もとむら歯科通信

きょうも元気で、おいしく食べる事ができますように!
あなたにとって何か素晴らしいことが起こりますように。

高良山の謎 NO3

2011-11-03 22:08:59 | 久留米地名研究会



今年も、11月になってしまいました。
ちょっと遅くなりましたが10月の話です。

10月は神無月ともいいますね。
それは、日本中の神様が、出雲に行かれるので、神様がいない月、神無月というのです。
出雲では、10月のことを神在月というそうです。

ところが、高良大社の神様は、10月に出雲には行かないのだそうです。
ですから高良山の10月は神在月ということになります。

これは高良山の宮司にお尋ねしたので間違いない話ですが、いったいどうしてなのかはよくわからないそうです。

高良大社は、ご祭神の玉垂尊がいったいどなたなのかが、わかっていないことをはじめ、
謎の多い神社です。  

調べていくと不思議な、おもしろい事がたくさんあります。

地名研究会で、一緒に勉強しませんか。
「ワクワクドキドキ」保証いたします。

地名研究会ホームページ
http://www.motomurashika.com/kurume-chimeiken/


    久留米地名研究会開催のお知らせ  

11月5日 13時~17時 サンライフ久留米

中島 昭三氏 「筑後の地名から読み解く邪馬台国」

宮崎の秘境 栂尾に神楽を見に行くツアーなどもあります。
詳しくはhttp://ameblo.jp/kurume-chimei/  をご覧ください。

 
コメント (103)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 10月のお誕生会 & 5周... | トップ | うつくしい 歯と歯ぐきの健康... »
最新の画像もっと見る

103 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (unknown)
2023-11-17 05:52:17
 藤原氏は、崇神天皇を神武天皇として、古事記や日本書紀を作らせました。この二人の天皇は、どちらもハツクニシラススメラミコトになっています。神武天皇である天照国照彦櫛玉饒速日命こそが、ハツクニシラススメラミコトです。編纂者の太安万侶も後の世で謎が解けることを望んだのでしょう。元伊勢籠神社の国宝海部氏系図でわかります。奈良の三輪山の神は、神武天皇ー饒速日命です。古賀市筵内にある、筵内熊野神社に饒速日命が祀られています。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 05:03:21
 高良大社の神は、天照国照彦天火明饒速日命です。息子が猿田彦命で、猿田彦命の所へ 部族の長は米の出来高の報告にやって来ます。昔、部族の長を神と言いました。出雲族の王である猿田彦命の処へ神々が集うので、地方は、神様が留守で神無月になります。
高良大社の神様は、猿田彦命の父なので、出雲へは行かないのです。神武天皇を祀ってあるので、天皇家の宗廟です。饒速日命と名換えの儀式をして、魂の入れ替わった誉田別命ー応神天皇も、祀られています。武内宿禰も、他人の子供だから、魂の交換を受け入れたのでしょう。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 04:33:00
 以前 豊受姫大神は、饒速日命の孫と書きましたが、饒速日命の兄の元嫁でした。藤原氏は、天智天皇の治世には、伊勢神宮の内宮の祭神の饒速日命ー神武天皇ー天照国照彦天火明饒速日命ー月読尊を、天照大御神に換えてしまいます。建御名方命を、綿津見三神ー仲津綿津見神、底筒綿津見神、上津綿津見神に3つに分けてしまいます。呪詛のー種です。豊秋都志姫を、八十禍津日神、神直日神、大直日神に。鵜草葺不合命を、住吉三神ー底筒男命、中筒男命、表筒男命に。猿田彦命を、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂に分けました。福岡市の警固神社の祭神は、豊秋都志姫ー豊玉姫ー豊受姫です。卑弥呼も記紀では無視しています。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 03:53:01
 鵜草葺不合命は、叔母の玉依姫命に育てられ、大人になり、玉依姫命と一緒になります。宮崎、鹿児島辺りにフキアエズ王朝ができます。息子が神日本磐余彦です。これが、大和へ攻め上り、崇神天皇となります。瓊瓊杵尊は、早死し、子供はいません。藤原氏は、百済人であることを隠して、日向族の天照大御神の眷属の天児屋根命の子孫になりすまして、偽の系図を作りました。天児屋根命は祝詞を作る役目をしていましたので、藤原氏は、これにより、天皇家の祭祀権を獲得します。古事記、日本書紀等事実と違う歴史書を作ります。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 03:00:14
 豊秋都志姫は、天之忍穂耳命と一緒になり、ニニギノミコトを産みます。ニニギノミコトは、大山祇命の娘の木花咲耶姫命を娶ります。大山祇命とは、猿田彦命の別名です。那珂川市の一ノ瀬日吉神社の祭神は、現在大山祇命が祀られています。昔は、猿田彦命が祭神でした。最澄が、遣唐使で唐から帰国し、ここの猿田彦命を比叡山へ勧請します。天台宗の支配下にあった鞍馬寺でも猿田彦命は祀られています。現在は魔王尊として。山王神社と日吉神社は同じ猿田彦命ー大山祇命です。一ノ瀬日吉神社も福岡市南区清水の日吉神社も猿の石像があります。神話には、八街に立ち、天からのニニギノミコト一行を迎えた様に記してあります。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 02:26:27
 豊秋都志姫は、赤ん坊を連れて行く事が出来ず、妹の玉依姫命に、我が子を託し、天之忍穂耳命の元へ嫁ぎます。こうして、豊秋都志姫は、2代目卑弥呼となります。魏志倭人伝に、卑弥呼が死んだ後、男の王が立ち、その次、トヨが国を治めたとあります。豊玉姫は、妹の玉依姫命に息子の養育を頼み、海神の国へ帰ってしまう神話がありますね。福岡市の志賀海神社の祭神は、豊秋都志姫の父の綿津見大神、つまり、建御名方命です。諏訪大社では、昔は鹿の生首を、現在は、剥製を神前に供えます。志賀海神社は、鹿角堂
に1万本以上鹿の角が奉納されています。本殿の横には、孫の鵜草葺不合命である住吉神が祀られています。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 01:52:48
 高良の地に、五十猛命と丹生都姫が共に暮らしていたというのは間違いでした。饒速日命は、奈良県橿原市で神武天皇に即位します。
スサノオが死に、大国主命が出雲国王となります。しかし、スサノオの妻の天照大御神である卑弥呼は、連れ子の天之忍穂耳命を跡継ぎとして出雲国を治めさせます。出雲国を取り上げられた事代主命や大国主命は、自害して果てます。しかし、卑弥呼ーオオヒルメムチも死に、後ろ楯がいなくなった天之忍穂耳命は、うまく政治ができませんでした。元の日向族は良いのですが、出雲族が言う事を聞かないので困ってしまいます。そこで、大国主命の孫娘の豊秋都志姫を嫁にします。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 01:21:00
 建御名方命は、トヨアキツシヒメを五十猛命の嫁に出します。トヨアキツシヒメは、妊娠しますが、残念な事に、五十猛命は、戦での怪我が元で死んでしまいます。産まれたのは男の子でした。トヨアキツシヒメは、別名丹生都姫と言います。トヨアキツシヒメを常に護衛していたのが 丹生族です。和歌山県の丹生都姫神社の祭神は、丹生都姫大神と高野御子大神です。母子が祀られています。トヨアキツシヒメは、豊受姫大神で、稲荷大社の神です。丹生族は水銀ー辰砂ー丹を取る一族です。丹生都姫は、天照大御神の妹ではありませんでした。そして、産まれた子供は、鵜草葺不合命です。住吉神社の祭神です。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-17 00:17:51
 大国主命は、後継者を事代主命に決めました。腹違いの兄である建御名方命は、死んだ母の故郷の新潟県へ船で向かいます。新潟県の弥彦神社の祭神である天香山命が、建御名方命の別名です。建御名方命が祭られている諏訪神社は、新潟県に日本で一番多く存在します。建御名方命は、次に長野県の諏訪を平定し、饒速日命や五十猛命のいる和歌山へ攻め上ります。建御名方命は、綿津見神を指します。娘はトヨアキツシヒメです。
返信する
Unknown (unknown)
2023-11-16 23:40:36
 神功皇后と武内宿禰の子供は、4歳で亡くなってしまい、宇佐族の男の子を養子にします。その子が大きくなり、応神天皇になりました。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-05 23:27:54
 ニ(2)ニ(2)ギ(偽)ノミコト。おかしな箇所が、2+2で4箇所あります。この系図で4箇所が偽りであるという意味でしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-03 04:41:09
 ニニギノミコトが、岩長姫を断ったので、寿命が短くなったと話にありますが、これは、ニニギノミコトが早死にしてしまったという意味でしょう。天火明命が二人。幸彦が二人。豊のつく姫が二人。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの二人の姫。二人のどちらか一方が、架空の人物であったり、名前が違っていたり、おかしな作り話として使われていたりで、二という数字が何かを暗示しています。ニニギノミコトの回りの二は、偽りを表しています。二二偽(ギ)ノミコトですね。子供を残せなかったか、大和迄に攻め登る勇気のない子供しかいなかったのかもしれません。大和朝廷の天皇に無理に繋げたのです。記紀の編纂者の太安万侶は苦労したことでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-03 04:06:44
 歴代天皇系図(神代一)を見ますと、ニニギノミコトの兄弟に天火明命書かれています。その下の、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子供の所に、火遠理命(山幸彦)と天火明命の名前があり、火遠理命の妻が豊玉毘売命となっています。ホオリノミコト(山幸彦)が、兄・イタケルノミコトで、弟・天火明命は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(神武天皇)です。海幸彦は、架空の人物です。トヨタマヒメは、豊受姫-トヨアキツシヒメ-タクハタチヂヒメノミコトです。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-03 04:05:16
 歴代天皇系図(神代一)を見ますと、ニニギノミコトの兄弟に天火明命書かれています。その下の、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子供の所に、火遠理命(山幸彦)と天火明命の名前があり、火遠理命の妻が豊玉毘売命となっています。ホオリノミコト(山幸彦)が、兄・イタケルノミコトで、弟・天火明命は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(神武天皇)です。海幸彦は、架空の人物です。トヨタマヒメは、豊受姫-トヨアキツシヒメ-タクハタチヂヒメノミコトです。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-03 03:39:09
 間違えました。ヒコホホデミノミコトは、ホオリノミコトであり、山幸彦であり、五十猛命(イタケルノミコト)です。アメノオシホミミとトヨアキツシヒメの間にできた子供は、ニニギノミコトだけです。ニニギノミコトは、日向族の王となります。大国主や事代主が死んだ後、出雲族の王となるのは、猿田彦命です。高須神社に奉られているヒコホホデミノミコトは、イタケルノミコトを指しています。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-01 14:27:39
 糸島市の高祖神社や古墳を見に行ってきました。トヨウケヒメは、イタケルノミコトの子供を産み、その子を連れて丹生族に守られながら、イタケルノミコトの本営地としていた和歌山へ向かいました。しかし、弟のニギハヤヒノミコトと大和へ攻めいるる途中で、戦死してしまいます。子供の名前は、ウガヤフキアエズノミコト。不合尊-父に会えずの意味でしょう。トヨウケヒメは、ニウツヒメの事です。和歌山のニウツヒメ神社に、高野御子神と共に奉られています。丹生族は丹を採掘する一族です。親子は、九州へ戻ります。アメノオシホミミが、ヒミコ(オオヒルメムチ)の後を治めようとしたのですが、無理でしたので、トヨウケヒメを二代目ヒミコに立てることにしました。トヨウケヒメは、スサノオの孫であるウガヤフキアエズノミコトを、妹のタマヨリヒメに預け、育ててもらいます。日向族のヒミコの息子と結婚するのに、出雲族のスサノオの孫を連れて行く事は出来なかったのです。記紀にある、トヨタマヒメは、山幸彦の子供を産みますが、鰐の姿になって出産している所を夫に見られてしまい、恥ずかしいので、産まれた我が子の養育を妹のタマヨリヒメに託して海へ帰ってしまう話です。山幸彦は、架空の人物です。アメノオシホミミと結婚し、ヒコホホデミノミコトを産み、次にニニギノミコトを産みます。記紀では、トヨアキツヒメになっています。ヒコホホデミノミコトは、初代日向国王である曾祖父イザナギノミコトの後を継ぐ二段目日向族の王となります。弟のニニギノミコトは、イト国の王となります。ニニギノミコトと妃のコノハナサクヤヒメは、三雲小路遺跡に葬られたのでしょう。甕棺墓が二つ出土。すぐ近くにコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを奉った神社があります。山側にヒコホホデミノミコトを奉った高祖神社があります。ウガヤフキアエズノミコトは、南九州で王となります。息子のカムヤマトイワレヒコは、大和へ攻め登り、スジン天皇となります。ミマキイリヒコイニエノスメラミコトです。御間城入彦五十?殖天皇です。五十猛命(イタケルノミコト)の五十という字が入っています。景行天皇の次男がヤマトタケルミコトで、九州のクマソを討ちます。ヤマトタケルの次男がチュウアイテンノウになります。ウガヤフキアエズノミコトは、住吉神社に奉られます。名前を三つに分けて三柱の神になっています。猿田彦命と同じで、これも呪詛です。対馬にある最も古い住吉神社の二つは、ウガヤフキアエズノミコトが祭神です。それを移した住吉神社は皆、三柱の神になっています。不都合な神は、名前を代えてしまうのです。結局、アマテラスオオミカミであるヒミコの直系の血は、大和朝廷の天皇にはなれなかったのです。藤原鎌足は、それを無理に繋げる為に、太安万侶らに命じて偽の系図を作らせました。ナカノオオエノオウジと藤原鎌足は、百済の血統です。過去の日本の正しい歴史書を焼き払い、藤原氏が、天孫族(日向族)のアメノコヤネの血を引いているように書き換えさせたのです。古事記や日本書紀等は、全て正しくはありません。カムヤマトイワレヒコを神武天皇にしてしまいました。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコトが、本当の神武天皇で、記紀の神武天皇は、カムヤマトイワレヒコです。どちらも、はつくにしらすすめらみこととなっています。編纂者も後世で誰かが真実を分かってくれるように所々に暗示するものを残しています。ウガヤフキアエズノミコトの母親の名前も豊玉姫とし、アメノオシホミミの妻の名前トヨアキツヒメの豊を使って教えているのです。神武天皇は、八幡神社に奉られています。トヨアキツヒメ-トヨウケヒメは、ニウツヒメ神社や稲荷神社や伊勢神宮外宮に奉られています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-03-03 19:16:05
素晴らしいものが残っていますね。初代玉垂命が倭王旨である事を表しています。早い時期での瀬高の遺跡発掘調査が望まれる所以ですね。
返信する
Unknown (大石)
2013-02-28 08:21:01
古田武彦氏によれば、こうやの宮には、七支刀をもった人形があります。
七支刀は、奈良の石上神宮(物部)のご神体です。
他にも不思議な人形が数体あり、大変興味深いです。
調べてみてください。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-28 07:53:56
ありがとうございます。
返信する
Unknown (大石)
2013-02-27 23:21:47
たくさんのコメントありがとうございました。
ゆっくり読ませていただきます。
今週末は、瀬高の「こうやの宮」について、地元の研究者に話していただきます。13時半より、サン・ライフ久留米です。いろんな研究者の方が来られるので面白いですよ。お時間あったらぜひおいで下さいね。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-25 22:08:42
調べて解った事は、これだけです。深く調べて行くうちに、最初に申し上げた事と違う結果になりました。人の説を受売りにすると、どういう事になるか思い知らされました。調べる文献その物がないものや、文献ごとに内容が違っていたりして、手探りで前へ進むような感じでした。これが古代史の醍醐味かもしれませんが…。正しい事もあるでしょうが、間違っている事もあるでしょう。真剣に読んで下った大石様には、大変申し訳なく思っております。古代史の研究により一層励まれ、日本人の正しい歴史を皆さんに伝えていって下さい。どうもありがとうございました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-24 22:47:29
クナトノ大神を奉じたオロチ族は、元は、新潟辺りに住んでいました。アラハバキ神(女神)を奉じたアラハバキ族は、青森辺りに住んでいました。青森県の三内丸山遺跡は、5000年前のものです。大己貴が出雲族の王となった頃、大和の国(大阪も含みます)を治めていたのは、同族の長髄彦とその兄・安日彦です。彼等が、最初の大和の王です。神武天皇(ニギハヤヒ)に戦で負け、東北へ登り、アラハバキ族を従えます。今度は、新アラハバキ族の王として大和へ攻め入り、影響力を持ちます。アラハバキ系の孝昭天皇と孝元天皇を立てます。孝元天皇の孫にタケウチスクネがいます。最終的には、九州から攻め上って来たカムヤマトイワレヒコ(スジン天皇)に負けて、東北へ引き上げます。安日彦の子孫に、阿倍氏や安東氏がいます。大阪の阿倍野と云う地名の由来になります。陰陽師の安倍晴明や、安倍宗任もいます。宗任は筑紫に来た後、松浦党を作ります。安倍総理大臣も、宗任の血を引きます。タケウチスクネは、出雲族の血をしっかり受け継いでいるのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-23 01:00:34
ヤマタノオロチの話で、越の国と書きましたが、高志の国―越の国で、富山県です。高志と云う地名が残っています。スサノオは、ヤマタノオロチ族を滅ぼし、その同族である古代出雲族を征服した、新出雲族と云えます。記紀において、スサノオは完全な悪役として描かれています。そして、天照大御神と高皇産霊神の血を引く神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)を、生粋の日向族の御子として登場させます。その為には、本当の神武であるニギハヤヒを、歴史の闇に葬る必要がありました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-22 16:27:38
カゴメ紋(六ボウ星)―ダビデ王の紋章は、ユダヤ人のシンボルで、イスラエル共和国の国旗にも描かれています。伊勢神宮内宮から下宮に至る道路にある灯籠には、菊の御紋とカゴメ紋が刻まれています。下宮の祭神は、ニギハヤヒの娘―豊受大神です。京都の鞍馬寺の本殿前には、石畳に大きなカゴメ紋が描かれています。参拝者はこの上を歩いて本殿へ向かいます。祭神は、ニギハヤヒの息子―猿田彦尊(魔王尊)、毘沙門天、千手観音です。カゴメ紋の星の先端部分を線でつなげば、亀甲紋になります。高良大社の神紋は、木瓜に亀甲紋です。元伊勢である京都丹後の籠神社の祭神は、豊受大神です。スジン天皇の御代、大和から、天照大神―ニギハヤヒが移され、二柱の神が祀られていましたが、垂仁天皇の御代、天照大神は、伊勢神宮へ移されます。雄略天皇の御代、豊受大神も伊勢神宮へ移されて、現在の祭神は、彦火明命―ニニギノミコト―豊受大神の長男ーとなっています。カゴメ紋は、実は、ニギハヤヒの好んで使った紋章でした。カゴメ歌は、カゴメ模様編みをされた籠の中にいる鳥(ニギハヤヒ)はいついつ出やる? 夜明けの晩に―夜昼転換の時期に。鶴と亀がすべったは、鶴と云う字の中のフルトリ(布留―ニギハヤヒ幼名―フル)+亀であるニギハヤヒの紋―亀甲紋の事。木瓜―物部氏。鶴と亀が統べった(統治した)ニギハヤヒと物部一族が統べった。後ろの正面誰―後ろと前がひっくり返る。以上の意味にも取れるのではないでしょうか…?
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-22 14:24:41
太古日本にいた太陽信仰をもつグループ―スメル(天皇)族は、沈んで行く太陽を追いかけるように、アジア大陸に渡ります。太陽の沈む彼方に、理想郷があると思ったのでしょう。グループは二手に分かれ、朝鮮半島と南洋を経由して、西を目指します。二つのスメル族は、砂漠のメソポタミアで合流します(スメル族はシュメール人と呼ばれました)。そこには、理想郷はなく、失望した彼らは元来た道をそれぞれに戻ります。インドネシアなどの南方のルートを通って日本に戻って来たグループは、九州へ上陸、彼らは大和族(日向族)と呼ばれ、ここを制圧します。海を下ったので「天降った」と言い換えられました。陸路を使って朝鮮半島から日本へ戻って来たグループは、裏日本へ上陸し、越王朝のヤマタノオロチ(オロチ族 )を滅ぼし、山陰地方を制します。そして出雲族と名乗ります。スメル族の通じていた古神道と、越の国などに伝わっていた原日本人の記録と秘術が合体したものが、事代主が修していた法です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-21 20:23:07
熊野那智大社の祭神です。第一殿滝宮・大穴牟遅神。出雲族の数霊八の上にワカンムリを置いて、八を隠して封印。第二殿証誠殿・家津美御子神。ヤツミ―八つ三―闇(やみ)の御子―闇の御子―ニギハヤヒ。第三殿中御前・御子速玉大神。本来は建速スサノオ。速―はやい―は(八)や(やっつ―八)い―出雲族の数霊八八―スサノオ。第四殿西御前、熊野夫須美大神―クマノフスミノオオカミ―ふすみ―伏見―伏見稲荷神社(京都の伏見稲荷神社・稲荷神社の総本宮)―宇迦御魂大神―ウカノミタマ―ニギハヤヒの孫娘の豊受姫神―豊受大神―ミケツカミ(神や天皇の供え物や食事をみけつと言います。)―三狐神―ミケツカミ(関西訛りでキツネをケツネと読んだから。大阪はキツネうどんと言わず、けつねうろんと言います)稲荷神社の神―豊受大神は、記紀では、名前が出ているだけで、事績の記述はありません。しかし、平安時代から、稲荷神社の祭神は、豊受大神として一般に知られています。ニギハヤヒは可愛い孫娘とセットになっていたのです…。第六殿、アメノオシホミミノミコト、ニニギノミコト、ホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコト。豊受姫の家族が揃っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-21 18:18:09
訂正です。大日霊女貴―天照大御神(ヤマタイコクのヒミコ)は、天津日子根尊―ニニギノミコト、活津日子根尊―ホホデミノミコト、熊野楠日尊―ウガヤフキアエズノミコトの母ではありませんでした。父は、天忍穂耳命―アメノオシホミミです。母は、萬幡豊秋津師比売命―ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコトー台与―豊受姫―丹生都比売命―ミツハノメノカミです。日向族は、出雲族の血を引く人間を、女王として記紀に書く事は出来なかったのです。豊受姫は、ヤマタイコクを出て、ニニギノミコトと共に東へ登り、紀伊国までやってきます。丹生都比売神として祀られます。お供したニニギノミコトは、高野御子神として祀られます。二百社もある神社の祭神を、記紀は黙殺しています。雄略天皇の御代、天皇の夢にニギハヤヒが現れ、伊勢神宮に孫の豊受大神を祀るよう求めます。丹生都姫は、夫の五十猛尊が神武東征で亡くなった後、アメノオシホミミと一緒になったのではないでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-20 19:19:07
タケウチスクネは、事代主の出雲神道の行法を引き継いでいますが、血そのものは薄いと言いう事が分かりました。よって、タケウチスクネ=事代主という説は、誤りです。申し訳ありません。ニギハヤヒは、まだ九州にいる時、妻の吾平津姫との間に手研耳命をもうけます。ニギハヤヒば、神武天皇として即位すると、大和で、ヒメタタライスズヒメをめとって、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命をもうけます。手研耳命は、ニギハヤヒが亡くなると、義理の母であるヒメタタライスズヒメをめとり、異母弟達を殺そうと考えます。しかし、ヒメタタライスズヒメが息子達にその事を告げた為、反対に、殺されてしまいます。神沼河耳命はスイゼイ天皇として即位し、手研耳命の皇子・研耳命は、皇祖之霊皇大神宮の祭主となります。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-20 17:00:45
皇祖之霊皇大神宮は、神武天皇―ニギハヤヒの命で作られました。初代祭主―ヒメタタライスズヒメには、父である事代主の出雲系神道の口伝が伝わっています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-20 16:32:42
皇祖之霊皇大神宮の祭主についてです。初代祭主―ヒメタタライスズヒメ(ニギハヤヒ―神武天皇の皇后)、二代目祭主―神八耳命―カムヤイミミノミコト(ニギハヤヒとヒメタタライスズヒメの子)、三代目祭主―研耳命―キスミミノミコト(ニギハヤヒと吾芸志美美命「アイラツヒメ」の孫)、四代目祭主~十代目祭主までは天皇の近親者、十一代目祭主―屋主武雄心命―武雄心親王(第八代孝元天皇の孫)この方より、景行天皇時代の詔で子孫の継承となります。十二代祭主―初代武内スクネ、十三代目祭主~十六代目祭主―武内スクネ、十七代目祭主―若子スクネ(第十九代インギョウ天皇)、十八代祭主―平群都久スクネ、十九代祭主―平群真鳥スクネとなっています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-20 12:55:19
前で、神八井耳命(ニギハヤヒの次男。)は、臣下の最高位に付いたと書きましたが、祭祀を司る職に付いたという事です。弟・神沼河耳命(スイゼイ天皇)に皇位を譲りました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-20 08:10:25
高良玉垂宮神秘書についてです。「地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大臣。天照大御神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふりひゆきこ)」とあります。大日霊女貴―天照大御神の長女・タギリヒメと大己貴の子供が、事代主で、天照大御神の孫です。その娘・ヒメタタライスズヒメ―神武天皇の妃―が、曾孫です。竹内古文献に、富山県の皇祖之霊皇大神宮の初代祭主とあります。その子・神八耳命(カムヤイミミノミコト)は、弟―神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)―に皇位を譲ります。弟は、第ニ代スイゼイ天皇となります。神八井耳命は、臣下の最高位の地位に就きます。太政大臣と言えます。(歴史上太政大臣と云う職は、天智天皇から書物に現れます)二代目祭主です。天照御大神の玄孫にあたります。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 17:12:15
訂正します。タギリヒメと大己貴との間に出来た子供は、事代主だけです。他は、同母兄、同母姉、同母妹です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 14:02:00
五十猛は、神武東征で、弟の天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒノミコトを守って闘ったので、日神の垂じゃくと云えるでしょう。ニギハヤヒの魂は、三輪山に月神として、伊勢神宮に日神として、祀られます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 12:46:38
古事記において、大御神と付く神は二柱だけです。天照大御神と迦毛大御神(カモノオオミカミ)です。天照大御神(女)は、スサノオと結婚して、タギリヒメとタギツヒメとイチキシマヒメを産みます。長女・タギリヒメは、大己貴と結婚し、阿遅志貴高日子根と下照姫と事代主と高照姫を産みます。アジスキタカヒコネは、鴨氏が祀る迦毛大御神となります。第四代イトク天皇の母・ヌナソコナカヒメは、鴨王(カモノキミ)の娘と記されています。仮説です。オキナガタラシヒメ―神宮皇后が、長女・タギリヒメとすると、タギツヒメとイチキシマヒメが妹です。豊玉姫と玉依姫です。大日霊女貴―天照大御神(女)が、初代大御神です。二代目大御神が、神宮皇后です。その長男・迦毛大御神が、三代目大御神です。倭国王は、大御神と云う称号で表されるのではないでしょうか。日神の垂じゃくである表筒男尊―五十猛は、神宮皇后の妹である―豊玉姫か玉依姫(又は、二人で一人)―丹生都姫と結婚する。無理に繋げてみました。為政者達が、正しい系譜の上に自分達をなぞらえただけなのかもしれません…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 10:15:03
天照大御神、迦毛大御神
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 09:35:10
その昔、安倍晴明が、三輪山を見ながら、ここは我が国において「文字」や「数字」や「楽」や「舞」や「風習行事」の中に、そのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された「知恵と魔術の神」が封印されている」とつぶやいたそうです。 賀茂一族であった安倍晴明は、陰陽道の技を知り尽くしており、どのような形でもって封印をされていたのか解ったのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 01:19:22
文献では、猿田彦尊は、岐神―クナトノカミであるとなっていますが、これが誤りであるなら…、クナトノ大神は、国常立尊―天御中主神になります。神道の祝詞に出て来る、大倭日高見国を安国と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷立て…とある、東北にあった大倭日高見国を治めていた神―国祖神です。スサノオとクシナダヒメの子供として書かれている八島野命―八嶋士奴美命は、一体どういう神様なのでしょう?この神様の子孫が大己貴と云うのもわかりません。イザナギ・イザナミが現れる以前の岐神と、八島野命を同一神とし、無理矢理、記紀に入れ込んだので、このようになったのでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-19 00:33:27
神秘書の話です。息長宿ネ王―オキナガスクネノミコと、葛城之高額比売―カツラギノタカヌカヒメ(出身は宗像の田島)の間に、長女・息長垂姫―多記理姫、次女・多岐都姫、三女・市寸島姫が生まれたと云う事でしょうか。市寸(イツキ)多岐都(タキツ)多紀理(タギリ)姫。イツキタキツタギリ姫。息・長・垂姫。イキタケタリ姫。息長垂姫。イキナガタラシヒメ。息長垂姫。オキナガタラシヒメ。文献には、妹として一人だけしか登場しません。虚空津姫(ソラツヒメ)+ヨド姫(ヨドヒメ)が出て来ます。これは二人で一人の神ではないでしょうか。赤玉―潮満珠―豊姫―阿加流姫―アカルヒメ(赤色の珠から生まれます)=赤流姫(アカ・ルヒメ)とも取れます。白珠―潮干珠―玉依姫。宗像神社では、宗像三女神と息長垂姫を一緒に祀っています。宗像三女神は、海の神様です。赤は、丹生都比売の丹の色に通じます。丹生都比売は、天照の妹神で、二人共美人であるとなっています。もし、この天照がオキナガタラシヒメであれば…、丹生都比売は五十猛と結婚するので、住吉三神の嫡男―日神の垂じゃくが神宮皇后の妹と結婚するのはおかしくないです。又、妹神が、ヤマトタケルと結婚するとも、取れます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-18 18:47:26
第十三代天皇―成務天皇―稚足彦大王の大臣、建宇智スクネがいました。吉野郡丹生の古田にいた、丹生都比売神を祀る丹生族長老・井之口の娘との間に生まれた子供が、ウチノタケル―タケウチスクネです。このタケウチスクネが神宮皇后と一緒になったタケウチスクネです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 21:57:02
高良玉垂宮神秘書をまとめます…。イソタケルは、ただ一人です。しかし、その精神を受け継いだヤマトタケルと呼ばれる人間が現れます。景行天皇の子に、ヤマトタケルがいます。いにしえに、スサノオの命令で、イソタケルは、妹のオオヤツヒメやツマツヒメと共に、各地で木の種を蒔きました。紀伊国では、特に沢山の種を蒔いています。紀伊国は、元は木の国です。タケウチスクネの子孫の紀氏は、元は木氏でした。イソタケルは、三養基郡基山から、木の種を蒔き始めます。この時、イソタケルは、山上から川で洗濯をしている娘を見つけて、好きになり、初めて結婚ます。基山町の名前のは、元は木山です。山の基になったから、基山町なのでしょうか。紀伊国は、ニフツヒメノの本州での活動拠点であり、神武東征の難所であり、又、熊野三山を戴いた出雲族ゆかりの地です。タケウチスクネもここで生まれました。イソタケルやニフツヒメも高良山に暮らしたのでしょう。タケウチスクネは、イソタケルが木の種を撒いた高良山を見上げ、生まれ故郷の紀伊国を思い出した事でしょう。タケウチスクネは、チュウアイ天皇の元妃・神宮皇后と結婚します。チュウアイ天皇の父・ヤマトタケルは、神宮皇后の妹―阿加流比売と結婚します。文献では、阿加流比売は、ニフツヒメとよく似た描かれ方をしています。神宮皇后の妹となっています。ヤマトタケルの子孫は、高良大社の大祝職につくものが出たのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 17:48:47
せっかくお誘い頂きましたが、諸事情により参れませんでした。誠に申し訳ございません。またの機会にお会い出来ます事を、楽しみにしております。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 17:40:28
一つの霊魂を二つに分ける呪詛により、ニギハヤヒの霊魂と、宇迦御魂(倉稲魂)の霊魂に分けられました。本来は二つで一柱の神です。そのウカノミタマの方を祀ったものが、稲荷神社です。高良大社の末社・境外社に、大学稲荷神社があります。鳥居の赤色は、隔り世(かくりよ)を表しています。鳥居は、霊魂をくくる事になりますので、稲荷神社のように鳥居の数がたくさんあると、参拝者がくぐった数だけ、ウカノミタマは、括られるという呪術を踏襲する事になります…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 15:32:00
倭の五王。 初代玉垂命―タケウチスクネ―倭王旨。二代目玉垂命―長男シレカシ―倭王讃。早死して弟へ継承。三代目玉垂命―次男アサヒトヨモリ―倭王珍。後は三潴郡の古墳群にある御塚、権現塚、銚子塚に眠っておられる方々。三代目の子孫は、稲員家に続きます。朝鮮半島から七支刀を贈呈された時、神宮皇后が受け取ったので、「高良の神は玉垂姫」―筑後国神名帳、「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」―太宰管内志、という事が書かれてしまうのだそうです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 14:35:31
ニギハヤヒの魂は、応神天皇として生きます。子供の名前を見て下さい。ウヂノイラツコ。(ウ)ヂノイラツコのウの文字が、草冠に兔です。ウサギです。ウサギは月を表す象徴です。その子の妹は、矢田皇女―雌鳥皇女。ニギハヤヒの幼名は布留(ふる)。フルトリ。フルの鳥です。仁徳天皇になるのは、この二人の異母兄でオオサザキノミコト―大雀命です。フルトリが入っています。埼玉県に調神社があります。狛犬の代わりにウサギが置いてあります。調神社と書いて、ツキ神社と読みます。元は、月読神社でした。祀ってあるのは、ニギハヤヒです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 14:01:22
高良山は、元、高牟礼山と呼ばれ、高牟礼神―高御産巣日神―高木神を祀ってありました。 天業雲五十猛命と丹生都比売が暮らしていました。後の世に、タケウチスクネがやって来て、ここを一族の本拠地とします。出雲族である神宮皇后とタケウチスクネは、仇である百済系のチュウアイ天皇を、共犯で殺します。そして、ここへ、スジン天皇に滅ぼされた神武天皇―ニギハヤヒ―天照皇大神を祀ります。タケウチスクネは、神宮皇后との間にホムタワケをもうけます。しかし、チュウアイ天皇の子供が大和にいる為、この地で、倭国王となります。祭祀は高良山で、政治は三潴郡で行います。朝鮮半島を手中に納め、我が子ホムタワケを大和の天皇にする為、神宮皇后とタケウチスクネは、ニギハヤヒとイソタケルとニフツヒメノカミに、必死で祈ります。ニギハヤヒは、ホムタワケと名前の交換―魂の交換をする事を条件に、ホムタワケを応神天皇として即位させてくれます。しかし、応神天皇は、四十年と云う短い在位で死んでしまいます。神宮皇后も死に、皇宮においての後ろ楯を失ったタケウチスクネの親族は、三種の神宝を持ち出し、高良山のある本拠地へ戻ります。タケウチスクネは、旅の途中で履物を残して消えますが、ちゃんと三潴郡まで戻り、この地で波瀾万丈の人生を終えます。そして、月読命―ニギハヤヒを祀った月読神社の側に墓を作らせます。月神の垂じゃくとして祀られます。三潴郡は、ニギハヤヒの数霊である三の数字が入っています。高牟礼神を信仰していたイソタケルは、日神の垂じゃくとなり、高木神のお側におられるのでしょう。高御産巣日神―イソタケル。神産巣日神―月読命(ニギハヤヒ)―タケウチスクネ。神武東征の折り、イソタケルは、ニギハヤヒに付いて行った兄です。高木の神様が玉垂命に山を譲る話は、兄が弟に山を譲ったのと同じです。だから、高良玉垂宮神秘書に、高木神は出て来ません。日と月が一緒になり、この世が明けるのです。でも、まだ封印された月読命―ニギハヤヒは、まだ外へ出られません。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 03:49:18
九体王子の九という数字は、ニギハヤヒの数霊を表しています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 03:01:54
久留米市三潴高三潴に、高良御廟塚があります。これが、タケウチスクネの墓です。初代玉垂命の墓です。同じ敷地内に、ニギハヤヒを祀った月読神社があります。タケウチスクネは、草履を置いて、消えてしまったと伝えらています。月神の垂じゃくとまで云われるほど、月読命―ニギハヤヒを大切に祀っていたのですね…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 02:13:10
「二王の叛乱」の時に大和王朝とは、別に、九州王朝が出来上がります。神宮皇后とタケウチスクネがつくります。神宮皇后が九州を離れた後も、襲名タケウチスクネが玉垂尊と名乗り、後継します。三種の神宝や干珠・満珠。そして、ニギハヤヒを祀っている石上神宮(奈良県天理市)と同じように、七支刀まであります。タケウチスクネは、月読み命であるニギハヤヒを信心していました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 01:26:00
ウガヤフキアエズノミコトの子供です。カムナオビノカミ、ナオナオビノカミ、イズノメノカミ、ソコツワタツミノカミ、ナカツワタツミノカミ、ウワツワタツミノカミ、ソコツツノオノミコト、ナカツツノオノミコト、ソコツツノオノミコト。九名です。次に、高良玉垂尊―タケウチスクネの子供です。シレカシ、アサヒトヨモリ、ユウヒトヨモリ、フチシ、タニガミ、ナヲミ、サカモト、アシキ、アラヲハヒメです。以上九名です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-17 01:04:16
朝鮮半島からイルイが攻めて来た時、神功皇后は、糟屋郡宇美町の四王子坂に登って、神に祈ります。すると、ニギハヤヒの神が二十歳の若者の姿で現れます。月読み命ですから月神です。次に、ウガヤフキアエズの神―海の神―住吉大明神が現れます。そして、ウワツツノオノミコト―五十猛尊が現れます。大将軍には、ニギハヤヒとウガヤフキアエズがなり、それぞれの副将軍としてイソタケルが働きます。神宮皇后は、三韓征伐の際、イソタケル―イタケルの神を舟の先端部にお祀りし、又、イソタケルの妻神であるニフツヒメノカミの御告げで、舟、武具、服を、丹の色に染めて戦います。戦に勝った後、ウガヤフキアエズ―住吉大明神は、天界へ帰って行きましたが、ニギハヤヒの神とイソタケルの神は、神宮皇后を守護する為に、天界へ戻らずに残ります。五十猛は、タケウチスクネと同じように、ヤマトタケルとして、襲名されていくのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 23:56:52
高良大社の九体王子の話です。ウガヤフキアエズと叔母のタマヨリヒメが結婚して出来た子供が次の通りです。長女―表津少彦命。次女―中津少彦命。嫡男男―表筒男尊―五瀬命―五十猛。中筒男尊―若御毛沼命―カムヤマトイワレヒコ―スジン天皇。底筒男尊―稲飯命―タケウチスクネ。ウワツツノオノミコト―イソタケルは、神宮皇后の妹―丹生都姫―阿加流姫―ミツハノメノカミと結婚します。ソコツツノオノミコト―タケウチスクネは、神宮皇后と結婚します。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 11:54:24
古事記にある記述です。名換えのお礼に、気比大神―ニギハヤヒは、浜に「鼻を毀てる―こばてる―入鹿魚―イルカ」を与えたとあります。イルカの鼻の血が臭いので血浦といい、それが都奴賀となったと云う話を記しています。また、日本書紀では、都奴賀の地名起源として、角のある人―ツヌガアラシト―がやってきたためとあります。また、大和に迎えらた太子の母である神功皇后が、御酒を造って、気比大神に献上する歌があります。その中に、少彦名神が、「いはたたす少御神」―石の上に立つスクナヒコナノカミとして、出て来ます。さらに、応神天皇には、尾があったと云う伝承があります。応神天皇が隣の部屋へ行った時に、御付きの者が早く戸を閉めてしまいました。残っていた尾が挟まって痛かったので、「尾籠」―おこ―バカ者―と言ったと云うのであります。私は思います。これは、ニギハヤヒがホムタワケの父・タケウチスクネに、未来を予言して教える話でしょう。ツヌガアラシトは角がある人で、角が付いた兜を被った侵入民族―外国人が、タケウチスクネの子孫の蘇我入鹿を殺す時が来る事を暗示しているのでしょう。スクナヒコナは、石神とも云われています。諏訪はニギハヤヒの治めていた地で、タケミナカタが左遷された所です。古代、諏訪にはミシャクジ神の信仰がありました。東京都内に石神井公園という駅がありました。シャクジイ公園です。ミシャクジ神は蛇です。三輪山の神も蛇の姿で現れます。つまり、歌の中の神はニギハヤヒです。応神天皇は、名換えによって、蛇―ニギハヤヒの魂が入った天皇となります。ニギハヤヒは、応神天皇の身体を借りて、天皇として生きるのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 02:21:40
魂を三つに分けると云う事は、三というニギハヤヒの数霊です。大神神社の鳥居は、三つです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 02:11:41
ここまで来ると、いろいろ見えてきました。神武東征について行った、久米集団―軍団があります。彼らは糸島の久米の出身であろうと言われていますが、もしかしたら、久留米の地名と関係あるのではと思ったりします。物部氏の家来ですから。それから、高良玉垂神秘書の事ですが、高良大社にニギハヤヒが祀られている事が解ったのですから、ナギサタケウガヤフキアエズノミコトが、おばきタマヨリヒメと結婚し、生まれたのは、カムヤマトイワレヒコ―神武天皇です。嫡男の表筒男尊は、天照皇大神としての日神のすいじゃくです。太陽の神の仮の姿です。次男の中筒男尊は、現実に生きていた肉体のある神武天皇です。この国にとどまりとあります。三男の底筒男尊は、底にかくれた月読み命で、月神のすいじゃく―月神の仮の姿です。タケウチスクネである住吉神が、呪詛により、魂を三つに引き裂かれました。そのそれぞれの魂によって、同じように三つに引き裂かれたニギハヤヒの魂が隠されていると云う意味でしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 01:24:48
ここまで来るといろいろ見えてきました。神武東征について行った、久米軍団があります。地名高良玉垂神秘書
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 00:59:49
古代は、末子継承権と云うのがありました。末っ子が、後継ぎになるのです。 イザナミが、スサノオの軍へ投降した時、養子ではありますが、末っ子の大己貴を連れて行ました。ニギハヤヒも、末っ子で一番若かった為、兄の五十猛が、大和への東征に付いて行ってあげたのです。ホムタワケも、末っ子であった為に、兄のカゴサカ王とオシクマ王に命を狙われたのです。事代主は、タケミナカタの兄ではなくて、義理の弟になります。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-16 00:31:55
高良大社は、封じ込められている裏の神が、ニギハヤヒで、表の神が、タケウチスクネとホムタワケです。 だから、高良の神(ニギハヤヒ)は、十月に出雲へ行かないのですね…。神武東征の折り、高木の神(タカビムスビノカミ)は、道案内の為、ヤタガラスを使いとして差し向けます。三本足のカラスです。三は、三輪山の三。ニギハヤヒの数霊です。カラスは、スサノオを表しています。タカビムスビノカミの力をもらって、かわいい息子を助けに行ったのです。次の三柱の神を、造化三神と云います。アメノミナカヌシノカミは、大地を創りました。カミムスビノカミは、月を創りました。タカビムスビノカミは、太陽を創りました。二ギハヤヒに、あんなに高い所へ上られたら、高木の神は、低い所にいなければなりませんよね。だって、「月が、のぼれば、陽は、しずむ~」
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 23:10:05
松江市草町に六所神社があります。祭神は、天照皇大神と月夜見命が含まれています。元々は、青幡佐久佐彦命が祀られていましたが、中世に丁明神社として移されました。毎年十月になると、全国の神様が、この六所神社に集まってから、佐太神社へ移るそうです。アオハタサクサヒコノミコトですが、青は月の主。幡は八幡の幡。佐久佐は三九三に置き換えられます。三と九はニギハヤヒの数霊になります。神々は、まずニギハヤヒの所へ挨拶に行ってから、息子の猿田彦命の所へ移るのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 21:40:33
二人が名前の交換をして以来、応神天皇として各地の八幡宮に祀られているのは、実際はニギハヤヒの神霊ということになります。スサノオのは、鳥で表すと烏・カラスです。ニギハヤヒは鳥で表すと、「黄金の鷹」です。八幡宮へお参りに行くと、額に書いてある応神天皇の名前が鷹神天皇になっているのに気が付きます。鷹という字を分けると、フルトリの鳥。ニギハヤヒの幼名フル―布留の鳥を表しています。やはり、応神天皇は、神に応(こた)える天皇です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 21:06:51
第二十九代・キンメイ天皇三十二年、光輝く三歳の童子が出現して、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂(ホンダノスメラミコトヒロハタヤハタマロ)なり。我をば諸岡霊験威力神道大自在天菩薩と申す」と託宣して、黄金の鷹に変身して駅館川(ヤッカン川)東岸の松にとまった。鷹のいた所に、鷹居神社が創立。大神比義が応仁八幡宮として祀られます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 20:30:34
八幡神は、古には、スサノオを指します。多くの幡を翻して遠征したという意味です。八と云う字は、スサノオを表す数霊です。つまり、出雲族の数霊です。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の八です。宇佐八幡宮から岩清水八幡宮に分霊する際や、源氏が祈願した際に金の鳩が現れたとあります。鳩は、九と鳥に分かれます。九は、ニギハヤヒの数霊です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 19:56:49
応仁天皇となったホムタワケは、十一歳になるまでは、逃亡生活でした。チュウアイ天皇の子供の香坂王(カゴサカオウ)と忍熊王(オシクマオウ)は、ホムタワケに刺客を送ります。二王の叛乱です。タケウチスクネは、ホムタワケを連れ、地方を転々と逃げました。日本書紀に、「神功皇后摂政十三年の春二月に、タケウチスクネに命せて、太子(ひつぎのみこ)に従いて、角鹿(敦賀)の気比大神―ニギハヤヒを拝みまつらしむ」とあります。神宮皇后は、大きくなったホムタワケを連れ、大和へ攻め入り、二王を討ちます。角鹿で逃亡中のタケウチスクネの夢に、伊奢沙和気大神(イザサワケノオオカミ―気比大神として現れたニギハヤヒが「吾が名を御子の御名に易(か)へまくほし」と言っています。つまり、ホムタワケとの名前の交換を願い出るのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 19:03:38
宇佐は、ニギハヤヒが治めていた時の政庁があった所です。 宇佐八幡宮があり、全国約四万社ある八幡宮の総本宮です。伊勢の神宮に次ぐ宗廟で、わが朝の大祖として、勅祭社に列せられています。神宮皇后は、三韓征伐の勝利祈願の為、朝倉郡三輪町弥栄に大三輪社を創建し、ニギハヤヒを祀りました。皇后は、遠征勝利の後、ホムタワケを産みます。ホムタワケは、十五代応仁天皇として即位します。応仁天皇を手に入れたタケウチスクネの子孫である蘇我氏は、仏教の擁護者となり、ニギハヤヒの子孫の物部氏と対立します。そして、聖徳太子の呪詛の力を借りて、ついに、物部氏を滅ぼしてしまいました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 18:27:21
と、亀(亀甲紋の囲いの封印をした為政者達)が統べった(国)。後ろの正面だ~れ。カゴメ(ユダヤの紋章)―ユダヤ式の呪詛で封じ込められた、カゴの中のニギハヤヒの魂は、表に祀られている神と入れ換わり、この世に解き放たれる時はいつか? 夜昼転換が起きる。恐らくは、破壊と創造が起こるのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 17:34:26
高良大社の神紋は、亀甲の中に木瓜です。胡瓜と間違える方もおられます。博多区の櫛田神社の祭り―山笠の期間、神輿を担ぐ男達は胡瓜を食べません。櫛田神社の神紋が、胡瓜に似ているからです。 正しくは、木瓜―木の瓜―マツボックリです。古代、製鉄には、砂鉄と松(現代のコークスに当たる)が原料でした。武器を作る為です。万葉集では、武士はもののふ―「物之部」と書いてあります。物之部―物部氏です。豊の国(北九州も含んだ福岡県・大分県の宇佐)はニギハヤヒが治めておりましたので、その一族・子孫は物部氏です。水巻の古墳の脇には、製鉄の跡があります。木瓜紋を使った氏族で、代表的なのは、日下部氏、伴氏、紀氏です。という事は、高良大社に祀られている神は、物部氏の先祖神という事になります。出雲大社の中の神社の神紋は、大体が有という字に亀甲です。ニギハヤヒは、月読尊―月神になります。夜の世界の神。古代中国では、あの世―隔り世―かくりよは、黄色の泉があると考えられていました。黄い泉で、黄泉―よみ。黄泉(よみ)の国です。もしかしたら、月読尊―月黄泉尊―ツキヨミノミコトなのかもしれません…。日本の思想では、この世は白で、隔り世は赤色で表します。巫女の衣装を見るとよくわかります。月はニギハヤヒを表しており、月と云う字の上に十を乗せて、有と云う字になります。月読みであるニギハヤヒを、十という字で隠してしまっていますね。隠された神、月読みの尊。有と云う字を二つにわけると、十と月、つまり十月です。神在月―神有月になりますね。モーゼが、神に名を尋ねると、「わたしは、有って有る者」と答えます。在るより有るのほうが意味が近いです。大野城市に大利と云う地名があります。現在はおおりですが、大歳―オオトシを意味しているかもしれません。ニギハヤヒの幼名は布留。少し大きくなって、歳。大人になって大歳。出世して、ニギハヤヒになります。有明海。明けると云う字を分けると、日と月になります。天照大御神という表の魂と、月読尊という隔り世の魂が一つになって、明神になります。次の時代は、これまで隠れていたツキヨミも一緒になり明けるのでしょうか。神社に祀られている神の、その裏に、ニギハヤヒが封じ込められているのです。カゴメカゴメカゴの中の鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に鶴(フルトリの上にワ冠を載せて隠した鳥―布留の鳥)と、亀(亀甲紋の囲いの封印)をした為政者達が統
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 15:02:45
ニギハヤヒは、鳥として祀られます。神社のトリイは、呪詛で、中にいる神を外へ出さない為のものです。二本の柱にカンヌキを通して、中の神を出られなくしています。鳥居と書いて、中に鳥が居るのです。カゴの中の鳥になります。トリイをくぐると言う事は、鳥(正神)をくくる事になります。オオタタネコの曾曾祖母であるイクタマヨリヒメと、若者に化けた大物主の話です。イクタマヨリヒメは、毎夜訪れる立派な若者の子を身ごもります。父母は不思議に思い、麻糸を針に通して、男の衣の裾に指すよう、娘に言います。夜明けに見ると、その糸は、鍵穴より抜け出て、三輪山の神社の所で止まっていました。後に残った麻糸は、三巻きでした。それで若者が三輪山の神でる事が分かります。オオタタネコの話とこの話は記紀にあります。三巻や三輪山の三という数字は、ニギハヤヒの数霊です。言葉は、言霊と云う力があります。注連縄は、三束の麻を巻き付けて作られます。注連縄は、七五三縄とも書きます。三五七なら正しい進み方で、開く方向ですが、正神に出られては困る為政者達が、逆の縄で呪術をかけています。注連縄は、天之磐戸から出て来たアマテラスが、岩屋の中へ戻れないように張った縄でしたが、もし中から出て来たアマテラスが偽者であったなら、中にいる本当のアマテラスは、外へ出られなくなります。神社の注連縄は、ニギハヤヒを外へ出られなくさせる為のものです。封印とは、神社に居る神と、参拝する人間をすれ違わせる装置なのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 13:41:15
スジン天皇の御代、疫病が流行して人民の大半が死んでしまいました。大物主(ニギハヤヒ)が、天皇の夢の中に現われ、「私の子孫である大田田根子を神主にするなら疫病を止めよう」と言います。河内国で見つかったオオタタネコは、三輪山に大三輪神をお祀りしました。スジン天皇は、ニギハヤヒの祟りを恐れ、国中に神鎮めを行う為、116社の神社を創建します。ニギハヤヒの怨霊を呪術師達の手によって封じ込めるのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 00:27:13
クシタマノミコト―猿田彦命は、立派に成長します。日向が出雲を破って、出雲の統治をする事になった時、元々の出雲族は、日向族に反感を持ちます。しかし、両方の血を引くサルタヒコノミコトは、出雲において民主的な政治をします。十月に全国の長を集めて話し合いを持ちました。これが神無月と神在月の云われです。オオナムチだけは、この話し合いに来ないのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-15 00:04:31
日本書記では、クナトノ大神―岐神は中国から入って来た道祖神と習合されてた後、猿田彦命と同一視されます。アイヌ語で、クナトは男性自身を、アラハバキは女性自身を意味します。出雲族の源流は、アイヌ人とも繋がっていたのです。北海道の人間と沖縄の人間の遺伝子が同じような事をニュースでやっていました。中央から侵入民族の血が混ざって行ったのでしょう。さて、クナトノオオカミと猿田彦命と別々の神様とした話です。大己貴が亡くなっ時に、後継者争いが起きました。大己貴とヌナカワヒメの子・タケミナカタは、破れて諏訪へ左遷されました。オオヒルメムチの娘・イチキシマヒメとニギハヤヒの息子が後継者になります。幼いクシタマノミコトの後見人としてオオヒルメムチが王となります。ニギハヤヒは、豊の国(福岡県と大分県宇佐)を治めます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-13 23:46:39
高良大社の神様が10月に出雲へ行かない訳は、他にあるように感じます…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-13 23:46:07
高良大社の神様が10月に出雲へ行かない訳は、他にあるように感じます…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-13 20:10:24
訂正します。今の香椎神宮の神主は、タケウチスクネの三男(出生地河内国)蘇我石川スクネの後裔・石川氏(蘇我本流となり土佐、阿波、津軽、九州に広がる)の御子孫のようです。ついでに書きます。香椎神宮のすぐ近くに、タケウチスクネが掘った井戸があります。不老水と呼ばれ、日本の銘水百選に入っています。タケウチスクネが、チュウアイ天皇に捧げたそうです。その前にタケウチスクネの屋敷跡があり、今も武内さんが住んでおられました。神宮裏にあるチュウアイ天皇の本営跡に、大きな椎の木が繁っています。この木にチュウアイ天皇を入れた棺桶を立て掛け、神宮皇后は、臣下の者と御前会議を開いたそうです。棺桶の中からお香の匂いがしたので、椎の木と香るで、香椎と云う地名になったと書いてあります…。もう一ヶ所の誤りは、アメノムラクモイツセノミコトと書きましたが、間違いで、アメノムラクモイソタケルノミコトです。天業雲五十猛命(むらは誤字)―天イタテ―イタケルです。仏教では、韋駄天になり、奉じた氏族に東北の伊達氏がいます。五十瀬命やヤマトタケルも、五十猛を差しますが、本当の名前ではありません。書き足しますが、藤原氏は、ニギハヤヒの息子・櫛玉命―佐田―太田(出雲名)を、猿田彦としていますが、違うと思います。今まで書いた事は、本で見た事、インターネットで見た事、歴史学者から否定されているような古文書や宗教家の書いた事を、繋いで書きました。ただ単に、人の説を繋いだだけです。私自身が、記紀、続日本紀、旧事本紀、風土記等を直接調べて書いたものではありません。天武天皇は、正しい日本の歴史を後世に伝える為に、記紀の編纂を命じます。氏族や豪族から、先祖の足跡である古文書が集められました。先祖の恥になる血筋に関する事や戦・政争に負けた事を書き残したがる子孫は少ないと思います。時の権力者の思惑に依り、焼却されたり、改竄されてしまったものもあるしょう。面白いこじつけと思って、笑って読んで下さい。
返信する
訂正 (大石)
2013-02-13 07:48:56
安曇宮司の講演は、サンメッセではなくエールピアでした。訂正いたします。
返信する
Unknown (大石)
2013-02-13 07:44:55
コメントありがとうございます。
ぜひお会いしたいです。
私が読むだけではもったいないので、ぜひ久留米地名研究会においでください。
2月17日13時ぐらいから、サンメッセで風浪宮の安曇宮司のご講演があります。お待ちしています。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-13 07:09:44
事代主は、古事記においては、母・神屋盾(木辺に盾)比売、父・大己貴と記されています。多紀理姫の子供ではないかもしれません。本名の伊毘志都幣(イビシツベ)が訛って、恵比寿となったのでしょう。神武四年神武天皇の詔によって、富山県に皇祖之霊皇大神宮が創建されました。初代祭主・ヒメタタライスズヒメ(事代主の娘)から始まり―神八井耳命―研耳命―屋主武雄心命(武雄心親王)―竹内スクネ(五世代続く)―若子スクネ―平群都久スクネ―平群真鳥スクネと続きます。タケウチスクネは、部族の長の補佐をする人の敬称です。古代、部族の長より力がありました。先祖神の神託を伝え、戦において、一族を勝利に導く事が出来る霊能力者です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-11 18:39:02
総廟ではなくて、宗廟でした。失礼致しました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-11 18:17:54
事代主の娘(姉)ヒメタタライスズヒメは、神武天皇―ニギハヤヒの皇后となり、もう一人の娘(妹)イスズヨリヒメは、二代目の天皇・スイゼイ天皇の皇后となります。事代主の孫である鴨の王(カモノキミ)、の娘・ヌナソコナカヒメ(阿久斗比売)は、三代目の天皇・安寧天皇の皇后となります。記・紀での違いはありますが…、八代目の天皇・孝元天皇の子―彦太忍信命の子―屋主忍雄武雄心命と山下影姫の間に出来た子が、タケウチスクネです。タケウチスクネは、スサノオ・クシナダヒメ・カミオオイチヒメ・オオヒミコムチ・大己貴の血を引いているのです。高木の神は、タカミムスビノカミです。アメノオシホミミの妻の父で、ニニギノミコトの祖父になります。高良大社は、名実ともに、天皇家の総廟と云えます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-11 01:59:06
全国の神社の中で、変わった拝礼作法をとる神社が、二つあります。「二礼四拍手一拝」四拍手は、死拍手で、霊を封じ込める意味ものです。何処の神社かと言いますと、出雲大社と宇佐八幡宮です。出雲大社の創建は、奈良時代初頭霊亀二年・716年です。古事記の完成が、712年で、日本書紀が、720年です。大己貴が亡くなって800年も経った後です。 大己貴には、諡号がありません。死んでも、戒名がないのと同じです。大己貴と、大日霊女貴の娘・多紀理姫との間に出来た、伊毘比志都幣―事代主は、玉櫛入彦厳之事代主と云う諡号があります。大己貴は、最初、日向族のイザギ・イザナミの養子になり、次は、出雲族のスサノオの養子になり、最期は、同じ日向族に、命を奪われました。大日霊女貴も、記・紀の中では、天照大神と書かれありますが、伊勢神宮で祀られているのは、ニギハヤヒで、実際には、祀られていないのです。死んでしまえば、相身互いでしょうね…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-10 23:59:34
魏志倭人伝に、邪馬台国は、丹を産すると記されています。しかし、日本書紀・古事記は、丹生都比売を黙殺します。丹の神である丹生都姫神社の祭神は、天野明神と呼ばれ、農耕の神・水の神としても、庶民に親しまれました。この後、丹生都比売である豊受姫神は、豊受大御神として、伊勢神宮の下宮に祀られます。内宮には、その祖父である天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ尊が、天照座皇大御神―天照大御神として祀られます。奈良県の石上神宮の祭神は、ニギハヤヒ・スサノオの父・スサノオです。ニギハヤヒの命日である11月22日には、毎年鎮魂祭が行われます。皇居でも、同じ日に、鎮魂祭を行います。鎮魂をするという事は、祟りを恐れているから、鎮魂する訳です。和歌山県には、五十猛を祀った伊太祁曽神社があります。同県の安原に、武内神社や、タケウチスクネ誕生の産湯の水を汲んだ、井戸があります。又、佐賀県の武雄市に、武雄神社があり、タケウチスクネの誕生の地とする、云い伝えがあります。紀伊ノ国は、紀氏が治めていました。タケウチスクネは、紀氏の祖先です。古事記では、ヒコフツオシの信の命が、木の国造の祖である宇豆比古の妹・山下影姫をめとって生まれた子が、タケウチスクネとなっています。日本書紀では、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロ命が、紀の直の遠祖・ウヂヒコの娘の影姫をめとって、タケウチスクネが生まれたとあります。 福岡県の小郡市力武に、竈門神社があります。主祭神は玉依姫で、副祭神は、山下影姫です。小郡市誌史に、高良玉垂宮の母宮山下影姫とあります。そして、山下影姫の神廟であるとも伝えています。又、この神社の境内は大きい古墳であったともあります。山下影姫は、九州の出身だったのかもしれません…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-09 17:00:27
スサノオとオオヒミコムチの間に出来た市杵嶋姫―狭依姫は、身体が依代になる姫で、シャーマンです。先祖の魂が依り来る姫―シャーマニズムの継承者です。玉依姫と云います。玉依姫を祀った神社が多いのは、そこに祀られる一族のシャーマンを祀っているからです。これは、名前ではありません。スサノオと神大市比売との間に出来た子―ニギハヤヒに、櫛玉命―太田―佐田という名前の息子がいます。この櫛玉命が、狭依姫をめとって生まれた子が豊―豊受姫神―稚日女尊―丹生都比売―ミツハノメノカミです。この神様が、ヒミコの跡目を継いだ豊です。五十猛尊と結ばれます。丹生族に担がれ畿内へ登って行きます。紀伊や吉野を拠点として、和歌山県伊都郡旧天野村の丹生都比売神社に鎮座。糸島市の伊都から来たので、伊都郡で、天疎日向津毘売尊の後継者―天孫族・日向族(ひなたぞく)なので、天野村なのではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-09 15:35:47
女の天照は、ツキサカキイツノミタマアマサカルヒニムカイツヒメです。オオヒミコムチノミコト。漢字では、大日霊女貴です。大国主の別称である大己貴は、名前の前と後ろに大と貴の文字があります。名前に付け字をして、実の名前を分かりにくくするものです。大己貴は、実の名は、己になります。コトと読み、又は事と書くのでしょう。後継ぎは、親の名前をもらいますから、息子は、事代主で、事の代わりをする人間という意味です。大日霊女貴は、大と貴の文字を除けば、日霊女―霊女―日+雨冠に妾と書きます。ヒミコです。イザナギ・イザナミの娘であり、天照であり、卑弥呼です。オオヒルメと読ませて、解らなくして来たのです。スサノオと神大市比売と間に出来た子供は、大年―ニギハヤヒとウカノミタマですが、一人の人間を表しています。生まれたのは、ニギハヤヒだけです。これも呪詛です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-09 09:23:40
スサノオとクシナダヒメの間に出来た子供に八島野尊とありますが、八嶋士奴美尊とも云います。この神様は、猿田彦尊―クナトノオオカミで、古代出雲族―オロチ族の祖神です。イザナギ尊とイザナミ尊の間に出来た長男です。後から、藤原氏に付け足されたのです。古事記においては、ヤシマジヌミはコノハナチルヒメをめとって、フハノモヂクヌスをもうけます。フワノモヂクヌスは、ヒカワヒメをめとって、フカフチノミズヤレハナノカミをもうけます。フカフチノミズヤレハナノカミはアメノツドヘチネノカミをめとって、オミズヌノカミをもうけます。オミズヌノカミはフテミミノカミをめとって、アメノフユギヌノカミをもうけます。この神がサシクニワカヒメをめとって、大国主―大己貴をもうけます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-08 20:19:57
先日の書き間違えました所を、訂正させて頂きます。申し訳有りません。ホホデミノミコトとアメノオシホミミは異母兄弟ですと書きましたが、同母兄弟の誤りです。また、ヒコホホデミノミコトはニニギノミコトの叔父にあたりますと書きましたが、弟にあたります、の誤りです。ウガヤフキアエズは、その又、弟になります。ここで云う所の天照は、オオヒミコムチノミコト―天疎向津比売尊を指します。イザナギ・イザナミの娘です。アメノオシホミミとアメノホヒの二人を連れて、母親のイザナミと共に、敵方のスサノオへ投降しました。スサノオの妻となり、タギリヒメノミコト・タギツヒメノミコト・サヨリヒメノミコト・天津日子根尊―ニニギノミコト・活津日子根尊―ホホデミノミコト・熊野楠日尊―ウガヤフキアエズノミコトを産みました。アメノオシホミミとアメノホヒの実父は不明です。ニギハヤヒノミコト―大年―神武天皇とウカノミタマノミコト―ミケツ姫は、スサノオと神大市比売との間に出来た子です。八島野尊・五十猛尊・大屋津姫尊・ツマツヒメノミコト・磐坂彦尊・須世理姫尊は、スサノオとクシナダヒメの子供です。ニニギノミコトの墓と思われる吉武高木遺跡の高祖山連峯の裏側―糸島市側にある遺跡群は、ニニギノミコトの弟達の墓なのかもしれません…。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-08 11:41:34
高良大社末社の伊勢天照御祖神社に奉ってある神様が、伊勢神宮の神様です。天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒノミコトです。久留米市大石町にある伊勢天照御祖神社と同じ神様ですが、高良大社末社の方は単に天照大神となっています。奈良県の三輪山の神は大物主です。大神神社は、三輪山を御神体とする神奈備型で、在るのは鳥居だけです。御祭神は大物主―ニギハヤヒノミコトです。配神はオオクニヌシとスクナヒコナです。大物主とオオクニヌシは、同一視する場合もありますが、違います。ニギハヤヒが、神武天皇です。伊勢神宮を建てたのは、天武天皇です。襲名タケウチスクネの血は応仁天皇から武烈天皇まで続き、武烈天皇に子供がなかった為に、初代タケウチスクネの弟である、タケミナカタの子孫オオドを、越の国から連れて来て、継体天皇にしました。なんとか血を継いだから、継体天皇でしょう。ところが、百済系の血を引く中大兄皇子と藤原氏に、襲名タケウチスクネの子孫の蘇我本家は滅ぼされました。天智天皇から弘文天皇まで百済系。そして、天武天皇で、出雲族の血に戻りました。祟神天皇は、カムヤマトイワレヒコです。 崇神天皇は、女の天照が先祖です。伊勢神宮に祀られているのは、男の天照です。天照様はたくさんおられます。持統天皇は、臣下の者が止めるのを振り切って、伊勢神宮へ参拝しました。回りの反対により、その後の天皇から、1000年近く、伊勢神宮への参拝はありません。明治天皇からの参拝です。天武天皇は、ニギハヤヒ―神武天皇を祀る事で、先祖のオオクニヌシを死に追いやった姫神・天照の子孫である崇神天皇と、自分の血は違うという事をアピールしたかったのではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-06 21:40:08
丹生都比売神は、水銀の神様で、水―みず、銀―かねになり、水銀の神。みずかねのかみ。丹生都比売命は、水の神様とも云われるのでしょう。高野山は、丹生都比神を奉ってあります。弘法大師は、秦氏の援助で留学出来ました。又、水銀を取る技術も持っていました。高野山を開いた理由もここにあるのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-04 02:26:55
和歌山の丹生都比売神社の由緒には、播磨風土記に神功皇后が新羅へ出兵の折り、丹生都比売神―ミツハノメノカミの託宣で、舟・武具・衣服を朱色にした所、戦いに勝ったので、これに感謝して応仁天皇が社殿と広大な土地を社領として寄進したとあります。味水御井神社では、祭りに赤ふんどしを締めるのは、丹の神様だからではないでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-03 22:29:37
天孫降臨の話は、宮崎県の高千穂ではなく、福岡県の高祖山連峯です。筑紫の日向の高千穂の櫛触峯―ちくしの、ひなたの、たかちほの、くしふるたけ。糸島市と福岡市の境です。日向峠、日向山、高祖山の隣に櫛触山があり、福岡市側に日向川が流れ出して、室見川と合流しています。この地帯が日向地域です。日向・ヒムカではなく、日向・ヒナタです。この場所に吉武高木遺跡遺跡があります。最古の王墓で三種の神器が出土しています。ニニギノミコトの墓の記述にある通り、筑紫の日向の可愛―筑紫の日向の河合です。 室見川を下り海に出た西側に、小戸という地名があります。イザナミ尊がみそぎ払いをした小戸のアワギハラです。 糸島市側は、三雲南小路遺跡、平原遺跡、井原遺跡があります。吉武高木遺跡から、東へ進んだ春日市にスグオカモト遺跡があります。これらは、弥生王墓群で三種の神器が出土しました。天照は、ニニギノミコトに三種の神器を与えて降臨させました。糸島市側の高祖山―たかすやま―西側に高祖神社があり、ヒコホホデミノミコトを祀ってあります。この場所が、ヒコホホデミノミコトの墓でしょう。古代出雲族は、神奈備型ですから、高貴な人間が死ぬと、遺体を籠に入れて、杉や檜に三年間吊るしてからその山に埋めました。山そのものが、墓になります。出雲地方には、古墳が出土しないのはこのためにです。アメノホヒとアメノオシホミミは両親が同じ兄弟です。ヒコホホデミノミコトとアメノオシホミミは、異母兄弟です。藤原氏のつくった歴史では、天照―アメノオシホミミ―ニニギノミコト―ヒコホホデミ―ナギサタケウガヤフキアエズ―カムヤマトイワレヒコになっています。しかし、ヒコホホデミノミコトはニニギノミコトの叔父にあたります。天照と天皇は繋がりません。天照の子であるアメノオシホミミの妻神の父は、タカミムスビノカミ―高木ノ神です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-03 00:08:56
高良大社の御祭神は、タケウチスクネ、襲名タケウチスクネとその子ホムタワケノミコト―応仁天皇、ニフツヒメノカミ―ミツハノメノカミです。味水御井神社の御祭神は、ミツハノメノカミ―ニフツヒメノカミです。きっと、両社を建てたのは秦氏でしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-02 23:11:25
スサノオノミコトは、ヤマタノオロチを退治してアメノムラクモの剣を手に入れました。これをもらったのがその長男のアメノムラクモイツセノミコト―ヤマトタケルです。妻神は丹生都比売神―ミツハノメノカミです。イツセノミコトは日本中に木の種を蒔きました。紀伊国は木ノ国でこの神様と縁があります。水銀の事を辰砂や丹と云います。丹の字の付く地名は、鉱山を指します。丹生、丹後、丹波、丹土。九州から関東にかけて断層の中央構造線にそって点在しています。 採掘に携わっていたのが、丹生氏。奉っていたのが丹生都比売神―ニフツヒメノカミです。丹生氏は、紀伊国を中心に各地を探索していました。丹は、神武東征の目的のひとつでしょう。仏教文化の流入により、仏像の鋳造で水銀の需要が増え、後から渡来して来た秦氏に、採掘技術の面で取って代わられたのかも…。秦氏は、ニフツヒメノカミを奉じました。これが元の八幡神です。比売神です。出雲系であるタケウチスクネと神宮皇后が、敵対する百済系のチュウアイ天皇を暗殺して、不倫でつくった子をチュウアイ天皇の子と偽って育てます。これがホムタワケノミコト―応仁天皇です。大和にいるチュウアイ天皇の実子から守る為に、宇佐八幡宮を奉る秦氏に、ある程度ホムタワケノミコトが大きくなるまで育ててもらいました。香椎神宮の神主は、タケウチスクネの子孫で、代々、武内姓です。殺した相手の怒りを鎮める為に子々孫々祀っているのです。八幡神は比売神から応仁天皇になって行きます。比売神の前は、秦氏の先祖神です。京都の大酒神社の祭神は秦始皇帝です。映画村のある太秦は秦氏族がたくさん住んでいました。建築技術に優れており、多くの神社や寺を建てました。徐福が渡来の時に連れて来た人間は、秦という字や、羽田や畑中などの、ハタ…という名字を使いました。長曽我部氏も秦氏流ですが、蘇我氏の流れだという人もいます。民主党のはたつとむ議員は、秦氏流で日本徐福の会の会長でした。藤原氏は、アマテラスに天皇の歴史をつなげておきたいので、記記には、ニフツヒメノカミは現れません。和歌山県伊都郡の旧天野村に丹生都比売神社があります。丹生の名のつく神社は、和歌山県で80数社、全国で200社以上です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-29 00:03:18
ありがとうございます。
返信する
Unknown (大石)
2013-01-18 08:22:00

丁寧なコメントありがとうございます。
タケウチスクネの謎は天皇家の謎だと、私も思います。
が、私にはちょっと難しく頭がウニです。@@
久留米地名研究会では、多くの会員が、古代史の研究をしています。2月は風浪宮の安曇宮司のお話を聴く事になっています。よかったら参加されませんか。
また、タケウチノスクネについてでも他の事でもいいですが、ご講演をされませんか?
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-17 19:47:39
タケウチスクネの謎は、天皇家の謎とも云えるのではないでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-17 19:41:45
先程の書き間違えました所を訂正させて頂きます。祟神天皇は、古事記ではハツクニシラスミマキ天皇で、日本書紀ではハツクニシラススメラミコトです。神武天皇は、古事記では、カムヤマトイワレヒコで、日本書紀では、祟神天皇と同じハツクニシラススメラミコトです。失礼致しました。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-17 11:22:23
 タケウチスクネは、孝元天皇の孫です。スジン天皇とは従弟になります。 雄略天皇の御代、襲名タケウチスクネの一子石川麿が蘇我姓を名乗ります。二代目満智に世継ぎがない為に、百済から人質となって渡日した林聖太子の孫を養子に入れたのが蘇我韓子です。韓子は、宮中に勢力をはり、朝鮮系統随一の官吏となりました。じらい、朝廷は仏教思想の移入により、異人の投入と共に仏教勢力の蔓延る所となりました。この蘇我氏をクーデターで滅ぼした藤原氏にとっては、蘇我氏を大悪人に仕立てて自分達を正義とする偽りの歴史を創り上げる必要があったのです。オロチ族―出雲族系統のオオクニヌシ、タケウチスクネ、蘇我氏というのは、天照系統のヒコホホデミの血を引いたスジン天皇を正当な天皇とする為には、邪魔な存在なのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-17 05:49:11
サルタヒコの子孫のアメノフユギヌの子がオオクニヌシ。部族の長の子であるオオクニヌシは、イザナギ・イザナミの侵略により、征服した側の養子になります。イ・イは、筑紫を平定して糸島市高祖山裾に根をおろします。スサノオは、出雲族を攻め従えた後に鉄器を持って、イ・イ一族は青銅器を持って、はげしく衝突します。鉄器に勝ち目がないと判断したイザナミは、イザナギに断りなく、養子のオオクニヌシを連れて、スサノオに和睦を申し入れに行きます。イザナミは幽閉され、オオクニヌシは、スサノオの娘のスセリヒメと一緒になり、スサノオの後継ぎとして出雲族の長になります。負けたイザナギは死にます。身の危険を感じたオクニヌシは、スサノオの血を引く義理の兄達を、離れた土地へ追いやります。こうして出雲族は全国へ散らばります。安日彦とナガスネヒコは大和をおさめました。そこへ、スサノオの長男天業曇五十猛と大年は攻め上ります。安・ナは東北まで下がります。勝った大年は神武天皇になります。共に攻め上った兄はヤマトタケルの事です。つまり、神武の兄の五瀬命です。 津軽で力を蓄えた安・長は、猿田彦―クナトノオオカミ―の一族の子孫と統合混血族アラハバキ族の長となり、大和を攻めます。孝昭天皇・孝元天皇はアラハバキ族系の天皇です。ここへ、イトコク―糸島市―から、スサノオの息子のヒコホホデミの子ナギサタケウガヤフキアエズの、その又子供のカムヤマトイワレヒコが攻め上って来て、スジン天皇になります。 神武天皇も、スジン天皇もハツクニシラスミマキ天皇と呼ばれ同一人物と勘違いされます。スサノオの妻の一人―天照の系統の天皇が即位となります。アマテラス系の義理の兄に、オオクニヌシは滅ぼされました。スジン天皇の御代、オオクニヌシの祟りで、国内に疫病が蔓延し、多くの民が死ぬ未曾有の危機がありました。三輪山にオオクニヌシを祀って魂をしずめました。それで名前が祟りという字をつけた祟神天皇になります。藤原氏は、天照系天皇を正当化する為の歴史書を編纂するのです。正しい所もありますが、偽りもあります。記・記だけに、とらわれると正しい歴史が見えなくなるのではないでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-11 06:04:15
藤原氏は、自分の先祖をアメノコヤネ―祝詞をつくった神にしている。これでは、不安になり、タケミカズチという神をつくって、それを先祖として祀っていた。藤大臣は、藤原氏をさす。藤原氏は、オオノヤスマロ―多氏を先祖―と共に記記の改竄、編纂した、日本の歴史を書き換えた外国人です。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-11 01:15:23
クナトノオオカミの妻はアラハバキです。荒木神社の名前もアラキ―アラハバキからきているのでは?祭神は、サルタヒコノミコト、タケウチスクネ、葛城襲津彦命―タケウチスクネの子孫。ホムタワケノミコト―応仁天皇―タケウチスクネの子供、ウカノミタマノミコト―オオクニヌシの義理の兄―スサノオの息子、大日貴命―天照―スサノオの妻神です。神紋は笹りんどうです。笹りんどうの紋は源義経の紋です。義経は鞍馬寺で育てられました。鞍馬寺はサルタヒコノミコトを祀ってあります。このような繋がりから、感じ取って頂くしかありません。私も所詮、人の説の受け売りです。すみません。高良御子神社の九体王子の話しは、デタラメな話をつくってタケウチスクネの子孫がわからなくしているのでしょう。これも呪詛のようなものです。タケウチスクネの霊廟を汚しているのです。古事記は、藤原不比等に改竄され、新たに作られた日本書紀は、中国系百済人の藤原氏を天孫族の子孫のように書かせています。正当なのは、シラギ・出雲系天皇です。タケウチスクネの子孫の蘇我氏を殺した藤原氏は、百済系チュウアイ天皇を殺して出雲系神宮皇后と不倫して応仁天皇をもうけた、タケウチスクネが憎いのでしょう。蘇我氏の名前の由来は、我、蘇りけり。タケウチスクネを祭神としてきた高良大社に、書記完成の720年前後、朝廷から圧力がかかり、祭神をタマタレノミコトに書き換えさせられたのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-10 23:52:46
古代出雲族は、先祖神がクナトノオオカミで出雲大社の出雲井神社に祀るられております。別称はサルタヒコノミコトです。50代ありました。次がオオクニヌシで17代。クナトノオオカミが、一族を連れ、東北から少しずつ移動して出雲へ来ました。そして、出雲において王となりました。最後のオオクニヌシの代で、天孫族のスパイのアメノホヒに騙されました。祭司権を奪われて国譲りをさせられした。現在の出雲大社の国造家はアメノホヒの末裔です。オオクニヌシの祟りを恐れて、名前をバラバラに分けて呪詛をかけました。オオクニヌシ神、オオナムチ神、アシハシコオ神、ヤチホコ神、ウツクシクニタマ神。 荒御魂、和御魂、奇御魂、幸御魂。さらに、此を分ける事も出来るのです。 サルタヒコノミコトは、ソコドクミタマ、ツブタツミタマ、アワサクミタマ。海で溺れて死ぬ時の名前です。住吉神社の神は、ソコツツノオ、ナカツツノオ、ウワツツノオ。この神は、タケウチスクネの事です。コトシロヌシは国譲りを強要され、天孫族に呪いをかけながら海へ沈んでいったのです。武内スクネの別称は建内スクネ。タケミナカタは建御名方トミノミコ。オオクニヌシが養子に入った義理の父が建速スサノオノミコト。内朝臣、うちのあそ=内宿ね、うちすくね。武・ウチスクネ。一種の尊称。タケウチスクネの異母兄弟の弟に甘美ウチスクネ、ウマシウチノスクネがいます。北九州市に旗頭神社があります。祭神は、タケウチスクネ、志賀三神、住吉三神、オオクニヌシ、コトシロヌシです。内の大臣―うちのおとど―を総大将とした武内スクネ水軍の一大拠点がここにありました。そこの部族の長の補佐をする人の敬称です。武人の頭である補佐官がタケウチウチスクネ。ヤマトタケルは、大和の国の武。畿外の人からすれば、ヤマトの武がヤマトタケル。卑弥呼も、ヒミコ―日ノ巫女―日輪の位の周波数を使って、神と話しが出来る巫女の事。一つの部族に必ずこういう巫女がいた。古代は、霊能力の高い巫女が産まれて来ないとその部族は滅びたのです。ヒミコという言葉だけを捜しと、日本中あちこちででてくる為、畿内説や九州説が生まれるのです。埼玉に高麗神社があります。祭神は、サルタヒコノミコト、タケウチスクネで、後に高麗王若光という高麗人の首長を合祀してあります。サルタヒコノミコトとタケウチスクネは縁が深いのです。 須智荒木神社の話しです。クナトノオオカミの妻アラハバキです。通称白髭明
返信する
Unknown (大石)
2013-01-08 23:52:01
タケシノウチノスクネと、コトシロヌシノオオカミが
同一だという事を、もう少し聞きたいです。教えてください。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-07 03:54:18
そうです。兄弟です。タケシウチノスクネ名は、代々襲名制で、三百年も生きたというのは誤りです。神宮皇后の家臣の頃は、高良大社の辺りが本拠地だったようです。初代のタケシウチノスクネは、天孫族から国譲りを迫られ、いなさの浜で、抗議の自殺をするのです。美保神社はこれを祀っています。ここの神事は、タケシウチノスクネの自殺した事を表しています。子孫にとっては、観光客に見せるようなものではない悲しい神事です。父のオオクニヌシも天にそびえる出雲大社をつくって祀ってもらう事を条件に自害して果てます。タケミナカタは、諏訪まで行って再起をはかります。長野の地元の部族をほろぼしてしまいます。武人から戦いの神様として信仰されました。 古代出雲族は、竜蛇族―オロチ族です。諏訪神社では、冬眠しているカエルを串刺しにして神前に供える神事があります。また、今は剥製ですが、昔は鹿の首を神前に供えていました。長崎のおくんちは諏訪神社の祭りで、蛇踊りです。初代タケシウチノスクネは出雲族の水軍の長で、漁が得意でした。平安時代になると、タケシウチノスクネは恵比寿になります。恵比寿様は釣り竿と鯛を持っていますね。オオクニヌシは大黒様になります。この方は別ですが、オオクニヌシの妻のスセリヒメは弁財天になります。弁天様は海の中や池の中に祭られていますね。海に関係する所の神様は出雲族の系統です。 古代、神というのは、部族の長を表します。全国に散らばった出雲族の神が、10月に島根へ収穫の報告に行きます。収穫の悪い所へは豊作だった所から助けてやりました。これが、神在月や神無月の意味です。出雲族は、国津神。命を奪った側の天孫族は天津神。二つ部族の神々をきちんと奉らないと古代政治―政事ーまつりごとはうまくいかなかったのですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-05 20:26:14
そうだったのですか?だから出雲に行かないのですね。タケミナカタノオオカミは、タケシウチノスクネと兄弟なのですか?またいろいろと教えてください。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-03 21:09:48
御祭神が、タケシウチノスクネ、つまりコトシロヌシノオオカミで、出雲大社のオオクニヌシノオオカミの長男だからです。長野県の諏訪神社のタケミナカタノオオカミは弟の神様で、この神様も同じく10月に出雲へ帰りません。
返信する

コメントを投稿

久留米地名研究会」カテゴリの最新記事