ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

山浦玄嗣 イエスの言葉 ケセン語訳 文春新書

2015-10-25 01:01:47 | エッセイ

 ケセン語の聖書で知られる山浦玄嗣氏が、震災の後、2011年12月20日に、新約聖書からの言葉を取り上げ、解説を付した本。もちろん、その言葉は、普通の共通語ではない。山浦氏自身のギリシャ語原典からの翻訳によるケセン語バージョンである。

 

「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。

 神様の懐に抱がさんのァその人達だ」(50ページ)

 

 山浦氏によるケセン語独特の表記については、普通のワープロソフトを利用していることから、必ずしも正確にはできないことをお断りしておく。

 これは、一般には、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(新共同訳)と訳されるマタイ福音書の一節である。

 山浦氏は、この新共同訳等の日本語から、東北弁の一種であるケセン語に翻訳したというわけではない。ギリシャ語の原典にあたって、そのギリシャ語の意味を調べ、そこから、ニュアンスも含めて解釈し直し、全く新たにケセン語に置き換えているのである。

 「心の貧しい人」というのは、実は「頼りなく、望みなく、心細い人」であり、「天の国」というのは「神様の懐に抱かれる」ということなのだという。

 心が貧しいというと、それはそれで宗教用語としてはありかとも思うが、一般的なニュアンスでは、お金はあっても、心はさもしいとか、心は冷たいとか、そういうマイナスのイメージで捉えられるもののはずだ。

 しかし、山浦さんのように訳せば、まさにそういう人こそ、神様の慈愛に相応しいと、素直に納得できるものになる。

 「天の国」、天国については、また別の節で詳しく述べられるが、時間的に死後の世界だとか、空間的に空の上だとかいうものではないのだとおっしゃる。いま、生きているまさにここにおいて、のことなのだと。

 これまたなるほど、その通りに違いないと納得させられる。

 

「敵(かだぎ)だってもどごまでも大事(でァじ)にし続げろ。」(112ページ)

 

 これは、通常「あなたの敵を愛しなさい」、むしろ文語体で「汝の敵を愛せ」というのがなじみ深いマタイ福音書からの言葉である。

 山浦さんは、聖書の「愛する」という言葉は「大事にする」という言葉に置き換えるべきだという。

 「愛する」という翻訳語ではつかめない意味が、ケセン語で「でァじにする」、まあ日本語全体においても「大事にする」と言い直すことで、これもまた素直に理解できるものになるというのだ。

 この本を読んでみれば、このあたりの消息が、山浦さん自身の言葉で分かりやすく書かれているということになる。

 山浦さんは、ご存知の通り、医師である。現在は大船渡市で医院を開業されているが、以前には、東北大学医学部の助教授であった。ばりばりの現代の科学者である。いま『合理的』という言葉を使うと、必ずしも誉め言葉にならないところがあるが、哲学や論理学を学び、あるいは、科学を深く学んだ学者が読んでも、ここに書かれているのは素直に筋の通った、理屈にあったお話であるに違いない。

 聖書は、迷信に満ちたトンデモ本などでは決してないのだということが分かる、ということになる。

 山浦さんの読みに従うということであれば、私なども、キリスト教徒となって構わないとすら思わせられる。私自身は、広く言った時の仏教徒の部類に入るのだろうと思っているが、哲学的に言った時の原宗教のようなものに根ざして、齟齬をきたさないというふうには思う。

 医師である山浦氏が、イエスの「医療」に関して、次のように述べる箇所がある。

 

 「すべての病は悪霊の仕業であったのです。/そこで民間医療としての悪魔払いが繁盛します。さまざまなおまじないを工夫して、取り憑いている魔物を追い払うのです。イエスもそうした呪術師のひとりでした。…(中略)…イエス自身が自分には神さまの力が宿っていると信じています。そこから発散してくる自信に満ちた輝きが暗示効果を何倍にも増したはずです。」(168ページ)

 

 イエスが、呪術師であるとは、また、大胆な発言である。それはさておき、山浦氏が、もとのギリシャ語等に当たった限りで、治療と治癒ということがいっしょくたに解釈されているが、イエスは確かに治療はしたが、必ずしも現在のような意味で治癒させたということではないと読むべきだという。現在のような意味で、すべての病気を治癒させるという奇跡が起こったというわけではないのだと。

 

 上でふれた「天国」に関わるところで、山浦氏によれば、ゾーエー・アイオーニオスというギリシャ語の言葉が出てきて、これは普通「永遠の命」と訳されるのだというが、言葉通りの永遠の命などないのだという。これはまったく、現在の普通の常識に適ったもの言いということになる。これは「永遠の命」などではなくて、「(一生の間)いつでも楽しく幸せにピチピチ元気に暮らすこと」という意味だということに」(194ページ)なるのだと。

 

 「ヨハネ福音書第六章四七節に「信じる者は永遠の命を得ている」(新共同訳)ということばがあります。/これはうっかりすると、「神様を信じる者はこの世の命を終わってから天国に入る資格をいただいている」という意味に取りがちです。/しかし、イエスのいいたいことはそうではありますまい。/「神様を本当に力頼りにしている人は、いつでも明るく元気に活き活きと暮らすことができる」ということだと思います。」(195ページ)

 

 というようなことで、このケセン語訳の聖書の言葉を読んでみると、聖書はつじつまの合わない迷信に満ちた書物などではなく、素直に納得のできる理屈の通った、道理のある書物ということになる。まさにその通りだと思う。

 そして、念のために言っておくと、筋が通って道理にかなっているからと言って、無味乾燥な合理的な言わずもがなのつまらない常識が書かれた書物だというわけではない。言うまでもないことだが安易なハウツー本でもない。

 言葉のニュアンスが豊富で、一読、描かれている情景、趣旨、意義、意味、心もちも含めて分かりやすく、しかも含蓄が深い。優れた書物である。

 カトリック教会山浦派とかがあれば、私も、その信者の席に加えていただきたいとすら思う。実際のところはイエス・キリストを信じるわけではなくて、山浦玄嗣を信じる山浦ケセン教とでもいったほうが良いということであるが。

 これは、実は書物を読んだだけで、ということではなくて、最近、ほとんど20年ぶりに再びお会いできる機会があって、その人物に触れて、なおさらに、ということでもある。

 山浦氏は、とてもおだやかであたたかく、すべてを抱擁し、しかし、背筋がすっと伸びて厳格でもあるというような、そうだな、「父」であるような人物である。

 先日の晩は、私が、だれかがこういう発言をした、それに対してこう言いたいな、と考えていると、山浦氏から全く同じ趣旨の言葉が出てくる、というようなことがたびたびあった。

 これから、お会いする機会は、たびたびある、ということになるはずである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿