で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1294回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ラブレス』
離婚が決まって一人息子をどうするか揉める夫婦を襲うある出来事から人間の姿を静謐な眼差しで描き出す寓話的ドラマ。
2017年のカンヌ国際映画祭審査員賞受賞作。
主演は、長編映画初出演のマリヤーナ・スピヴァクと『エレナの惑い』のアレクセイ・ロズィン。
監督は、『父、帰る』、『裁かれるは善人のみ』のロシアの鬼才アンドレイ・ズビャギンツェフ。
口に出して言いたい名前の監督ベスト10に入りますね。「アンドレイ・ズビャギンツェフ!」 他には、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、アピチャッポン・ウィーラセタクン、ジャ・ジャンクーとか。最近では、ヨン・サンホとかシンプルで好み。
物語。
一流企業で働く夫ボリスと美容サロンを経営する妻ジェーニャは離婚が決まった夫婦。
言い争いが絶えず、目下の問題はどちらが12歳の息子アレクセイを引き取るか。それぞれすでに恋人がいて、新しい生活をスタートさせる上でアレクセイは抱えたくない荷物だった。
アレクセイは、学校にも友達は少なく、家にいるにも心苦しかった。
原案は、アンドレイ・ズビャギンツェフ。
脚本は、オレグ・ネギン、アンドレイ・ズビャギンツェフ。
出演。
マリヤーナ・スピヴァクが、ジェーニャ。
アレクセイ・ロズィンが、ボリス。
マトヴェイ・ノヴィコフが、アレクセイ。
マリーナ・ヴァシリヴァが、マーシャ。
アンドリス・ケイスが、アントン。
アレクセイ・ファティーフが、リーダーのイワン。
バーバラ・シミコヴァが、レナ。
セルゲイ・ボリソフが、オンブズマン(役人)。
ナタリア・ポタポヴァが、マット・ゼニ。
アナ・ガルヤレンコが、マット・マシ。
スタッフ。
製作は、セルゲイ・メルクモフ、アレクサンドル・ロドニャンスキー、グレブ・フィティソフ。
撮影は、ミハイル・クリチマン。
プロダクションデザインは、アンドレイ・ポンクラトフ。
衣装は、アンナ・バルトゥリ。
編集は、アンナ・マス。
音楽は、エフゲニー・ガルペリン。
2012年露、離婚する夫婦が息子の引き取りで揉めたことで起きる事件を描くドラマ。
アンドレイ・ズビャギンツェフによる寓話的な詩映画。
色で語り、場で語り、体で語り、芸で語り、心が凍傷に。それらを焼き付ける画の力が焚火。
現代ロシアを活写しているそうだが、そこを突き詰めた結果、どこの国でもあり得るとまとえた普遍性。
わかりやすさからくる突き放しに心が豪雪。
泣き声無き慟哭が心を薙ぐ。はだけた肌のハードさに心を剥ぐ。
ロシアでは言葉、性的表現でかなり挑んでいるそうで、赤裸々の力強さと陰影の美しさに飲み込まれる。
表面は雪が覆い、その下で物語が凍てついている。それをかいてかいて探す霜焼けの手の痒みと痛みの熱。見つけるために進めばブーツの中で腫れていく、ピストンで火照っていく。
白塗れの世界に、赤みを帯びた名前が遠くで響く喪作。
おまけ。
原題は、『NELYUBOV(ニェリュボーフィ)』。
一般的にはあまり使われない【愛】を意味する「リュボーフィ」に否定の接頭辞の「ニェ」をつけた造語。
日本語で同様につくれば、【恕】に否定の意味をつけて『非恕(ヒジョ)』とか【仁】で『非仁(ひじん)』、【慈】で『非慈(ひじ)』といったところか。分かりやすくするなら『非愛』。
英語題は、『LOVELESS』。
で、こちらでは、ある言葉で、『無情』、『非情』か。
丁寧には、『愛の不在』となるか。
上映時間は、127分。
製作国は、ロシア/フランス/ドイツ/ベルギー。
映倫は、R15+。
受賞歴。
2017年のカンヌ国際映画祭にて、審査員賞をアンドレイ・ズビャギンツェフが、受賞。
2017年のLA批評家協会賞にて、外国映画賞を、受賞。
2017年のヨーロッパ映画賞にて、撮影賞(ミハイル・クリチマン)、音楽賞(エフゲニー・ガルペリン、サーシャ・ガルペリン)を、受賞。
2017年のセザール賞にて、外国映画賞を、受賞。
キャッチコピーは、「幸せを渇望し、愛を見失う。」。
内容を端的にに表している、よいコピー。「渇望」と「見失う」で韻を踏んでいたりね。「幸福を渇望し、愛情を見失う」でがっつり員踏んじゃうとやりすぎだな。切迫感が消え失せる。
ややネタバレ。
物語の発端は2012年12月。
世界の滅亡が、テレビやラジオなどのメディアや人々の噂で語られる。「2012年12月21日に世界滅亡」と。まるで1999年の世紀末のノストラダムスの大予言のように。
行方不明者を専門に捜す市民ボランティアは実際にロシアに広く存在し、今作の団体は実在の捜索組織【リーザ・アラート】をモデルにしており、監修もしている。
2010年に設立され、16年には6150人の行方不明者がいて、その89%をこの団体が生存した状態で発見したそう。リーザは、発見が一日遅れたためで遺体で発見された少女の名にちなむという。
今作は、イングマール・ベルイマンの『ある結婚の風景』の対比として思いつき、描いたそうだが、『アンチキリスト』にも雰囲気が似ている。あれも、『ある結婚の風景』が離婚で親密になる夫婦を描いたように、子供の死が夫婦を離れがたくし、愛の地獄に落とす、という点で対比ともいえるからか。
ネタバレ。
物語は、15年の2月に終わる。2012年は知識層によるプーチン抗議への熱が高まっていった時期。しかし、14年にウクライナ領クリミア併合で東部ウクライナで戦闘状態になってから、ロシア国内で言論が国家的に封殺されていき、15年にはプーチンが圧倒的な権力を持ってしまった時期に呼応しているんだとか。
赤(オレンジ)、白、青(緑)によって、この物語は語られる。
赤(オレンジ)は、アレクセイの服、捜索団体のベスト、チラシの枠、照明など。
白は画面全体を覆う。会社ン壁、家の壁、ベッドの掛布団など。
青(緑)は、アレクセイの上着、家族3人の衣類、照明、キッチンの壁、廃墟の壁。
白と赤の対比、赤と青の対比も印象強い。
夜、マンションに降る雪が街灯でオレンジに染まっているのはかなり意味深い。
赤は愛だろうか。
最初に、アレクセイが森で拾うテープは赤と白の斑で、最後、退色したテープはまだ木にひっかかったまま、白い空にたなびいている。
最後、ジェーニャの着ているジャージの胸には「RUSSIA(ロシア)」と書かれている。そのままの意味であろう。そのジャージの色は赤と白、しかも、最後はカメラが寄って、バストサイズで画面には白だけになる。(その他のシーンでも、ジェーニャが着ているジャージは青、白、赤のバランスが変わる)
両親もたまに赤を着ることがあり、そこで彼らの愛情度が見える。
タイトルのロゴがすでに赤と白だしね。
かなり、わかりやすい。
ガラス、枠、戸、覆い、といったものがモチーフとなっている。
特に、アレクセイの部屋の窓と売られた家が改装されている時の窓は明確に対比されている。
それぞれの家の窓、廃墟も対比されている。
ズビャギンツェフ監督は、この映画における窓ガラスの繰り返しを映画的韻と言っている。
夫婦の家とマーシャの家はセットで、窓から見える風景はすべて撮影された映像をスクリーンに映したものである。
森の中で、アレクセイをの略称であるアリョーシャが響くだけで、彼の不在が示される。名前を呼ぶことが不在を示す。
今作は、いわば詩寄りの映画であって、ロシア映画ではこのタイプの映画が伝統的に引き継がれている。これはもう100年近い歴史がある。
そもそも、日本では元々の詩自体が非常にマイナーな文学となってしまったので、詩映画はさらにマイナーになってしまうのでしょうかね。映像詩なんて言葉はあるけども。
海外の映画ではよく詩が出てきます。邦画では、詩人でもある園子温作品とかでは意地で出してくるけどね。
夫婦の会話などで、ロシアで“マート”と言われる罵倒などの汚い言葉が多用されているそうで、ズビャギンツェフ監督は前作でも使用している。実は、ロシアではこういった言葉が生活に根付いているのだが、文学や映画では禁忌とされている。この禁忌は以前は伝統であったが、最近、法律で演劇などのメディアで使用することが禁止されたため、『ラブレス』はこの形ではロシアでは公開することが出来ないのだとか。
裸や性の描き方もロシアは保守的らしく、この映画はかなり大胆なのだとか。
ボリスとマーシャのシーンの美しさ、ジェーニャととアントンの赤裸々な様はまさに映画的な美を湛えているが、後者ではボカシによって、それをこぼしてしまっている。
ズビャギンツェフ監督によると前作『裁かれるのは善人のみ』(2014年)で予算の2割ほどをロシア文化省から助成金を得ていたが、公開1年後に当時の文化大臣が「今後も文化省としては映画製作に資金は提供するが、『裁かれるは善人のみ』のような作品には絶対に提供しない」と言ったそうで、ズビャギンツェフ監督はその発言を受けて「今後は国からの援助は受けない」と決意したと述べている。
ズビャギンツェフ監督のインタビューより抜粋。
「もし、この映画が政治的メッセージしか持ちえていなければ、国境を越えて外国で評価されることもなかったでしょう。私は普遍的なメッセージに興味があるのです」
ジェーニャやマーシャの携帯電話依存の描写が多めなのは、コミュケーションの過剰がその深度を高めないことを見せているのだろう。
とはいえ、描写としてはちょっとぬるめ。
それは、離婚したら解雇の敬虔なキリスト教のIT会社社長(ヒゲ親父)が強い風刺を持つせいかもしれない。(しかも、実際にロシアにはこういうワンマン会社があるそう)
他人に無関心で、自分は見て欲しいと望む、何か悪いことがあれば他人のせいにする。
自分にもわずかはないとは言えない、貴族症候群というような、コレ。最近、こういう人々を扱った映画がちらほら。『アイ、トーニャ』とかね。
ラストカット、ジェーニャはカメラ目線になる。あなたは当事者でいるかと訴えかける。あなたはあなたの社会の身内になっているかと問いかける。