ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

文学的な内湾

2012-05-21 22:02:43 | エッセイ

 今日、久しぶりに内湾のあたり、車から降りてみた。
 海沿いに、煉瓦様の舗装材を敷き詰めたペーブメント。船着き場のエースポートを、魚市場方面の港町方向に出たすぐ、くの字に曲がったところ、少し花壇のほうに舗装を広げて、二基のベンチと、イラスト付きの解説版を設置、ポケットパークとした。対岸、魚町の屋号通りの街並み、見上げると安波山が真正面に。解説版は、安波山の春の行事、お花見の頃のあんばはんについてだった。夕刻には、太陽光パネル付きのLED照明が灯った。
 若いアヴェックが、ベンチに並んで腰かけ、あるいは、濃い茶色のフェンスにもたれ、何ごとか語り合う姿がしばしば見られた。まあ、時には制服姿の高校生同志だったとしても、それはそれで。
 というのは、二〇一一年三月十一日までの光景。
 いまは、ベンチも照明も解説版もない。舗装は、浮き上がり、ところどころはがれて流されたまま、放置されている。歩道として復旧されてはいない。
 海面はせり上がっている。この場所は、いくら満潮でも海面から一メートル以上の高さはあったはず。花壇の中のマンホールが、金属のふたを載せたコンクリートの筒としてほぼ一メートルの高さで屹立している。もちろん、もとは花壇の地面の高さに丸い金属のふたが見えていた。波やカモメを紋様として。
 浮見堂の神明崎から魚町、船着き場エースポート、港町の「海の道」、そして、魚市場へ通じる湾岸沿いは、遊歩道として整備されていた。気仙沼の最も気仙沼らしい場所として。旅人は、ここに来てこそ、ああ、気仙沼にやって来た、と感慨を深くすることができるそういう場所だった。もちろん、気仙沼出身の人間も、ああ、気仙沼に帰って来たと、懐かしさを呼び起こすことのできる場所。住み続ける人間にとっても、そこに立つたびに、住む土地の意味を心に喚起しなおす場所。
 歴史的にも、波静かな風待ちの港として、さらに、動力漁船漁業の基地として発展し、人口を養ってきた気仙沼の、いちばん、気仙沼らしい場所。市役所前の三日町・八日町の通りの奥深い細長い湾(細浦と呼ばれた)を、藩政期に埋め立てて、最後に埋めずに残した内湾。その内湾に面した不整形な敷地に合わせて建てられた、大工の技の明らかな昭和初期の不整形な木造建築も、全て失われた。
 さて、この場所は、内湾から魚市場への湾岸一帯は、これから、どうなっていくのか?
 この場所がどう生まれ変わるかが、これからの気仙沼にとって重要なこと。気仙沼というまちの性格を決定的に決定してしまう。
 もちろん、これは、漁業、水産業で生きていくという、気仙沼の人口を養う産業、雇用の話である。と同時に、それだけでなく、文学的な話でもある。
 ぼくは、人間が生きていくうえで、文学が決定的に重要であると思う。文学なしに人間は生きていけないものだ。というよりも、人間がある場所で生きていれば、必然的にその場所は文学となる、というほうが、論理的に正しいのだろうが。
 気仙沼の海と陸が接するこの場所、このエリアは、これからどういう場所になるのだろうか?
 今はまだ、分からないというほかない。
 しかし、この場所がどういう場所になるかによって、気仙沼に住み続けようとする人口が大きく変わる、ということはあるに違いない。
 もちろん、観光は、観光という産業を復活しようとするのであれば、文学抜きには成り立ち難い、ということは、確かなこととして言える。まちを、観光のために文学的に作る、というのではなく、文学的に作った結果、観光にも役立ってしまっている、というよりも、言ってみれば、この湾岸の、海と陸の接点にあることを素直に踏まえてものを観るということが行われていけば、自ずから文学的に形成される、それを観た旅人達が感嘆するというのが、正しい道筋ではあろう。
 考えてみれば、気仙沼は、昭和の始めの大火から、見事に立ち直った。それは、勃興しつつあった動力船による漁船漁業の実力によると言われてきた。その再建された建築が、地元の大工と、東京から呼び寄せた職人たちの技によるとして、震災前に、評価され、観光の要となりつつあったところだ。さて、今回は…

(あのエッフェル塔も、当初は、文化的なパリジャンからえげつないものと攻撃されたということなので、そんなに型どおりの復旧にとらわれる必要もないし、無理に情緒的に作り上げようとする必要もない。機能的に、技術的な水準は最新のもので復興していくべきなのであろうが、一方で、明治以降の近代短歌の源流に位置すると評価される歌人・文学者落合直文の「砂のうえにわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず」の歌が、現代流布する意味での「恋人」の言葉の用例の最初期に位置するということも踏まえて、この場所を観ていくことも、また、重要なことだ。落合直文が、今の気仙沼市松崎片浜に居館をかまえた伊達家重臣鮎貝氏の出であることまで書くのは蛇足に過ぎる。)

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