ふーだお通信

2010年までは中国での生活日記。2010年以降は福島(中国語でfudaoと発音)での事。

ものさし

2006-11-05 15:33:43 | こども関係(~2010年3月)
先日の補習校、蘇州日本人学校から先生方がいらした。
授業の合間の1時間程、私たち保護者との懇談会でいろいろお話を伺い、考えさせられた。

私たち親は、日本に帰った時に困らない学力を、と求めがち。しかし日本人学校でもなかなか難しいのに、現地校やインター校に通っている場合はまず無理な話だという。
では、日本に帰った時に困らない学力、というのは何か?それを計る物差しとして、基準がいろいろある訳で、その一つが例えばテストで何点とれるか、という事になる。

しかし、それはある方面である基準まで達しているのかを調べるだけの物差しであって、テストで何点とれるかが目的なのではないという。

では目的は何か?というと、いったい何だろう??

良い成績を納めなければ、受験がうまくいかない。良い成績でなければよい高校・大学にはいけない。
しかし、日本のレベルの高い大学に入るのが目的なのか?そこから先は?

今の社会、大学に行って大きな会社に入ったからといってそこで一生安泰という訳ではもちろんないのだが、大学に入った方が職業の選択も幅が広がるし、専門的な分野の勉強ができたりするので、大学に行くというのは一つの目的ではあるのかもしれない。でも、それは日本以外でも可能。

でも、日本人である限りはどこかで学校の評価、日本の社会の中の評価、会社の評価などを受ける機会はある訳で、評価をするには物差しがあって、それは日本の観念の中でだいたい決まっていて、それでいったら海外で日本の教育を受けていない子ども達はすでにそこからはずれているらしい。

しかし、物差しにどうしても合わせなくてはいけないのだろうか?
結果として、子ども達が大人になった時に社会に役に立つ人間になり、幸せだと感じる人生を送れればそれでいいのだから、途中の段階の物差しにそんなに左右される必要はないのではないか。

物差しがテストの結果や、途中で入る学校での評価なのだとしたら、それで自分はダメなんだと思う子どもではなく、自分は自分だと、少数派の自己を肯定できる強い心を持ってほしい。

そうなのだ。我が家はすでに日本の物差しでは測れないのだから、日本のレベルをあまり気にしていても仕方ない。

それから母国語は何か?という話で、バイリンガルを目指しても、セミリンガルで終わってしまう中途半端な子どもは、物事を深く考える事や分析する事が苦手、という。
家庭の中で、子どもの教育方針をどうするのかという事をしっかりしていかないと、すべてが中途半端なまま。
それから、親の思惑とは別に、子どもがそれを受け入れなかったら言葉は身につかないという。

幼稚園から現地校やインターに通わせている保護者の中で、話を聞いた後、日本の子と同レベルの日本語を期待するなと言われて、もううちはここにいる間は日本語は話せればいいかと思った、という人もあり。
私自身も、甘かったか、と思い知らされる。1年生の今はまだいいが、これから2年、3年と学年が上がっていくにつれ、子ども達に日本語で考えるより中国語で考える方が楽だと言われてしまうのだろうか。

そりゃ、日本の子と同レベルの日本語力は絶対無理だと思うけど、私が子ども達に望むのは、日本語にしても中国語にしても、本を読んで自分で調べたり考えたりする力をつけてほしいという事かな、と思う。
学生のうちだけが勉強ではないのだから。日本語力がその学年相当ではなくても、いつでも勉強したり調べたりする姿勢を持ち続けていてくれれば、きっと道は開けてくるのではないかなあ。

と、今は思うのだが、数年後の私はどう思っているのだろうか?


コメント (2)
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