マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

ヴィオレット/光と影

2016-02-04 | 映画分析
2013年、フランス、マルタン・プロヴォ監督

観ていてしんどい。
だが、監督の狙いはそこにある。観客が共感を得られない主人公こそ、最高の華なのだ。
ゴツゴツとひっかかって、考え込ませる作品、映画好きにはたまらない。

1946年にデビューした実在の作家ヴィオレットは、私生児で不美人。もてないし、貧乏で、性格も悪い。
母を憎み、自分を嫌い、世間を恨み続けている。

対して、流行作家のポーヴォワールは、超美人で、ストイック。女性の解放を求める彼女は、女に優しくてカッコいい。

これでもかというほど、ヴィオレットの不遇を描き、彼女に対するポーヴォワールの同志愛を強調する。
2人は光と影、の関係だ。

ヴィオレットは、処女作の原稿を「読んで欲しい」と、ポーヴォワールに持ち込む。彼女はヴィオレットに言う。
「貴女は才能があるから、自信を持って、ありのままを書きなさい」と。

言われるままに次々と、母との確執、ポーヴォワールへの思慕、若き日のバイセクシャルな愛欲など、自分の生き様を虚飾を施さずに書いたが、小説は全く売れなかった。

女性の生き方やセクシャリティを赤裸々に描くことは、一般的にはまだ受け入れられない時代だった。

彼女は傷つき、精神を病む。
ポーヴォワールは、彼女を励まし、生活費の援助までする。
ヴィオレットの小説は、きっと時代を変える、と確信して…。

坂口安吾は『デカダン文学論』の中で、作家と作品の距離について、次のように述べている。
「距離とは、人間と作品の間につまるこの空白をさすのであり、肉体的な論理によって血肉の真実がつきとめられ語られていないことを意味している」
「問題はいかに生くべきか、であり、しかしていかに真実に生きているか、文章に隠すべからざる距離によって作家は秘密の真相を常に暴露しているのである」

さらに、『教祖の文学』で、「文学は生きることだよ。見ることではないのだ。作家はともかく生きる人間の退っ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとって行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ」と言っている。

安吾と同様に、「苦しい生き様を正直に書きなさい」と言うポーヴォワールの、時代を見据えた慧眼は、やがてヴィオレットを開花させる。

人生の全てを書くことに費やしたヴィオレットは、パリから移り住んだプロバンスで集大成の『私生児』を書き上げ、ベストセラーになる。

実生活で展開した愛への飢餓状態を、全身全霊で書き、多くの人々の共感を得たのだった。
ようやくポーヴォワールへの依存から自立を果たしたヴィオレット。

それにしても、ポーヴォワールの同志愛は熱い。
女性の未来のあるべき姿をヴィオレットの才能に託し、しっかりと彼女をサポートし続ける力強い味方である。

2人の作家の友情を超えた絆は、深い感動を与えてくれた。
こうした下敷きがあるからこそ、今日の女性たちの自由な表現活動は市民権を得たのである。

しんどかったが、ラスト近くで、2人とも母への愛の大きさを示すセリフがあり、ラストの美しく爽やかなプロバンスの陽光の中で輝くヴィオレットを観て、幸福感に満たされた。

余談だが1960年代、ポーヴォワールの著作『第二の性』を読み、虜になった。彼女に憧れ、女性の自立やセクシャリティについて真剣に考えるようになった。
感想を全国紙に投稿したところ、それを読んだ著名な評論家から手紙が来て、しばらく文通した。
「会いたい」と名古屋まで来てくれて、深夜まで大いに語らった。

彼とはいい関係を築けるかな?と期待したが、当然サルトルとポーヴォワールにはなれなかった。

★★★★(★5つで満点)
 

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