ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

現代詩は難解であるか 現代詩手帖 2021年4月号 特集・ケア 詩と災害Ⅱ その3

2021-04-18 21:52:24 | エッセイ
 さて、その3である。今号には、豊崎由美氏、広瀬大志氏の連載対談、「カッコよくなきゃ、ポエムじゃない」の6回目「カッコいいし、難解詩」が掲載されている。初回は、2019年の4月号、「現代詩のフォッサマグナはどこだ?」というタイトルであった。実は、このブログで紹介している。面白い、これはぜひ、続けて読みたいなど思ったものだが、その後、連載と言いながら飛び飛びで掲載されており、今回まで読み損ねていた。
 ところで、その2で紹介した瀬尾育生氏も、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンペンがどうこうとかヨーロッパ精神史がどうこうとかの今回の評論のみでなく、詩も相応に難解であると思うが、ここでは取り上げられていない。
 難解な詩についての対談の後に、金井雄二氏による「菅原克己の詩を読み返す」が掲載されている。ここは、恐らく編集者の意図はあるのだろう。合わせて紹介することとする。

【カッコいいし、難解詩】

「豊崎 今回は難題ですね。難解詩と言われても、私だってそもそも現代詩の七割はよくわからないまま雰囲気で楽しんでいるような気がします。…
 広瀬 呪われた慣用句のように、「現代詩は難解だ」と言われ、難解な詩はわからない、だからつまらない、ダメだと短絡的に否定される。そういう意見を見聞きするたびに危うさと脱力感を覚えます。
 豊崎 でも、わからないことを面白いと思える人はそれほど多くないですからねえ。実際に現代詩には難解なものが多いわけだから、どうやったら楽しめるか、今日はそのコツを提示していければいいですね。」(134ページ)

 ということで、史上初めて「難解詩とは何か」について、具体的に検証作業を行ってみるということである。

「広瀬 …今回、難解ポイントを大きく分けて二つのカテゴリーにまとめてみました。ざっくりですが、わかりやすく、こうして俯瞰すると、実は非常に単純なんですね。」(135ページ)

 で、難解ポイント一覧ということで、1言葉の使い方5項目、2詩の内容・モチーフで3項目挙げている。
 1の①知らない単語が出てくる(漢字、哲学・科学などの専門用語、古語)だとか、2は①モチーフに同調できない(一般的ではない、生活感がない、現実味がない)など、いずれも、なるほどと納得できるものである。この整理は分かりやすい。

「広瀬 …今日は、…完全に難解推しで行きます。
 豊崎 それぞれの詩の難解ポイントがどこかを見ていくことで、これまでの詩論にはなかった「具体的なわからなさ」を追求していきたいですね。」(135ページ)

 とはいいながら、ここでは、抜粋の引用にとどまるわけで、「具体的なわからなさ」については、十分にはお伝えできないだろう。しかし、それぞれの魅力の一端を紹介するということになれば幸いである。

【空間や意味を超える―渋沢孝輔】

「広瀬…冒頭で紹介したいのは渋沢孝輔さんの「水晶狂い」(『漆あるいは水晶狂い』一九六九年)。渋沢さんはフランス文学者でもあり、ランボーやシュルレアリスムの影響下、観念的な詩を書かれています。

 ついに水晶狂いだ
 死と愛をともにつらぬいて
 どんな透明な狂気が
 来たりつつある水晶を生きようとしているのか
 痛いきらめき
 …」(135ページ)

 誌上では、全編引用しているが、このあたりにしておく。
 確かにカッコいい。そして、難解ではあるだろうが、これは読める。

「豊崎 確かにわからないけど、断然カッコいい。…
 広瀬 水晶が結晶するときの情熱的なきらめきを感じますね。もう一行目からカッコよすぎ。恋や愛の誕生の瞬間に一気に圧力がかかって、こういう詩が生まれる。…いずれにしても現代詩の最高傑作の一つです。」(135ページ)
 
【四次元的存在論―岩成達也】

「広瀬 次は岩成達也さんの「法華寺にて」。この詩が収められた『レオナルドの船に関する断片補足』(一九六九年)は、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計図に基づいて書いたという不思議な詩集です。

  それは何故あたしにこのような不安を与えるのか?それは、多分、死体というものが、非現実の消滅という立場を離れては、捉えることのできないものだから、である。内側に空間を持たない事物の消滅、それは、あたしにとっては消滅ではなく、いわば転移、ある事物から他の事物への転移に過ぎない。つまり…」(137ページ)

 引用はもっと続くが、ここまで。これは、「水晶狂い」のように美しくはない。何のことを言っているか、イメージもしづらい。

「豊崎 フランスの言語遊戯集団ウリポみたいですね。全く分からなかった。
広瀬 これは存在論を描いた詩ですね。ドライな文体の散文詩なのでとっつきにくいかもしれませんが、構造の連鎖に非常にポエジーを感じる熱量があります。」(137ページ)

 〈フランスの言語遊戯集団ウリポ〉というのは、ウィキペディアを見ると、フランスの言葉で遊ぶ一種の芸術運動なのか、詳しいことはよく分からないが、岩城氏の詩が何かを情報として伝達しようという実用的な言語ではなく、意味が伝わらなくてもかまわない言葉遊びめいた言葉の連なりであって、豊崎氏も「全く分からなかった」という言明を、図らずも裏付けてしまう修飾語として機能してしまったというあたりで理解しておけば、当たらずとも遠からずといったことになるのだろう。
 漢字熟語を多用したしゃちこばった文章であるのに、一人称が「私」ではなく、「あたし」だというのは、あばずれと言っては言い過ぎだろうけれども、ざっくばらんが過ぎて調和しないところに、この詩のアヴァンギャルドな魅力はあると言うべきである。などと書いていると、なんとなく分かってきたような気になるのが恐ろしいところである。おっと、ここの2つの段落は、私の勝手な筆の滑り。

【エレガントな難解さ―朝吹亮二】

「広瀬 難解でカッコいい詩といえば、やはり朝吹亮二さんでしょう。「植物譜」(『まばゆいばかりの』二〇一〇年)はタイトルからしてカッコいいです。

 ない、あらたしい朝
 なんて
 光、あふれて青ざめる
 何も
 ない季節にも冬の朝という時間もあった冬の早朝の植物譜にはシモバシラが記録されていてしかしこれは薄雪草ではないのだ薄雪草のうぶげのすべすべの肌ではなくわたげのふわふわの肌でもなくふわふわの肌には性愛の鞭がにあったがふわふわの肌には黒い尖った尾のようなものがにあったがふわふわの肌は上気してマシュマロのような匂いもしていたがうすべにたちあおいの粘液の匂いなのだろうか…」(138ページ)

 これも、まだまだ続くがこのあたりにしておく。

「広瀬 「ない、あらたしい朝」の一行からもう迷宮のようですね。きらめくような描写が、まるで「植物譜」がめくられていくように風景に重なって非常に美しい。」(139ページ)

 ちなみに「あらたしい」は、森崎氏が指摘するように、「新しい」の本来の読み方である。

「豊崎 …朝吹さんはその本来の読み方で表記したんじゃないでしょうか。」(139ページ)

「豊崎 朝吹さんの詩って全体的にエロティックですよね。…深い教養があるからこそできることですが、イメージが上下左右、時間軸を自在に動くんです。
広瀬 …教養に裏打ちされた難解な表現が多いけれど、調べて読む楽しさがあります。非常にエレガントな詩ですね。」(139ページ)。

 朝吹亮二氏は、もちろん、詩人としては高名な方であるが、一般には芥川賞作家・朝吹真理子の父親として知られる。フランソワーズ・サガンの翻訳者の朝吹登水子が叔母らしい。ご自身も慶応大学教授であるが、さらに政治経済フランス文学のそうそうたるお家柄のようである。
 ちなみに、渋沢孝輔氏は、東大仏文出の、明治大学教授、岩成達也氏は東大理学部出で大和銀行(現りそなホールディングス)の常務取締役であったという。

【意味なんかわからなくてもいい】
このあと、豊崎、広瀬両氏による議論は、イメージの連鎖―松尾真由美、楽しい難解詩―小笠原鳥類、生か死かー福田拓也、奔放な音楽性―榎本櫻湖、結像しない平易な言葉―一方井亜希、極北の特異点―山本陽子と続く。

「広瀬 今回読んだ詩の共通項は言葉自体を求めていること。それから光や死生観、存在論が比喩の根底にあるということですね。…死生観や存在論という古くからあるテーマを、繰り返し繰り返し、新しい表現にしたり、既成の意味を超えるように挑戦しつづけて居るのだと分かりました。
 豊崎 それはギリシャ時代から変わらないんですね。…シュルレアリスム的、自動筆記的な詩って、難解だと思われがちですよね。全体像があるわけではなく、言葉が言葉をつれてくるうちにイメージが立ち上がってくるような詩。私はそういう詩が好きですね。
 広瀬 西脇順三郎の言うように「遠いもの同士の連結」ですね。
 豊崎 今日は広瀬さんの力を借りながら、それぞれの詩の意味を考えてきたけど、結論としては、意味なんかわからなくてもいいんじゃないか、です。詩のなかで言葉の運動、イメージの運動が続いていることがわかればいい。」(148ページ)

 これは、その通りだろう。意味なんかわからなくても面白ければいいのである。しかし、死生観や存在論、シュルレアリスム、自動筆記、そういうものについての知識があれば、より面白くなりやすい。何かの小説のエロティックな、あるいは、ロマンティックな、初々しい恋愛の描写を読んだことがあるかないかで面白さを感じる閾値が上がったり下がったりする。そういうことはある。学んだほうが面白くなるのである。教養あるほうが詩を楽しめるのである。
 これをひっくり返せば、学ばないものは詩を面白く読むチャンスが少なくなる、教養のないものには詩を楽しめるチャンスが減る、つまりは難解だと思うケースが多くなる、ということになる。
 難解であることも、現代の詩のひとつのあり方である、ということにはなる。難解であってはいけない、ということは決して言えない。
 しかし、またひっくり返していえば、難解でない詩、分かりやすくやさしく、それでいて深い詩というものもある。むしろ、そのほうが、書くには難しい詩であるかもしれない。

【金井雄二 菅原克己の詩を読み返す】
 と、難解詩のお話のあと、菅原克己の評論が掲載されている。〈分かりやすくやさしく、それでいて深い詩〉の典型であるかもしれない。金井雄二氏「詩の核となるもの 菅原克己の詩を読み返す(上)・詩集『手』」である。

「菅原克己という詩人に魅せられてきた。今の若い世代の書き手にはなじみの薄い詩人かもしれない。菅原克己は一九一一年生まれ。戦前、戦中、戦後を生き抜き、生涯、詩を手放さなかった。若かりし頃、非合法時代の共産党で、「赤旗」のプリンターをしていた。…イデオロギー的には左翼であるが、詩そのものはむしろ叙情詩だ。一九八八年に亡くなったが、その後、フォークシンガーの高田渡が詩「ブラザー軒」を歌にして広まり、詩人アーサー・ビナードも詩を紹介したり英訳などを行ったりして、ファンが広がっている。」(152ページ)

 「ブラザー軒」というのは、仙台の老舗の洋食・中華のレストランである。菅原克己は、宮城県南の亘理町出身。仙台のブラザー軒は、ちょっとよそ行きに連れて行ってもらえる店だったはずだ。現在はもう営業していないようだが、私も何度か入ったことがある。
 ウィキペディアによれば、菅原は、仙台の宮城県立師範学校附属小から旧制仙台一中卒業後、東京の師範学校に入学も中退、その後、日本美術学校(現在の東京芸大美術学部)に進むが、ここも中退しているらしい。それなりに裕福な家に生まれたということになるのだろう。

「菅原の詩のなかには、今の現代詩と呼ばれているものが置き忘れて失いかけているもの、もう一度立ち止まって見つめ直さなければならないものが存在するのだ。」(152ページ)
 
「第1詩集は『手』である。…この詩集のすばらしさは何かと問われれば、素直さ、やさしさではないかと思う。詩人の純粋な部分がよく表れている。…まず、着目したのは、映画・演劇調であることだ。それから生活を書くということ、さらには、菅原が個人的に関係した人たちに向かって書かれた詩集であるというところだ。」(152ページ)

 なるほど。〈映画・演劇調、生活を書く、個人的に関係した人たちに向かって書く〉、この三点が揃っていれば、誰でもが読みやすく、分かりやすい詩になるに違いない。抽象的な理屈とか、不条理な出来事を描いたのではそうならない。目に見えるような具体的なシーンを描くということになるわけである。

「記念すべき『手』の冒頭の作品は「しぐれ」…何のてらいもなく、思ったことを素直に言葉にしたいい作品である。…どの作品にも、高度な詩的技術というものは見受けられず、見たもの、感じたものをそのまま素直に言葉に移す、という作業に終始している。…レトリックに頼らず、信じている言葉で、つまり、背伸びせずに自分の言葉できちんと正確に描写しているからだ。もちろん少々センチメンタルな部分もあるが、それを差し引いても、正直さゆえ、信頼できる詩であるといえるだろう。」(153ページ)

 ここでは、「しぐれ」の引用は割愛する。詩集に、フランスのある小説を読んで書いた詩が収載されているという。

「パート1のなかでは、「ビュビュ・ド・モンパルナスを読んで」というタイトルのもと、三編の小さな詩が載っている。…まずは引用してみる。


 手紙
うす汚れた小さな本を
日がな一日読んで
おれも遠いマルセーユから
胸いっぱいの手紙を出したくなった。
若さと苦しみ、
それから我々の勇気について語り得る友。
巴里の、サン・ルイ島の
あの貧しい木靴つくりの息子へ、
一人の娼婦が
泣きながら書いた切ない手紙を。

 カフェの対話
よしや、ここにも病気と貧乏があり、
それからより一層手きびしい世間があっても、
今日、さわやかな驟雨のように
いきいきとおれの心を洗っていくものは
モンパルナスの夕ぐれのカフェ
そのカフェの片隅にしょんぼり座っている
やさしい二人の対話」(153ページ)

 続けて短詩「フィリップ」が引用されているが省略する。
 どうだろう。美しい詩である。情景も、思い浮かべやすい。洒落た詩でもある。
 しかし、巴里が、フランスの首都パリであり、サン・ルイ島が、聖王ルイの名をとったパリ市の中心部、セーヌ川の中州の島であることを知らない人には、必ずしも分かりやすくはないかもしれない。一定の素養があってこそ、より楽しめる詩となる、のかもしれない。

「…菅原の詩は、生活の細部を丹念に見わたすだけの詩と捉えがちであるが、そうではなく、比喩だけにたよらない明確な言葉を使い、いわば、詩の原点に立っているといった方が正しい。」(157ページ)

 菅原克己が、取りつきやすい、分かりやすい詩の書き手であることは間違いなく、そういう意味では難解な詩の範疇に入らないものであることも間違いないが、卓越した言葉の使い手のひとりであることも間違いなく、その詩を書くことは、決して容易なことではなかったはずである。

「そもそも詩は情報伝達のための手段ではない。伝えられないものを、あえて伝えるのが詩であるからだ。ただ菅原は、この詩集によって、自分の切なる気持ちを受け渡しておきたかったのだと思われる。…だが、不思議なもので詩集『手』は、通常の言葉の意味を大きく超えて、人間の感情の奥底にまで届くものに変化していったようにぼくは感じる。…そこにはまさしく詩の核となるべきものが存在しているからであろう。」(159ページ)

 「ブラザー軒」は、ここでは引用されていないが、読んでみると、地味なようでいて、懐かしさだけではなく、きらめくような美しい幻影を描いた作品である。分かりやすい詩、とだけ片付けてはいけない気がする。

【マーサ・ナカムラ やぶれ網子】
 今号には、マーサ・ナカムラの詩「やぶれ網子」が、隔月の連載詩「柔らかな壁を押す」の二回目として掲載されている。

「青空に
 昨日 排水溝に流した魚の骨が
 白く浮かび上がる
 そうして霧雨が降る
 魚子(ととこ)は母親に電灯の下で話す
 煙のような兄妹たちが一斉にうなづく」(第一連 120ページ)

 さて、この詩は、難解であるか、分かりやすいか、美しいか、読み手を引き付けるものはあるか?

 ところで、今号の表紙は、是恒さくらさんの刺繍作品とのこと。藍、青の色が美しい。数年前に、気仙沼のリアス・アーク美術館のN.E.blood展シリーズの個展を拝見している。鯨をモチーフにした作品が多く、印象に残っている。
 





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