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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

畠山重篤 牡蠣養殖100年 汽水の匂いに包まれて マガジンランド

2020-11-08 22:00:41 | エッセイ
 畠山重篤氏の新しい著作は、JF共水連(全国共済水産業協同組合)発行の隔月誌「漁協の共済」に2001年4月から2019年6月まで連載された110編のエッセイをまとめたものである。「森は海の恋人植樹祭」は、1989年(平成元年)の第1回以来、30回を超えて開催されている。平成に改元し13回目の開催を控えた時期に、このエッセイの連載開始、平成31年から令和元年となった節目の年の6月までのものをまとめたという。平成の天皇陛下、特に皇后陛下の「森は海の恋人」運動への関心と、重篤氏との交流を顧みたとき、終わりの節目は意図されたものだろうが、始まりの偶然は天からの恵みとすらいうべきだろう。この符合は偶然であるには違いないが、今となってみればひとつの必然でもあったに違いない。
 連載の初回、重篤氏は、カキ養殖業の家業を継いだばかりのころの記憶を書きとめる。

「私が四十年前、気仙沼水産高校(現・気仙沼向洋高校)を卒業し、父の跡を継いだころの海は、実に豊かな海でした。カキも一年で大きくなり収穫できましたので漁場の回転もよく仕事も楽でした。」(9ページ)

 氏は、1943年生まれ、高校卒業の18歳というと、1961年、昭和で言うと36年、東京オリンピックが1964年であるから、日本の高度成長が始まったころのことである。ちなみに私は1956年生まれで、5歳のころ、小学校に上がる前である。氏とは13歳違うことになる。

「当時は、ノリも養殖していて、真っ黒なノリが網を覆いつくすように育ちました。夏は仕事が一段落します。「湯治に行って塩っ気を抜いでくっか」などと家族そろって花巻や鳴子の温泉で一ヶ月近くのんびりしたものです。
 しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。東京オリンピックの頃を境に海がおかしくなってきたのです。
 水面に網を張って養殖するノリにまず変調が表れだしたのです。黒いノリが白くなってしまう白腐れ病。ドロドロとした気味悪い赤に変わってしまう赤腐れ病などが続出しました。」(9ページ)

 これは、もちろん、東北の片隅の小さな港町のひとつの湾に限定された話ではない。

「有明海の例もそうですが、原因が陸側にあることは紛れもないことです。」(10ページ)

 日本の高度経済成長、産業経済の驚くべき発展は、国民の生活に大きな進展をもたらし、敗戦前のレベルに追いつくどころではなく、日本という国に史上空前の繁栄をもたらした。しかしそれは、プラスの成果のみを生んだわけではなかった。負の結果をも生み出したわけである。

「海の汚れも目立ってきました。秋口になり北西の季節風が吹き出すと、水産加工場の排水に含まれる油が固まった「ベト」と呼ばれるものが唐桑の漁場の方にも流れてきました。当時は排水規制はなく、文字通り垂れ流しの状態だったのです。」(10ページ)

 大正時代頃から、動力船漁業の進展で成長してきた気仙沼のまちでも、マグロ、カツオ、サンマなどの水揚げ増加のなかで、水産加工業も発展、多数の小さな工場が稼働し、生鮮魚の水揚げのみならず加工品の生産、移出によって、大きな経済力を有するに至った。しかし、生産力第一主義のなかで、加工場からの排水による海の汚染までは、気が回らなかった。
 故意に汚染された排水を垂れ流した、というわけではないだろう。
 もともとの自然の浄化力は優れた大きなものであったが、いつのまにか人間の行為が、自然のスケールを超えてしまいつつあった、だれもそのことに気づいていなかったというべきである。
 もちろん、当時、四日市とか、あるいは水俣とか、大きな工場の生産活動に伴い大気や海が汚染され、人間の生命が脅かされる事態となり、いわゆる公害が大きな社会問題となって、世の人びとも、そこに巨大な問題が存在することにいやでも気づかされる状況となった。
 リアス式海岸の気仙沼の小さな湾でも、自然の営みと人間の活動の相克は明らかとなった。湾の一番奥の地域に住む気仙沼の町の中心部の住民も、もちろん、湾の汚染の深刻さに気づき始めていた。自らの生活排水の影響も含んでのことである。
 そういう流れの中で、「森は海の恋人」運動も生まれ、成長し、持続してきた。カキの養殖業者が、自然の問題を発見し、海から遠い山に着目し、広葉樹を植える運動を始めた。
 この気仙沼に、この運動が生まれたことは、とても重要なことである。素晴らしいことである。このことの意義はいくら述べても言い過ぎることにはならない。
 1973年から93年まで、5期にわたって気仙沼市長を務めた菅原雅は、市長としての自らの実績として、常々、下水道事業を開始したことを語っていた。市役所の職員であった私自身、市長の口から繰り返し聞いている。市長は新月ダムの問題については、重篤氏と対立する立場であったが、湾の浄化という問題については、同じ問題意識を共有していたとはいえるわけである。下水道事業の進展と、個別水産加工場の浄化装置の国の補助事業による整備という国、市の施策によって、湾内の浄化は大きく進んだ。物理化学的な意味合いで浄化は、下水道事業の進展に負うところが大きいというべきだろうと思う。川の上流に広葉樹の植樹が進んだから、水が浄化されたわけではない。ここは、短絡的に誤解されてはいけないところである。しかし、だからといって「森は海の恋人」運動の意義が低下するわけではない。
 森と川と海との連携のなかに、この気仙沼湾があり、漁業があり、人間が居住する町ができた、という大きな自然の連関と人間社会の歴史を発見し、言葉で表現した。新月ダムの着工がなかったことも、その大きな思想の中の出来事であるし、下水道の整備も同様である。町の人びとも、現在は、「森は海の恋人」の意義に気づき、誇りにすらしている。いったん、外の人びとの発見と評価があってはじめて、市内の人びとの大方も発見した、という道筋にはなるのだろうが。(念のため言っておけば、新月ダム事業の撤回については、より直接に「森は海の恋人」運動の結果であったと言っていい。)
 初回の「血ガキの海」の海洋汚染の話から始まって、フランスの豊かな海と広葉樹の森の視察、幼いころの海辺の暮らし、森の歌人熊谷龍子さんとの出会いと「森は海の恋人」の命名のこと、北大水産学部松永勝彦さんの、腐葉土により生まれるフルボ酸鉄の話、スペインの本家リアス式海岸への巡礼と広葉樹の森とホタテ貝の話、京都大学地域連携教授のこと、天皇、皇后両陛下との交わり、舟の魯に使う広葉樹・梓のことなどなど、これまでの重篤氏の著作で慣れ親しんだ事柄に、再びここで出会い直すことができる。つまり大筋は、これまでの著作ですでに書いてあることである。しかし、具体的なエピソードは、これまでに触れられなかった部分もあり、別の切り口で語られ、なによりも、重篤氏の深い思いと熱のこもった語り口でもって綴られる。読み始めると、今回もぐいぐいと引き込まれてしまう。
 2010年4月の「宮沢賢治の溜め息」という章で、こんなことを書かれている。

「宮沢賢治は盛岡高等農林学校農芸化学科(現・岩手大学農学部)出身で、植物に鉄が必用なことは知っていました。
冬になると農家の人に、「崖の赤土をソリに積んで、田んぼに入れなさい。これを客土と言うんだ。赤土の赤は鉄の色で、稲の肥料の吸収をよくする働きがあるから」と教えていたそうです。」(225ページ)

 農芸の化学と水産の化学の一致、これはもちろん植物の成長に鉄分が必須という同じことである。
 私としては、『森は海の恋人』に次ぐ二冊目の著書『リアスの海辺から』(1999年)を読んだとき、特に第一部の幼少期の舞根湾の暮らしの描写は、これは海の宮沢賢治と称して然るべきと感嘆し、周りの人々に語っていた。東北の内陸の農の宮沢賢治に対して、沿岸の漁の畠山重篤。その後、氏は、2004年に宮沢賢治イーハトーブ賞を(あの医師中村哲氏と同時に)受賞されたわけである。
 と、まあそういうことで、今回の読書も大きな喜びを与えていただいた、ということになる。重篤氏も、いつのまにか、ひげぼうぼうの容貌のカキじいさんとなられたわけである。


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