恵まれ、誰もが羨む人生を歩んでいた。
 しかし、20代後半、父親が亡くなると同時に暗転。仕事も家庭も一気に崩壊した。
 長年、スパルタ教育者の父が怖くて、父を念頭に置きながら生きていたのだが、一旦たがはずれると、目標を失い父を恨むようになったのだ。
今、精神を病み、日々自分との壮絶な格闘を続けている。

 親は愛情をかけているつもりでも、つい押しつけになってしまう。
 親だから、子供のしつけは義務であり特権でもあると思っている人は多いだろう。
 心を鬼にして、きつく叱ったことも度々あるに違いない。
 それが心の傷になるとは・・・。
 親業を全うするのは大変である。

 本作に登場する子どもたちは、親から、形としてはっきり見える身体的な暴力や遺棄による児童虐待を受けてきた。
心の傷は、前述の”レール虐待”よりも深いのか、というとどちらとも言えないと思う。
 親子のボタンの掛け違いは、中年になっても、いや、時には一生引きずるものなのである。

 そこで、私は思う。
 本作のケースのように、地域社会が虐待児に真剣に取り組めば、子どもたちの心の傷を癒し、再生に向けて飛び立たせることが出来る。
 だが、その子たちの親への支援が欠けていては、片手落ちである。
 先ほどのエリート青年も、親からの「虐待」感覚のトラウマから立ち直れず、苦しんでいる。
 親は子どもにとって一生”かけがえのない存在”だ。
 親も子もともに再生できる社会システムが急務である。

撮影に制限があったのだろう。登場する子どもたちは数多くはない。
 彼らの親への希求をベースにした魂の叫びを吐露し、愛憎が交錯する状況が心に突き刺さる。
電話を掛けてきた父に、「退園したら思いっきりおんぶしてね。絶対ね。約束だよ」と念を押す8歳の女の子。
折角の親からの電話を無視して、ガチャンと切ってしまう男の子。
スケートに生きている証を求め、全国大会出場をめざして頑張る高校男子。
園内弁論大会で、自分の命を見つめ、自己と他者を肯定していく中学女子・・・。

中高生ともなると、冷静に親の事情を理解するようだ。、「いつか探し出して、家出の理由を聞き、謝って欲しい」とか、「暴力の連鎖は自分の世代で止めたい」と語るけなげさがいじらしい。
苦労した分、大人になるのが早いのだろう。

職員たちの人間性にも頭が下がる。集中力に欠け、すぐにキレル子どもたちにとことんつきあい、指導する姿は感動的だ。
 地域の人々も温かい。地方での合宿、太鼓づくり、こけしづくりなど、魂の叫びを表現する機会を沢山用意し、他者無しでは生きられない”協同の感覚”を養うのに貢献している。

虐待する親も2人登場するが、いずれも母である。
 その背後には、パートナーである父の存在が見え隠れするが 、母の家出や暴力が際だっている。子どもにとって確かに母の存在は特別である。母からの別離が、大人になるための必須条件だからだ。
 しかし、母が子どもを虐待する原因には、彼女の父やパートナーなどの男性が関わっていることが多い。こうした状況をもう少し掘り下げて描いてほしかった。
 全世界で男性パートナーの8割がDVを行っている、という。
 その辺の人間関係が改善できないと、問題の解決は不可能である。

 本作では、解決の糸口を示さず、観た人たちに考えさせるエンディングとなっている。
 私は、男性の女性に対する意識の変革の必要性について、深く考えさせられた。
★★★★★(★5つで満点)

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2 コメント

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私の葦牙を観て (倉知八洲土)
2010-02-10 11:41:29
 「こどもは社会からの預かり者」、自分(親)が生んだのだからといって自分の所有物と考えてはいけない。ということを現代人は悟らなければならない。
 何故ならば、現代人は自分以外の生命を育てる能力を失ってしまったのだ。それはこの複雑怪奇な社会を作ってしまったことを反省し並々ならない努力を傾注して健全なこどもを育てる手立てを見つけださないと人間社会の崩壊、強いては人類の破滅になってしまう事が容易に想像できる。
 地球上の生物たるや子孫繁栄の任務を負って存在をしているはずだ。創造主である神はその条件でこの地球上に生物の存在を許したに違いない。当初、神は人間(ホモサピエンス)の個人に負わせた任務と考えたが、現代の人間の成長か堕落かは神をも想像できなかった。それは、現代人は神の意志(人間をこの世に存在させたこと)を厳守しなければならない責任があるわけで、今となっては個人が育てるなんておこがましい。子育てを社会に丸投げしてもらっては困るが、それ相応の責任を社会は持たなければ人類の存続は難しい状況には違いない。生まれてきたこどもは何も悪くはない。先にこの世に出てきた我らの社会ルールに当てはめようとすることが一番悪いことは確かである。 こんなことを痛感した映画ではあった。こんどは、親側からの視点での作品が出来ればと欲張りを付け加える。









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親側の視点で (マダム・クニコ)
2010-02-15 22:03:43
倉知様

コメントありがとうございました。

>こんどは、親側からの視点での作品が出来れば

同感です。
親も被害者であることが多いのですから・・・。
なぜ暴力の連鎖が起こってしまうのか?
女と男の関係の歴史的な状況も考察して、踏み込んだ
ドキュメンタリーをぜひ観たいものです。
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