原題は「時間」。冒頭とラストで時を刻む音が聞こえる。時間は到着しては(生)、自らを抹消する(死)。線に例えれば、線を記しては消し、接木するように書くことによって次の線を約束する(再生)。だが、前に書いた線が完全に消えるのではない。痕跡が少しずつズレていくのだ。
整形も同じこと。新しい顔を造っては過去の顔を消してゆく。しかし、再生を目指しても、以前の痕跡を引きずったままだから、自己矛盾の狭間で苦しむことになる。
本作では写真も重要なモチーフだ。撮る(生)、踏む・燃やす・刻む(死)、仮面にする(再生)・・・といった具合に、生と死を表現している。写真も整形と同じく、生~死~再生・・・・・・という「時間 」との共通項がある。
人は死を期待しながら生きる存在であり、生まれながらにして矛盾を抱えている。死からの逃避として同一化を求めるが、そこには必ず亀裂が生じ、狂気に至ることさえある。
同一化を開かれた他者への愛(共存在)に転じるにはどうすればよいのか・・・。本作のテーマはまさにここにある。
goo 映画
主人公セヒは、自分の顔を恋人ジウの好みに合わせて整形すれば、彼は再び新鮮な自分と出会うことになり、愛を取り戻すことができるのでは、と考える。だがそう上手くはいかない。ある意味、一方的な価値観を押し付ける今日の管理社会とグローバルな技術文明を批判しているともいえよう。
恋愛は他者との同一化だ。セヒがジウの心の内を勝手に解釈して、独りよがりの行動に出たのは、同一化にはいつか必ず亀裂(破綻)が生じることを意味している。裂け目を繕うために整形したのだが、元の自分セヒと新しい自分スェヒの2本の縫い針が激しく争い、葛藤する。
冒頭、ジウと逢うためにカフェに急ぐセヒが、スェヒとぶつかり、写真の入った額を割ってしまう(このシーンはラストでも反復される)。
さらに、窓ガラスが割れたり、カフェでカップを割るシーンが何度も繰り返されるのは、こうした亀裂を意味している。
人は亀裂を体験して初めて、同一化の問題点に気付く。同一化は閉じた関係だ。開かれた他者への愛(共存在)に昇華させるには、反復による他化が必要なのだ。
おびただしい反復がある。このカフェと彫刻公園は何度も男女の出会いの場となる。車を運転するジウは毎回、追い越す時に女に声をかける。男も女も、自分自身や相手の行動を繰り返す(街路樹を蹴る、シーツで顔を包む、整形する・・・)。セヒからスェヒへの変身、ジウとの出会い・・・。
痕跡は、反復することにより、絶えずズレながら 変化し、他化を目指す。他者と出会い、他者となることで生き延びていく 。
シーツのシーンの反復(白~赤)は、他者を包み自分も包まれる、自他の区別の無い世界への移行を表現している。
ラスト近く、迫り来る満ち潮(死)の上に伸びる手の彫刻に抱かれて(生)、その上にさらに伸びる階段(再生)を眺めるスエヒ。
恋人の死により、深淵を覗いた彼女は、同一化の先に根源的な愛の世界があることを悟ったのだろうか。
★★★★★(★5つで満点)
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整形も同じこと。新しい顔を造っては過去の顔を消してゆく。しかし、再生を目指しても、以前の痕跡を引きずったままだから、自己矛盾の狭間で苦しむことになる。
本作では写真も重要なモチーフだ。撮る(生)、踏む・燃やす・刻む(死)、仮面にする(再生)・・・といった具合に、生と死を表現している。写真も整形と同じく、生~死~再生・・・・・・という「時間 」との共通項がある。
人は死を期待しながら生きる存在であり、生まれながらにして矛盾を抱えている。死からの逃避として同一化を求めるが、そこには必ず亀裂が生じ、狂気に至ることさえある。
同一化を開かれた他者への愛(共存在)に転じるにはどうすればよいのか・・・。本作のテーマはまさにここにある。
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主人公セヒは、自分の顔を恋人ジウの好みに合わせて整形すれば、彼は再び新鮮な自分と出会うことになり、愛を取り戻すことができるのでは、と考える。だがそう上手くはいかない。ある意味、一方的な価値観を押し付ける今日の管理社会とグローバルな技術文明を批判しているともいえよう。
恋愛は他者との同一化だ。セヒがジウの心の内を勝手に解釈して、独りよがりの行動に出たのは、同一化にはいつか必ず亀裂(破綻)が生じることを意味している。裂け目を繕うために整形したのだが、元の自分セヒと新しい自分スェヒの2本の縫い針が激しく争い、葛藤する。
冒頭、ジウと逢うためにカフェに急ぐセヒが、スェヒとぶつかり、写真の入った額を割ってしまう(このシーンはラストでも反復される)。
さらに、窓ガラスが割れたり、カフェでカップを割るシーンが何度も繰り返されるのは、こうした亀裂を意味している。
人は亀裂を体験して初めて、同一化の問題点に気付く。同一化は閉じた関係だ。開かれた他者への愛(共存在)に昇華させるには、反復による他化が必要なのだ。
おびただしい反復がある。このカフェと彫刻公園は何度も男女の出会いの場となる。車を運転するジウは毎回、追い越す時に女に声をかける。男も女も、自分自身や相手の行動を繰り返す(街路樹を蹴る、シーツで顔を包む、整形する・・・)。セヒからスェヒへの変身、ジウとの出会い・・・。
痕跡は、反復することにより、絶えずズレながら 変化し、他化を目指す。他者と出会い、他者となることで生き延びていく 。
シーツのシーンの反復(白~赤)は、他者を包み自分も包まれる、自他の区別の無い世界への移行を表現している。
ラスト近く、迫り来る満ち潮(死)の上に伸びる手の彫刻に抱かれて(生)、その上にさらに伸びる階段(再生)を眺めるスエヒ。
恋人の死により、深淵を覗いた彼女は、同一化の先に根源的な愛の世界があることを悟ったのだろうか。
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死ー生ー再生の反復という構図が、これほどくっきりと表現されている映画も珍しいですね。しかも、ギドクはたぶん、直感的にそうした構図を選択している。
キム・ギドクが描く“生~死~再生”の循環を奥深く捉えるならば
“輪廻転生”を意味しているように私は思えました
>人は死を期待しながら生きる存在であり、生まれながらにして矛盾を抱えている。
そして、人を愛し、人に愛されたいという矛盾を抱えているのが“人間の人生”なのでしょうね。
今晩は
ず~と愛されたい。飽きられたくない
という気持ちはだんだん強くなって行き・・・・。
自分の相手に対する気持ちが見えなくなって
いるように思います。人間、欲を出すと
ろくなことはないと・・・・。
無償の愛が理想ですが。難しいですね。
彫刻公園に、娘さん行かれたのですか。
羨ましいな~~~
ストーカーや妬みというものではなく愛の表現方法の超えたものなのかと。
とても堪能できた作品でよかったです♪
ところでギドクの「ブレス」は鑑賞されましたか?
オダギリジョー主演の次回作も楽しみです♪