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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中井久夫 治療文化論 精神医学的再構築の試み 岩波現代文庫

2022-05-11 16:33:33 | エッセイ
 この書物は、『治療文化論』と題され、副題は「精神医学的再構築の試み」である。
 もともとは、『岩波講座 精神の科学』第8巻所収の「概説―文化精神医学と治療文化論」(1983年)が初出とのことで、再構築と言えば、リ=コンストラクションとかリ=ストラクションとか、ああ、そうそう、ほんとうは「脱=構築」(デ=コンストラクション)と言いたかったのではないだろうか。当時のニューアカブームに乗っかって、と言うわけでもないだろうが、どこかで踏み留まってやや無難な言葉遣いにとどめた、とか。
 ところで、治療文化、とはいったい何のことであろうか?耳慣れた言葉ではない。文化精神医学も同様、あまり聞かない言葉である。が、ここでいう「文化」とは文化人類学というときの「文化」と捉えて間違いはないと思われる。

【文化人類学と文化精神医学】
 最初の章は、「文化精神医学をめぐる考察 —文化精神医学と文化精神医学者—」と題される論考である。

「文化人類学が植民主義との関係を二〇世紀後半においてみずから問い直さなければならなかったのには、それだけの事情があったわけである。文化精神医学も文化人類学と同じ、この負の刻印を帯びている。」(4ページ)

 負の刻印とは、文化人類学が、普遍的な理性による人類の在り方、世界の在り様の探求という仮面をかぶりながら、アジア、アフリカ、中南米など地球各地において、植民地争奪戦を繰り広げた欧米帝国主義の先兵でもあった、あるいは、そう機能してしまったという批判と、同じ批判を、文化精神医学も受けなくてはならないのだ、ということであろう。
 戦国時代の日本に、スペイン、ポルトガルの宣教師が渡航し、キリスト教の神の恩寵を辺境の民にもたらすと称しながら、実態は国王の命令を受けて自国の領土化を謀る先兵であったということと同じ話である。
 しかし負の刻印を帯びたものながら、中井氏が文化精神医学を論じるのには、もちろん、明確な意図がある。

「文化精神医学は、二重三重の「使命」を帯びて出発したといえよう。一つは、西欧精神医学の普遍性の確認であり、第二に「西欧的自我」なき民における現象形態の発見である。また後者を包摂することによって前者をより包括的でいっそう堅固な体系に補強しようという野望である。」(4ページ)

 これは、文化精神医学というジャンルの野望であると同時に、どうやら、中井氏自身にとっての野望でもある。

【ヨーロッパ中心の世界史と精神医学】
 ここで、現代の世界の有り様を、もう少しだけ詳しくおさらいしなければならない。すぐ上で述べたことの繰り返しともなるので、この節は、飛ばして読んでいただいて構わないだろう。
 ヨーロッパは思い上がってきたという歴史である。
 荒っぽく言い切ってしまえば、ヨーロッパ文明とは、ギリシャ哲学とパレスチナの一神教の二つの源流から展開した合理的科学であり、その合理的科学と表裏一体をなす資本主義経済である。それは、不合理の暗闇を照らす理性の啓蒙の光であり、普遍的な価値を有するものであるという。ヨーロッパは先進国であり、それ以外は後進国であった。光に照らされたヨーロッパこそは、それ以外の暗黒の後進地域を照らしだす責務を負った先進地域である。そういう思い上がりである。
 しかし、それが偏見であり、思い上がりであるとしても、そこにある種の普遍的な光明があるということは否定できない。明治維新以降に教育を受けてきたわれわれが学び続けた西洋の学問体系というものがある。その否定とは、言ってみれば人間の文明の否定に他ならない。現にここまで展開してきた世界史の否定に他ならない。
 西洋文明のほうが辺境に留まり、インドや中国やインカの文明、あるいは日本の神道が世界の大部を席巻する、もうひとつの世界史もあり得たのかもしれないが、現実に、それはなかったわけである。
 ヨーロッパに、ここまでの世界を成り立たせてきた一種の普遍の価値があることは認めざるを得ない。むしろ、基本的なところで、その普遍の価値を擁護し続けることが必要であるとすら言わなくてはならない。(このあたりの記述については、大沢真幸氏の『世界史の哲学』シリーズが参照しやすいかもしれない。)
 もういちど、中井氏の記述を引く。

「文化精神医学は、二重三重の「使命」を帯びて出発したといえよう。一つは、西欧精神医学の普遍性の確認であり、第二に「西欧的自我」なき民における現象形態の発見である。また後者を包摂することによって前者をより包括的でいっそう堅固な体系に補強しようという野望である。」(4ページ)

 西欧の合理主義的思考を中心に置きながら、その展開として、アジア、アフリカ、中南米などに展開したローカルな、未開の、非合理の思考を参照し、統合し、包括した知性を目指す。それが、サブタイトルの「再構築」という言葉の意味するところに他ならない。

【SMOP=「標準化指向型・近代医学型精神医学」】
 第10章「精神科治療文化の複数性」において、SMOPという聞き慣れない言葉が出てくる。これは、中井氏が命名したという。
 SMOPとは、「標準化指向型・近代医学型精神医学」、英語でstandardized branch-of-modern-medicine-oriented psychiatryの頭文字である。

「一つの問題は、近代都市型精神医学と力動精神医学との関係である。もっとも、近代都市型精神医学ということばは、…不正確である。…われわれは、これを「標準化指向型・近代医学型精神医学」…と命名しよう。」(160ページ)

 この「標準化指向型・近代医学型精神医学」というのは、

「医学生に医学部の他分科と同じ関係で教授しうる精神医学というほどの意味がある。「スコットランドのエディンバラ大学で教育を受け、イングランドのモーズレー病院で研究と専門医としての研修を受けた人」が、おそらくもっとも純粋に保持しているような精神医学である。」(161ページ)

と、そんなことを言われても、門外漢の私たちにとっては何のことかとなる。ここでは、田舎者が洒落者から代官山でパンケーキを食するならあの店が良いなどと言われるのと同じ類いのカッコつけたモノ言いと読み流しておけば良いのだろう。読み流しながらも、記憶の片隅に留まることで、そのうちに意味ある邂逅がある場合もあるに違いない。
 このあと、「SMOP」とは何か、どういうものかについて、縷々説明が行われる。いったん、そこは飛ばして、ひとつの結論と思われるところを引く。

「統一化された精神医学とはSMOPであって、必要ではあるが十分ではなく力動精神医学を包摂することはできない。」(191ページ)

【フロイトとイエス、あるいは、力動精神医学と聖なる医療行為】
 ところで、ここで、力動精神医学とは何か、説明が必要だろう。英語でdynamic psychiatry、ダイナミックな精神医学ということだが、はしょって言ってしまえば、フロイト以来の精神分析系の精神医学のことと理解していいようだ。世のふつうの精神科の病院で行われているSMOPからは、一見排除されている流派、といえばいいか。(しかし、それは「一見」であって、表面上は厳しく排除されているかに見えていても実はそうではない、常に隠れて参照されているのだと、中井氏は主張されているのだと思う。)
 次に、11章「患者と治療者」において、聖書におけるイエス・キリストの治療行為に触れている場所がある。

「イエスの治療一般について、私は何とも申し上げられないが、「足を洗うこと」と「ひとびとの試みにあいつつ土に字を書く」「手を触れる」この三つには、ふつうあまり考えられていない意味があるのではないかと思う。」(196ページ)

 中井氏自身の診察室における経験を引きながら、この三つの行為の治療的意味、治療的効果について語られる。いずれも興味深い行論であるが、ここでそのいちいちを引くことはしない。これらは、外科医にしてカトリック信者、聖書のケセン語翻訳者として知られる山浦玄嗣氏の行論と軌を一にするものであると、私は思う。
 ここで、再々度、中井氏の、文化精神医学の使命についての記述を引く。

「文化精神医学は、二重三重の「使命」を帯びて出発したといえよう。一つは、西欧精神医学の普遍性の確認であり、第二に「西欧的自我」なき民における現象形態の発見である。また後者を包摂することによって前者をより包括的でいっそう堅固な体系に補強しようという野望である。」(4ページ)

 もとより、力動精神医学もヨーロッパの枠組みの中で生まれたものであり、聖書は、ヨーロッパ合理精神の源流に位置づけられるものである。ヨーロッパそのものに、合理精神だけでは片づけられない不合理、非合理を内包していたわけである。
 中井氏の試みは、本来的な意味での科学的精神の発露であり、本当の意味で合理的なのだ、と私は考える。
 そして、もちろん、現今の精神科医療に対する大きな問題提起であり、異議申し立てに他ならないわけである。

【個人症候群、あるいは中井久夫の架橋の志】
 第6章「個人症候群」概念導入の試みに少々触れておく。

「私はここで、「普遍症候群」と「文化依存症候群」の他に「パースナルな病い」、すなわち「個人症候群」をあえて樹てようと思う。」(71ページ)

 大雑把に言ってしまえば、普遍症候群とは、SMOPが対象とするふつうの病であり、たとえば、統合失調症とか双極性障害など、聞き慣れた病名である。文化依存症候群は、アジアだとかアフリカだとか、いわゆる未開の地における独特の病で、これは、文化精神医学が対象とするものである。日本の狐憑きなどもその一例とされる。
 それらとは別に、中井氏は、個人症候群という概念をたてる。で、それはどういうものか。その代表的な一例として「創造の病い」が取り上げられる。優れた芸術家や宗教家が病んでいたのかもしれない病であり、創造性のことではあるらしい。その記述は興味深いものである。
 個人症候群という概念について、正直に言うと、私自身いまいちその概念を掴み切れていない。おそらくこの概念は、中井氏独特のもので、その後この概念を使用した後継者はいないのではないか。従って、ここで引用して詳しく検討して、その正確な内容を把握するという必要性はそんなにないものとも思う。
 中井氏は、普遍症候群とは、実は西欧における文化依存症候群に他ならないのではないかという問題提起をなさっている。そこを説明する手段として、個人症候群という概念をここで持ちだしたということなのだろう、と私は考える。
 普遍症候群と文化依存症候群との橋渡し、西欧世界とそれ以外の世界の橋渡しを行うための操作概念として個人症候群という概念を持ちだした、のではないだろうか。
 というようなことで、中井氏は、SMOP=「標準化指向型・近代医学型精神医学」、つまり主流の精神医学を否定し葬り去ろうというのでなく、それを複線化し、多様化し、豊かな実りを得ようとする試みを行った、というべきなのだろうと思う。
 中井久夫は、この書物において、多様性、ポリフォニーを指向した、というふうに言っても、あながち間違ってはいない、のではないだろうか。

【SMOPについての各論】
 以下、せっかく引用を打ち込んだので残しておく、ということでもあるが、私なりにそれぞれ、気にかかるポイントがあったところである。
 ひとつめは、SMOPは、どうやら力動精神医学なしには成立しないのでは、と匂わされるところである。

「SMOPの有利な点は、流布性である。現代の医学教育を受けた者にはもっとも分かりやすい精神医学で…行政官の精神医学となりやすいことでもあり、また上からの啓蒙に適していることでもある。そのため国内的には社会精神医学と結合し、国際的には…WHOの公認精神医学となり、精神医学啓蒙書の多くは、ほとんどSMOPにのっとって書かれ、医師、歯科医、看護婦、心理療法士、作業療法士、薬剤師などの資格試験は、SMOPを本体とし、重ねるにうすめられた力動精神医学のいくらかを以て上塗りされている。」(161ページ)

 ふたつめは、SMOPが過去の有徴性の消失を目指すものでありながら、ついに消し去ることができないのではと思わされるところ。

「SMOPは、特殊な資質を必要とせず、医学部を出た“普通人”の実践しうる医学をめざし、従前の精神医学あるいは精神科医が帯びていた有徴性の消失を目指すものである。この有徴性は、精神科医が誕生する一九世紀後半はもとより、精神医学を専攻する内科医が誕生する一九世紀初頭よりもはるかに古く、そもそも「狂える人」に近づき看取る人たちから引きついだものであって、かつての刑吏、葬儀人、岡っ引、掃除人などの有徴性とシャーマン、雨司、予言者のもつ有徴性が一つになったものでああると私は思う。」(162ページ)

 次は、原因が解明された病が内科の方に取り去られ、その残余が精神科に残されるという宿命と、向精神薬の限界を述べたところ。

「精神医学は、独自の縄ばりを持つかにみえるが、近代内科系医学的な意味での「原因」を解明された病が次々と精神医学から取り去られるのも、精神医学史の辿った命運である。実際、SMOPへの指向は近代内科系医学全体の経験論的素朴唯物論に馴染むもので、この傾向は、生物学的精神医学の遅々とした前進に苛立ってこそいるが、この遅延は中枢神経系がもっとも複雑な身体システムであるから当然と認められ、目下は「向精神薬の有効性を手がかりに、“医学的実体”(…疾患のこと)に到達しようと努めつつある。もっとも、向精神薬は、自律神経遮断剤より出発し、臨床家のすべての知るごとく、分裂病に対する代表的な薬物も、器質性精神病、たとえば出産や手術直後、老人の動脈硬化、アルコール症などの譫妄(意識混濁プラス幻覚)にははるかに少量で迅速に効果を奏功するのであって、あるいは一種の作用の”あふれ“あるいは間接的な”玉突き効果“によって分裂病にも(より大量を要しより遅鈍より不確実であるが)効果をもたらしている可能性がある、と私は考えている。」
(164ページ)

「精神医学はとくに(近代内科系医学的な意味での)原因不明の、そしてマネジメントの難しい病いを割り当てられつづける運命にある。」(164ページ)

 この書物は、文化人類学にも馴染みはある私にとって、書いてあることが分からないという感じはもたなかったのだが、精神医学の分野において、一体、どんな意味があるのか、掴みづらい、どうも見当がつかない、というふうな感じであった。ということで、今回も悪戦苦闘したところだが、こうして書いてみて、なんとか、この書物の意味を掴めたようにも思う。やはり中井久夫は、奇蹟的な名医というべきなのかもしれない。
 (そして、その奇蹟の謎を解き明かすのは、オープンダイアローグ、ということになるのかもしれない。)




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