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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ「新日本国憲法ゲンロン草案」を、私なりにざっと読む

2012-10-15 22:49:17 | エッセイ

 思想家・東浩紀が編集人、発行人を務める「思想地図β」の第3巻目「日本2.0」に発表された「新日本国憲法ゲンロン草案」(東を含むゲンロン憲法委員会起草)をざっと読んだ感想をひとこと書き留めておきたい。
 前文と、私が関心を持つ地方自治の取り扱い、位置づけについての簡単なメモと思っていただければ良い。
 おおざっぱに言って、書かれている内容は、私として首肯しうる。現在の日本国憲法の改正案として、良くできており、これが新しい憲法となっても構わないという範囲に収まっているといえる。

 まず、前文の冒頭を読む。


 「わたしたち日本国民は、日本国が、単一の国土と単一の文化に閉じ込められるものではなく、その多様な歴史と伝統を共有する主権者たる国民と、その国土を生活の場として共有する住民のあいだの、相互の尊敬と不断の協力により運営され更新される精神的共同体であることを宣言する。わたしたちは、その前提のもと、日本国の伝統と文化的遺産を尊重し、国際情勢の変化、および生産と流通と情報通信技術の革新を考慮したうえで、以下の四つの理念を採用し、ここに新たな憲法を定め、国家の礎を築くものである。」


 文章の格調といっていいのか、流れとか文体みたいなものの感覚から言って、「単一の国土と単一の文化に閉じ込められるものではなく」というところと、「国際情勢の変化、および生産と流通と情報通信技術の革新を考慮したうえで」というところがひっかかるところがある。
 「単一の国土と単一の文化に閉じ込められる」と修飾する必要はなく、その次の「その多様な歴史と伝統…」とだけ言えば文意は通ずるし、文章としてすっきりすると思う。ただ、ここは国民と住民という二つの別の概念をはじめて持ち出すところで、「単一の…」と説明したほうが分かりやすいとは言える。
 「国際情勢の…」というところは、文章の抽象度が低いといったらいいか、特に理念を語るべき前文のなかで、具体的な、いま現在の時点でのお話を書いているというか、ひとつの文章の中での理念性、抽象性のレベルが違う、みたいに感じる。書かずもがな、ではある。ただ、ここも、東浩紀が「一般意志2.0」(講談社2011年)で展開した議論のひとつの具体化としての憲法草案という性格からすれば、特に「情報通信技術の革新」というところ、起草者としては、ぜひとも書きこむべき言葉ではあるのだろう。
 ここで述べた2か所などについて考慮して書き直すとすれば、
「わたしたち日本国民は、日本国が、その多様な歴史と伝統を共有する主権者たる国民と、その国土を生活の場として共有する住民のあいだの、相互の尊敬と不断の協力により運営され更新される共同体であることを宣言する。わたしたちは、その前提のもと、日本国の伝統と文化を尊重し、以下の四つの理念を採用し、ここに新たな憲法を定め、国家の礎を築くものである。」ということになるだろうか。
 もっとも、現在の日本国憲法の前文も、言う人に言わせれば悪文だそうだから、抽象度とか格調がどうこうはさておき、書きこむべき理念は書きこむべきだろうし、時間が経過して合わなくなれば、またその時は改正すればいいと割り切るべきかもしれない。
 どちらにしても、言っている内容にほぼ異論はない。
 特に、「国民」と「住民」を区別して書きだしているところは卓見に違いない。

 次に、四つの理念である。


「一、日本は公正な国でなければならない。…
 一、日本は平和な国でなければならない。…
 一、日本は繁栄する国でなければならない。…
 一、日本は開かれた国でなければならない。…」


 このうち三つについては、ほぼ異論はない。問題は、「繁栄する国」である。
 ただし、「開かれた国」については、私自身は賛同するが、「国民」のほかに「住民」を憲法上明確に位置づけようとする考え方に異論を持つ人々は多いかもしれない。
 で、「繁栄する国」について、詳しく見る。


「一、日本は繁栄する国でなければならない。わたしたち日本国民は、経済的、文化的、社会的活動を広く興し、わたしたちの国が平和と安全のうちに繁栄することこそ、国民および住民の幸福の礎であることを確認する。わたしたちは、この繁栄は国民および住民の自主自律の判断に基づく選択の上に築かれることを認め、その自由な活動の振興に努め、また繁栄の果実を特定の世代にのみ独占させることなく、子孫の手に引き継ぐために尽力する。」


 「繁栄する国」。
 いや、私は何も、日本が「繁栄しない国」であるべきだと主張したいのではない。もちろん、繁栄するなら繁栄するに越したことはないと思う。現在までの日本の繁栄は、基本的に良きことであると思う。
 しかし、これは経済成長をしつづける国という意味なのだろうか。
 たとえば、思想家・内田樹と小説家・高橋源一郎の対談「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」(株式会社ロッキング・オン)のまえがきで、聴き手であり発行人である渋谷陽一(ロック評論家)がこの本には「右肩上がりの幻想も、予定調和の幸福も、従来型の日本モデルの勝利感もない」と書く、その右肩上がりの幻想。高度成長期以来の「経済は成長しつづける」という幻想。
 新自由主義的な経済成長の幻想を、このまま肯定しつづけるのか、違う道を探索し選び直そうとするのか?
 もちろん、経済成長無くして、現代のわれわれは生き延びることができないのかもしれず、成長を追求すれば地球は終わり、成長を追求しなければ人類は終わるみたいな究極の選択の前にわれわれはいるのかもしれない。
 私は、高橋、内田や、その盟友で翻訳会社の経営者であった平川克美の「小商いのすすめ」(ミシマ社2012年)など参照しつつ、経済成長はしないが、良き暮らしがある日本みたいなところを理想としたい思いがある。それもまた一種の「繁栄」と呼んで差し支えないのであるが、さて、東を中心とするこの起草委員会のいう「繁栄」とは何ものなのか。ここは大いに議論すべきところであろう。

 さて、地方自治についてである。
 現行の日本国憲法では、第8章が地方自治にあてられている。


   第八章 地方自治
第九十二条  地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条  地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2  地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条  地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条  一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

 

 以上、これだけである。私は、正直なところ、積極的な改憲論者ではないが、たとえば地方自治についての規定が簡単すぎる、理念が「地方自治の本旨」という抽象的に過ぎる言葉ひとつでしか書かれていないというところは、もっと書きこむと言う形での改憲はありでないかと言ってきているところだ。基本的人権や平和主義だとかが脅かされるのであれば、あえて、改憲は必要ないが、その部分がきちんと守られるのであれば、改憲も実は必要な時期となっている、くらいの立場だ。
 で、ゲンロン草案には、地方自治の章はない。で、これは後退なのかと言えば、そんなことはない。第一部政体の第一章で元首について定めた後、第2章を統治とし、この中で、中央政府たる国と地方政府たる基礎自治体の両方を規定している。

 

「第一部政体 第2章統治
第二十三条 統治について、国民及び住民は、基礎自治体と国に運営を委託する。」


 国よりも基礎自治体を先に書いてあるのも好ましい。国民の側から「運営を委託する」という方向も良い。現行憲法よりも、地方自治に重きを置いたという評価ができる。
 ただ、ここではじめて出てくる「国」だが、これと統治元首たる「総理」の関係が書いていない。この国は、国民、国土も含む国家全体のことではなく、統治機構としての政府、中央政府のことのはずで、この「国」のトップが「総理」のはずだが、どこにも明確に書いていない。はたして、ここで、「国」という言葉遣いが正しいのかどうか。「地方政府たる基礎自治体と、中央政府たる政議院(あるいは、統治元首たる総理)」などと書くべきか。検討を要するところである。
 ところで、急いで付け加えておけば、この憲法草案の第一部第一章は元首で、象徴元首たる天皇と統治元首たる「総理」の二人の元首を定めており、これも、卓見であると思う。
 第二四条は、地方と国の役割分担を書いている。
 第二五条は、

 

「基礎自治体は、住民自治と団体自治を原則とし、運営の組織と形式は住民の総意と創意に基づき選択する。」

 

 これは、現行憲法の「地方自治の本旨」を、定説に従い、住民自治と団体自治のふたつに書きわけたもの。これはこれで良い。しかし、「地方自治の本旨」を「住民自治と団体自治」と書き換えて、さて、どれだけ意味が明確になったかというと、どうなんだろう。場合によっては、「地方自治の本旨」という言葉のまま押し通すということでも良いのかもしれない。
 地方自治法について、新規採用の公務員に講義を行っているものとしては、この「地方自治の本旨」という言葉自体に、意義を見いだしてしまう。
 それと、後半の「創意」という言葉は、書きたい趣旨は理解できるが、法文としては不要だろう。
 第二六条は、

 

「①基礎自治体は、必要に応じて連携して運営にあたることができる。②基礎自治体は住民の総意に基づき、憲章を設けることで広域行政体を担う組織を設置することができる。」

 

というもの。これは、法案のうしろに付いたコンメンタールによれば、①は現行の県にあたり、②は道州を想定しているらしい。(158ページ)しかし、単純に文面を読む限り、このふたつの区別はうまく読み取れない。どちらがより広い範囲のものかなども分からない。
 ①は、素直に読むと、現在の一部事務組合のことのようでもあるが、もちろん、一部事務組合にも設立のための規約は必要である。これと②でいう「憲章」とはどう違うか。さらに、うしろの二七条などを見ても、この「憲章」と法律、条例の関係が書いていない。これは、もちろん、イギリスやアメリカなどの自治体を作るためのチャーター、憲章であることは間違いないことだが、法文上、脈絡がついていない。
 県レベルと州レベルと二段階の広域的な自治体を別に規定する必要はないのではないか。
 ここ、二六条は、もう少し検討が必要なところだ。
 二七条については、特に問題はないと思う。第二三条からここまでが、地方自治についての規定となっている。

 ちなみに、第二章統治の前半は、国民と住民のこと、平和主義のこと、選挙のことなどを規定している。
 国民と住民の規定は、大きな議論のあるべきところだが、私としてここでは言及しない。
 第一八条は、

 

「国民および住民は、国際紛争を解決する手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。国の交戦権は、これを認めない。」

 

というもので、これは良くできているのではないか。平和主義の理念は、堅く保持していくべきだと私は思う。
 次の第一九条で

 

「国民および住民は、生命、自由ならびに財産の保全を脅かす自然災害と人的災害に対して、国民および住民それぞれの能力に応じ、自衛ならびに相互援助する権利を有する。」

 

と、人的と自然と並べて災害に対して自衛権を有すると書いているのは、うまい書き方だと思う。ここが自衛隊の根拠となる。
 今回の震災において、自衛隊の自然災害に対処する役割の大きさは、国民広く共通認識になったはずだ。それと、人的災害という言葉で、外国の侵略等も含めて言ってしまうというのは見事だ。
 というところで、地方自治を中心に、書きたいところだけ、思うところを書いてみた。私は、法学者でも行政学者でもない。地方自治の仕組みにも関心を持つ一地方公務員に過ぎないが、考えるところはあるというわけだ。

 ところで、一部に明治の大日本帝国憲法に戻せとか主張する人々がいるようだが、基本的人権、平和主義、そして国民主権については、後戻りするなどということはありえない。既に権力を握っているひとにとっては別なのかもしれないが、われわれのような一介の庶民にとって、現行の日本国憲法のほうが進んだものであり、より良いものであることは言うまでもない。これは、素直に文面を読み比べれば明らかなものだ。改憲とは、もちろん、より良いものに変えるということだ。ここには進歩しかありえない。退歩があってはならない、と私は信じる。

 新日本国憲法ゲンロン草案については、以下に全文あり。 http://genron.blogos.com/d/%BF%B7%C6%FC%CB%DC%B9%F1%B7%FB%CB%A1%A5%B2%A5%F3%A5%ED%A5%F3%C1%F0%B0%C6%C1%B4%CA%B8#article24


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