ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐々木中「定本 夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル 上」河出文庫

2014-07-07 12:35:01 | エッセイ

(ツイッターから 2012年2月6日)

 さて、こんな本、読んで分かる人、日本に百人もいるだろうか?もちろん、私も分からない。ただ、大体こういう筋のことが書いてあるんだろうなという見通しみたいなものはあると言えばある。で、面白い。

 ラカンについての本は結構読んでいるけど、ラカン自体の本は読んだことがない。フーコーについての本はそこそこ読んでいるけど、フーコー自体の本は読んでいない。

 (ルジャンドルが)「言い続けてきたことは、読者の多くが任じるところであろう『近代的人間』の地位の『格下げ』を要求する」…「あなたは一個の野蛮人なのだ。」(266~7ページ)

 「あなたは人間ではない。だが動物にすらなりきれない。…なぜなら、あなたは誰かから生まれてきて、そして誰かを生むのだから。」(267ページ)

 そういえば、平川克美さんの「小商いのすすめ」にも、人間は親から生まれて来たんだから、存在し始めたことについて責任はない、みたいなこと書いてあったな。であるにも関わらず、敢えて責任を取る、ということが肝要なのだみたいな。

 

同じく 下 河出文庫。(ツイッター2012年2月21日)

 時に、こういう噛んでも噛んでも噛み切れない消化不良を起こす本を読むというのが大切なんだな。後ろのリスト見てたら、中村雄二郎がフーコーの翻訳してる。フランス哲学で、パスカルから入った人だから当然なんだけど。

 中村雄二郎の受動の知、パッションの知、えーと何だっけ、臨床の知だったり、そうか、フーコーの文脈も踏まえているんだな。現代の日本の第一哲学は、中村雄二郎であると、ぼくは言っているのだが。

 この「夜戦と永遠」は、もう一度読むべき本だろうな。その前に、内田樹師の「寝ながら学べる構造主義」をもう一度読もうか。「夜戦と永遠」は、「フーコー・ラカン・ルジャンドル」についての本だが、間奏曲のように、ハイデガー、モーリス・ブランショとドゥールーズも出てくる。レヴィ=ストロースも

 「ダンスをすることが統治であるような統治性というのがあり得ないか考えてみようではないか。実際にアフリカの人々はそうしてきたのだから、と」(294ページ)ルジャンドルが言っていると、佐々木中は言う。(ということは私が引用する。)

 蓮實重彦大先生の「フーコー・ドゥールーズ・デリダ」はどんなことが書いてあったんだっけな。もう一度読み直してみようか。


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