社会学者・大澤真幸の一大巨編「〈世界史〉の哲学」の第4作ということになる。古代篇、中世篇ときて、実は、東洋編は未だ読んでいないが、「イスラーム篇」である。(東洋篇もその後買い求めて手元にあるが、これがまた分厚い。)
社会学者とはなにものか、というのがひとつの謎のように、私の眼の前にある。大澤真幸も、むしろ、哲学者と呼ぶべきなのかもしれない。「哲学」と題する書物の著者ではある。
柄の大きな書物である。
「〈世界史〉の哲学」は、現在の世界の在り様を解明しようとする書物である。現在のグローバルな資本主義社会はいかにして形成されたか。「イスラーム篇」も、その解明の一部である。イスラム社会自体に深く潜入して、その成り立ちを明らかにする、という書物ではない。あくまで、資本主義を生んだ西洋のキリスト教社会を解明する、その補助線としてのイスラム社会の解明を目的とする。(たぶん、東洋篇も同様の趣旨のはず。)
ここで注意しておきたいのは、大澤が、世界史といったときに無自覚に西洋中心に物を見ているから、イスラムが補助線だと言っているのではないということ。いま、現在の社会の成り立ち、世界の成り立ちがいやおうなく資本主義社会であること、それが生み出された地域が、西ヨーロッパであるということ、その西ヨーロッパがキリスト教のかつカトリック(そこから派生したプロテスタント)の地域であったということ。(ギリシャ正教系ではないカトリック)
教義だけを見ると、資本主義が発達してもおかしくないようなイスラムの社会になぜ、資本主義は生まれなかったのか、西ヨーロッパに資本主義が生まれたという謎を解明するためのひとつの補助線である書物。
イスラム社会自体の解明は、また、別の書物の役割であろう。(たとえば、宗教学者・井筒俊彦の著作は、私がいつか読んでみたいリストに入ってきている。)
イスラーム篇というと、古代、中世と読み進めたこのシリーズの脇道にそれたものではないかと、実は懸念していた。ちょっと、イスラム社会のことも知りたいところもあって、この本を求めたのでもある。しかし、決して脇道にそれてしまった書物ではなかった。少し、脇の方から眺める立ち位置を取ったものではあるが、その中心の課題は決して忘れていない、踏み外してはいない書物であった。
となると、東洋編も、ひとつの持続した興味の筋の中で読み進められることになるのだろう。安心したところはある。
さて、一見、イスラムとは関係のない日本の中世に関する叙述を引用する。
「勝俣鎮夫によると、かつて日本では、つまり戦国時代までの日本では、特別な条件を備えた場所でなければ市場的な交換を執り行うことができなかった。どこでも好きなところに市場を開設する、というわけにはいかなかったのだ。たとえば、虹が立つと、そこに位置を立てることは義務であった。もちろん、ほんとうは虹が立った場所など特定できるはずがないのだが、とにかく虹が立ったと見なされた場所には、市を立てなくてはならなかったのだ。」(241ページ)
虹の立つとき市が立つということ。ちょうどこの箇所を読んだ次の日、私は気仙沼市唐桑半島で虹を見た。海と陸の上に虹がかかっていた。鮮やかな虹であった。もちろん、その足元はどこか、確定などできない。
これは、ひとつの偶然に過ぎず、だからどうだ、というエピソードではないが、大澤真幸は、いま、最も読むべき、柄の大きな思想家である、ということは間違いないところだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます