菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

覆う、剥ぐ  『ゼロ・ダーク・サーティ』

2013年02月19日 00時05分50秒 | 映画(公開映画)
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第389回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『ゼロ・ダーク・サーティ』




キャスリン・ビグローの『ハートロッカー』に続く戦争映画。
だが、この戦争は既に終わている報復の戦争である。


女性初の米アカデミー監督賞受賞という肩書きは、すでにどうでもいいほど、作風が確立された名作。

実話ベースでありながら、出来事を狭い視野で切り取り、冷徹にtだただ積み上げていくのに、キャラクターが浮かび上がってくる。
その人物以外思い出せないほどに。
すなわち誰かの目を通して観ることで物語を紡ぐのだ。


しかし、人間の眼とは、心とともに揺れるもの。
だが、キャスリンビグローの描く人物の眼は心の揺れがどんどんなくなっていく。
それはそのまま映画が進むたびに、びっと透徹されていく。
ワイドレンズから望遠レンズから、接写レンズになるように。
釘付けにするのだ。


ジェシカ・チャステインが演じるマヤがビンラディンを追う10年をチャプターを積み木のように順番に積み上げていく。
彼女の用紙はそこまで変わらないが、その眼が変わっていく。
これぞ演技の真骨頂。
中身の変化がわかるのだ。

脇には、実に渋い俳優が入れ替わることで、経過を見せていく。
ジェイソン・クラーク、ジョエル・エドガートン、ジェニファー・イーリー、マーク・ストロング、カイル・チャンドラー、エドガー・ラミレス、ジェームズ・ガンドルフィーニ・・・。




『ゼロ・ダーク・サーティ』の題名の意味は、『午前0時30分』で、作戦遂行時間の暗号らしい。
あと、「真っ暗闇」も表すそう。





記録のように物語を語るのは、脚本のマーク・ボールの取材力と構成に負うところが大きい。
もともと記者である彼の取材力は、セリフにも活かされ、目をせ向けるようなことに日常性をもたらせさえしている。
章立てもうまく機能していることで、事実をもとにした10年間の物語をうまく見せていく。
なにより、150分強の長さを二つの語りもつことで、必要な長さにしている。
約100分の追跡。
約50分の襲撃。
すでに死んでいるとさえ言われたビンラディンをどう見つけたのか?
それをひとつの謎を軸にして、牽引させる語り自体の巧さにも舌を巻く。

実際はこんな簡単ではない。
難易もの人間が数人の人間に集約されている。




目となったのは、撮影のグリーグ・フレイザー。
美しさとドキュメンタリー性を両立させている。
ほぼ光のない状態を暗視スコープの映像で見せるシーンも長くあり、記録的なビデオや監視機器による映像も少なくない。
これに美しさを与えた功績は素晴らしい。
『グリーンゾーン』との比較がわかりやすいと思う。
あちらは美しさを犠牲にしているから。
『モールス』、『スノーホワイト』などで美しい映像を作り出してきた手腕がこの映画でも発揮されている。
数台のカメラによる同時撮影で、役者の躍動感を捉ええる方式を『ハートロッカー』に続いて採用している。


プロダクションデザインは、ジェレミー・ヒンデルと、衣装デザインのジョージ・L・リトルの繊細な仕事ぶりは、目立たないが10年の時間経過をこちらにすんなりと届ける。

ここでも、時代と精神を直結させる音楽をアレクサンドル・デスプラ(デプラ表記もある)が成し遂げていて、ここ10年間の彼の仕事は驚異的で、アート系小品からハリウッド大作まで目を見張るような響きを映画から聞かせ続けている。
しかも、12年は『アルゴ』、『ムーンライズキングダム』に本作と恐ろしいほど。


だが、この映画さえ、米アカデミー賞の監督賞ノミネートされないのだから、凄まじい。
映画を評価することは、かように難しいのだ。
作品賞にはノミネートされているけどね。





映画として、演出、脚本、演技、映像、美術、アクション、音楽、すべてが一級品と、臆せず言える一本。
ないのは、ユーモアぐらいなものか。

だが、その息苦しさだけではなく、重みのある緊迫感は、映画体験にふさわしい。
暗闇の多い映画なので、まさに映画館での鑑賞にふさわしい。














おまけ。
ネタバレ。

ネタバレというのは、物語に作家が刻み込んだ仕掛けついて、その作品自体の鑑賞を促すためでなく、ただ自分の手柄のように暴いてしまうことだ。
作品が熟成していれば、それは当たり前に語られるべきことではあるが、作品は時代を生きるもので、その生まれたてに、その仕掛けについての解説してしまうのは、鑑賞の楽しみを奪うこともある。

それが物語の結末やどんでん返しのような物語自体の仕掛けの場合はあからさまだが、映画的仕掛けについて言うと、それは、とても難しい。
その語りについての仕掛けはその作品への興味を促すことも多いから。


『ゼロ・ダーク・サーティ』で描かれた事件のある程度までは知られている。
有名な事件を基にしているから。
もちろん、その過程や中で何がったかはほとんど知られていない。

この場合、その過程における重要なポイントがネタバレポイントということになるわけですね。


でも、それだけが本当にネタバレになるのだろうか?
だが、優れた映画とは語りに仕掛けがあるものだ。
それこそ、演出というものだったりするのだが。
シンプルに刺身のような映画もあるが、
多くは、出汁を取り、隠し味を加え、ソースに凝るものだ。

多くの部分、要素が有り、どこを語るか、容易ではない。

この映画で言うなら、覆い被せると剥ぎ取るという行為が映画全体に通されている。
それはその前の被るという行為とセットで。
最初のシーンで、アヤはマスクをかぶっており、それを自ら剥ぎ取る。
水責めの拷問は布をかぶせる。
中東の女性への被り物、カツラ、ヒゲ、サングラス、暗視スコープ、ズボン、ドア、衛星写真、死体袋・・・。

なにより、まず、映画の冒頭は、真っ黒の画面に音声だけだ。
覆い被された世界が剥ぎ取られて映画が始まる。
映画の暴徒の拷問は、北風と太陽の寓話ではないか。
あれこそ、旅人のコートを剥ごうとすれば、より強く覆おうとする話だ。
それを受けての予告編であり、タイトルが覆われ剥ぎ取られていく。
ここまで、徹底したコンセプト貫かれることはマレだ。、

それが真実や人の心に迫る手段として、語りに意識的に演出として採用されている。
なにより、マヤからは仲間が次々と剥ぎ取られていく。
そして、顔所は多くのものを被るが、すべてを剥ぎ取られたあとに何が残るのか?






アメリカというものを描くのに映画というものがどれだけ大きいかが、アメリカ映画の質を高めているというのはあると思う。
この映画の中でもガンダルフやアメコミ、ミュージシャンに関する固有名詞がちょいちょい出てくるが、その単語だけで、多くを語るより、伝わってくるものがあるからだ。
でも、日本語の字幕はそれを端折る。
文化がどんどん衰退していく理由は、こういう勘違いした親切さにある。




はっきり行って、メッセージとかは、まず2時間で語りきり、最後の40分怒涛のアクションという恐ろしい構成。
『プライベート・ライアン』の真逆の構成。
拷問シーンは、現実から言うとかなり甘め。
ほかの映画でももっとエグい描写はある。
でも、これが映画の品というものでもある。
戦争を描くなら、メッセージしかない。
描写では、生理をえぐり出してしまう。
理性のない描写ではメッセージは歪む。

だから、最後の先頭もまさにプロというか、真性のmりたりー好きのための描写の釣瓶打ち。
入念な作戦。それもでも実際の難関がある。
後処理の気持ちよさ。
躊躇の無さやトドメの入念さ。
あと、外的要因、例えば一般人への対応。
これは、『ハートロッカー』でも描いていた。
どれだけテクノリジーが進歩し、技術が上がっているか。
それでも人間はミスするという恐ろしさもきちんと描いている。
章のタイトルにも『ヒューマンエラー』を入れている。
ここかなり重要。
だから、訓練し、援護し、準備と後処理、情報を重視する。
モノづくりだって同じだ。


あのレベルで戦闘できるなら、戦闘という麻薬に陥るしかないだろうな。
武術の心得がどうしたって心の平穏へ向かうのは、このエスカレートの構造だろうな。
脳内麻薬の恐ろしさ。
映像で、これだけ興奮するのだから。
あんな銃とか持ってたら、そりゃ撃ちたくなるよ。
あの圧倒的なテクノロジー込みなら。



なんと言っても脚本の巧さがこの映画の格を上げている。
実話を基にしているだけに、たった一人の視点で語れぬものを、現代の通信機器の構造を利用して、描いている。
ネットや無人監視飛行機、衛星写真、電話、記録媒体・・・。
10年間の見せたいところ、必要なところだけ切り取って、章立てで見せる際にも、きちんと事件の進展だけでなく、主人公の精神状態が一致させるハーモニーを校生で奏でている。

演出でも映像と音声のズラシやキャラクターの出し入れの応用など、セリフ一つから演出の手間をかけた細工が透けて見え、嘆息が漏れる。

取り調べの最初の映像の上に、すでに取り調べが進んでいる音声をかぶせたりなどは序の口で、メールの一文で場所の違うシーンと感情とサスペンスをつなげる、情報処理の過程を店、そこから浮かび上がる発見を実はそこにミスがったかのように時間経過で見せつつ、映画全体にいそませた意識(中東の顔が見分けにくい)で一気に解決してみせる(これは主人公も顔を変えて敵に接する一連の描写もヒントにもなっている)など。









デジタル撮影の進歩で、暗さの表現が膨らんだ。
だが、字幕の明るさが画面を邪魔する度合いが高くなった。
これにも、字幕が縦から横になったような改善が早急に求められている。

この字幕の明るさ問題は、『ルーパー』、『ゼロ・ダーク・サーティ』と続けて、辟易するレベル。
洋画離れを憂えるなら早急に改善に取り組むべき。
吹き替えはそれぞれの技術によるが、字幕はすべての洋画に応用できる。
わずかに灰色にするだけで違うと思うのだが。



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