ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

東島誠 與那覇潤 日本の起源 太田出版

2013-12-07 15:47:45 | エッセイ

 この本、atプラス叢書ということは、社会学者大澤真幸の肝入りということになるのだろうが、そういうことは表記されていない。

 対談するふたりは、どちらも東大出の歴史学者。東島は1967年生まれだから46歳、中堅どころとなるか。與那覇は79年で、34歳、気鋭の若手となるか。細かく言うと、東島は文学部の出で、與那覇は教養学部の出のようだから、前者は、歴史学プロパー、後者は、より学際的で他の分野への広い視野を持つみたいなことにもなるのだろうが、もとよりそれは、組織としての設立の狙いの違いはあるのだが、実際に学んだ個人の傾向がどうかということには、それほどの違いは考慮する必要はないのだろう。

 ところで、ぼくは、そもそもが、小学校5年生の時の古事記、その後に日本書紀から始まって、日本の古代史から読書を始めた人間だ。厳密には、古事記のまえに島原の宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」。つまり、邪馬台国については、根っからの九州説派であった。(今は旗色が悪いようだ。)でもしばらくは歴史学からは遠ざかっていて、成人以降は、恐らく網野善彦と、西洋中世史の阿部謹也以外は、読んでいない。大学のときは、古文書読解などあまりぞっとしないと思って、歴史学を選ぶことはしなかった。

 できれば、ぱっとひと読みしてエッセンスをつかみたいということで、広く細かく資料にあたって調査するなどということは面倒くさくてしょうがないというようなところ。でも、まあ、そういうことをしないと、少なくとも学者としては立って行けないわけだ。

 さて、歴史学とは、「細くあえかにではあっても、今日のわれわれへと確かに続いている過去からの糸を織り直すことで、〈現在〉というものの絵柄自体を艶やかに変えて見せることにこそその本領はある。」(6ページ 與那覇によるまえがき)

 はるか昔の古代史も、現在と切り離されたものではない、ということだ。現在の在り様によって過去が書き換えられる。あるいは、読み換えられる。一方、過去を読み直すことが現在の在り様を変えてしまう。そういうアクティヴでダイナミックな学問。

 ふーむ、なるほど。

 第1章の古代編は、奈良時代の前、飛鳥時代(と括っていいのかな)から説き起こされる。

 「血縁継承、世襲王権は、いわゆる『継体・欽明朝の内乱』を勝ち抜いた継体の王統が創出したシステムだったのです。」(東島17ページ)

 「いまも一般には、『皇室は万世一系だ』と主張する人々に対して、「いや、継体のときに断絶している」と反論するのが古代天皇制をめぐる論争だと思われていますが、それはかなり古い理解なのですね。…しかし、正しくは継体・欽明朝の内乱が起きるまでは、天皇は豪族チャンピオンに過ぎなかったわけです。そのときにいちばん強い人間を、みんなで押してリーダーにする。」(與那覇18ページ)

 はあ、なるほど、最近の古代史の理解はそういうことになっていたのか。

 「継体・欽明朝の内乱」というのは、当時の王位というか、支配権をめぐる豪族の争いのようで、まあ、戦国時代のようなことだろう。天皇として第26代だったかと称される継体天皇(おほどのおおきみ)までは、どうも、血縁で繋がっていたわけではないらしい。

 万世一系というのが、天照大神や、神武天皇から一貫してひとつの血筋ということではないのは通説となっているようであるが、継体天皇あたりからは繋がっているのだとすれば、これでも、充分に長い王統であることは言うまでもない。世界で最も古いと称することにも間違いはない。

 この長く続いてきた天皇制については、フランスの哲学者ロラン・バルト創案にかかるという「空虚な中心」ということばが使われる。明確な意思がなく、決断のない、言ってみれば無人格であるような存在。昔から、絶対的な権力を持つ為政者ではなく、権威ある象徴であった、というような。

 「空虚」であることともうひとつ、言葉を使える存在であったことも重要なのではないかと、東島が言う。話し言葉ではなくて、書き言葉、文字、文章。

 奈良時代以前の飛鳥時代に、中国の律令制度を導入して、国家の制度を整えようとした。その制度が、日本でそのままうまく行ったわけでもなくて、言ってみればその場しのぎのさまざまの工夫、弥縫策(びほうさく)をあてがいながら使い回してきたというようなことなのだが、それにしても、朝廷は、文書による行政をそれなりに行ってきていた。

 「文書によって支配するノウハウをきっちり持っているのが朝廷で、武家政権がそのことに気づいたことが、朝廷や天皇が存続することができた重要な要件になっていると言うんですね。」(東島 61ページ)

 「文字というものにあたかも霊力があるかのように、文書を握って操れる人間だけが、同時に政治的な権力をもコントロールできる。」(與那覇 61ページ)

 「言霊」ということばのひとつの発生源に、こういう行政文書の効力というようなこともあったということなのだろう。

 ドラマ平清盛が玄人受けしながら素人からの評判が悪かった話がちょっと触れられている。例の「王家」という呼称。

 「花園上皇に至っては、日記の中で後醍醐のことを『王家の恥』とまで書いているわけで、これはひょんなことから、たいへん有名な資料になってしまいましたね。」(東島 73ページ)

 これは、巻末の注を参照すると、

 「二〇一二年放映のNHK大河ドラマ『平清盛』で、天皇家を『王家』と呼んだことに、ネット右翼や保守系国会議員らが反発して無知を露呈した、いわゆる『王家問題』。もし『王』が皇室に対し失礼な表現なら、尊王派、勤王の志士たちがあの世で仰天するだろう。(第二章注7 343ページ)

 明治以降の翻訳語としての「王」は、英語のkingとか、フランス語のRoiとかいうことになり、「天皇」とキングは違うし、英国のキングはたかだか数百年の血統しかないというのはその通り。しかし、だから「天皇」と「王」と一緒にしては不敬だとかいう主張だとすれば、まったく的外れだということになる。

 「王家」ということばは、花園上皇も使われた実例が確認できるわけだ。

 第四章近代編に、明治期の天皇をめぐる「密教」と「顕教」という話題も出てくる。

 「美濃部達吉の天皇機関説(君主もまた国家の一機関として、その権力は憲法により制約されると説いた学説。天皇の不可侵性を、政治決定を内閣や議会に委ねるがゆえと解釈し、国民には政策の討議や政府批判の自由があるとした)が、ある時期までは高文試験試験を受験する際も『正しい解釈』とされていたわけですから。」(與那覇 193ページ)

 君主自体や、政府を担う有能な官僚、元老など一部のエリートは、「天皇機関説」が妥当であることを知っており、一種「空虚な中心」であることも踏まえている。これが「密教」。

 一方、一般大衆は、天皇が脈々と血脈の続く万世一系の有徳な君主で、国民を赤子としてあくまで慈しみ、善政をしくことになっているのだと信じ込ませようとする。これが「顕教」。

 「全国民にリベラリズムの真髄を教育し、他者への寛容や多元性の尊重という自由社会の原理を社会の隅々にまで行きわたらせて、『真の意味でのリベラルな社会』をつくるのか。逆に、どうせリベラリズムなんて理解できない愚昧な民衆は徹底的に政治から排除して、英明な君主と能吏だけによる統治を貫徹することで『エリート・リベラリズム』を永続化させるのか。」(與那覇193ページ)

 ここらは、議論としては、決着しているところで、どちらが正しいなどと蒸し返すことなどできないのだが、実際のところは、まだ、解決済みの問題だなどとは言えないところがある。「行政」と「市民」の関係性。

 民主主義はすでに実現したわけではなく、つねに実現しようとする過程なのだ、ということで。

 あと、近代編では、こんなことも言っている。

 「権力集中を生み出さない日本社会の起源にある」のは「本当は作為なのだけど、一見自然に見せかけることで、社会秩序に対する不満を起こさせず、みんなで共存する仕組み」(與那覇 226ページ)ということで、「そういう融通無碍で軟体動物のようにネトネトした社会規範を、ルース・ベネディクトは『恥の文化』と言い、山本七平は『空気の支配』と言い、中根千枝は『場の論理』と言い、土居健郎は『甘えの構造』と言い、河合隼雄は『母性社会』と言い、阿部謹也は『世間の原理』と言ってそれぞれ探求した。みんなが表現を新たに工夫しつつ、実質的には同じことを言い続けるのですが…」(與那覇227ページ)

 「本当は作為なのだけど、一見自然に見せかける」か。

 最後に、この言葉も引いておこうか。

 「あとどういうわけか、保守派の論客ほど日本文化を知りませんね。京都御所1000年の歴史なんて言う人は、里内裏の歴史を勉強し直したほうがよい。」(東島 227ページ)

 ということで、なかなかに興味深い対談であった。

 この両名の本も、また、読んでみようかな。


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