菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

世界を拒めば、世界はお前を・・・。 『旅のおわり世界のはじまり』

2019年07月07日 00時01分40秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1535回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『旅のおわり世界のはじまり』

 

 

 

テレビ番組のロケでウズベキスタンを訪れたレポーターが、異国の地で孤独に苛まれながら、辿る心の旅路を美しい風景とともに綴るドラマ。

 

全編ウズベキスタンで撮影された日本・ウズベキスタン合作映画。

 

監督・脚本は、『岸辺の旅』、『散歩する侵略者』の黒沢清。

 

 

 

物語。

葉子は、ウズベキスタンの湖に棲むという幻の怪魚とウズベキスタンのちょっとした観光ポイントを紹介する旅番組のリポーター。
あまりうまくいかない撮影で孤独を抱えながら、なんとかレポーターの仕事をこなしていく。
じょじょにスタッフも苛立ちを募らせていく。

 

 

 

出演。

前田敦子が、葉子。
加瀬亮が、カメラマン岩尾。
染谷将太が、ディレクター吉岡。
柄本時生が、AD佐々木。
アディズ・ラジャボフが、通訳兼コーディネーターのテムル。

 

 

 

スタッフ。 

製作は、坂本敏明、水野詠子、太田和宏、宮崎伸夫、吉野達也、山本浩、フルカット・ゾキロフ。
プロデューサーは、水野詠子、ジェイソン・グレイ、西ヶ谷寿一。
アソシエイトプロデューサーは、西宮由貴。
ラインプロデューサーは、飯塚信弘。 
協力プロデューサーは、森山敦、山口幸彦、飯田雅裕。

撮影は、芦澤明子。
照明は、永田英則。

美術は、安宅紀史。
スタイリストは、纐纈春樹。 
ヘアメイクは、HAMA。

助監督は、海野敦。
スクリプターは、柳沼由加里。

VEは、鏡原圭吾。
録音は、渡辺真司。

DITは、鏡原圭吾。

編集は、高橋幸一。

音響効果は、柴崎憲治。 
音楽は、林祐介。 
音楽プロデューサーは、和田亨。

 

 

 

 


現代ウズベキスタン、旅番組撮影に来たタレントが迷子になり、道と向き合うドラマ。
黒沢清が普通にふらふらと逡巡を描く。
異国の不安がフランティックを膨らませる。状況という怪物に入り口を塞がれ、不条理という常識に支配される、不満はわがままとして封じる、それは日々皆が戦っているものの膨ららんだ姿。
シンプルなシナリオに赤い影が忍び寄りりり、具現化する。
怪魚は本当にいるるるるのか、それは未確認なのか。代わりになる何かがとれれれれればいいのか。袋ろろろろろ小路でラララララ。
前田敦子の不貞腐れの魅力。無意識の失礼が観客に不穏を抱かせる。加瀬亮、染谷将太、柄本時生、アディズ・ラジャボフの全キャストの的確なアンサンブルが現実化させる。
風から得るモノ、風が舞わすもの。
心で渦まくスタンスを足で開ける柵作。

 

 

 

 

 

おまけ。

上映時間は、120分。
製作国は、日本/ウズベキスタン。
映倫は、G。

 

 

日本・ウズベキスタン国交樹立25周年、ナヴォイ劇場完成70周年記念の国際共同製作作品だったりする。

 

 

 

キャッチコピーは、「私の心は迷子になった。」。
まっすぐ内容説明型。

 

 

 

 

ウズベキスタンはイスラム教なので、外人とはいえ女性が肌の露出していること自体が不安にさせる。調べたところによると、ウズベキスタンのイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対してさえ良く思わない傾向があり、多くの女性はスカートを履いているとのこと。それで、ジャージの上にスカートを履いているのかもしれない。でも、それが分かっているのにショートパンツは履かないか。

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

しかも、女が船に乗るから魚が獲れないと言われるところから迷信がまだ信じられているというフリになっている。

 

 

葉子の彼氏の名前が「リョウちゃん」なのは、偶然らしい。

 

 

ウズベキスタンのナヴォイ州にあるアイダール湖は、実は1960年代に旧ソビエト連邦による灌漑(かんがい)計画によってシルダリヤ川がせき止められた水が集まってできあがったもの。

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

調べてもアイダール湖の幻の怪魚の情報は出てこないが、地元に行ったらいるよ、と言われそう。怪物の方も不明。

 

 

葉子の歌は、そこそこなので、これではオーディションに受かるのかなとこれまた不安にさせる。だからこそ、アカペラでありながら伴奏をかぶせたのだろう。(ナヴォイ劇場ではアカペラもあるが、本物の歌手の歌声の後なので、分が悪い)
実際は、3か月のレッスンの賜物なのだそうだが、それはあのそこそこ感を鍛えたのか、本気であれなのだろうか? 怪魚や怪物のように不明である。

彼女のあの細さも不安材料で、遊具でおじさんが子供を一人で乗せるなんてという気持ちもわかる。子供には見えないが、葉子を一人で乗せて平気かとはちょっと思ってしまう。
しかも、彼女はディレクター吉岡の態度に不満があれど、それを口には出さない。彼女自身もガイドブックを持っていてもウズベキスタンの言葉をほとんど使おうとはしない(ただ、ウズベキスタンは多言語なのでどれがというのが分かりにくいというのはあるのかもしれない)。しかし、スマホには独り言を言うのに、礼を独り言や行動にもを言葉にしない辺りが差別意識にも見え(恐怖からかもしれないが)、自分は人とは違うという自意識過剰もあるのかもしれない。それが最後の警察での「なぜコミュニケーションをしようとしない」という言葉に繋がっていく。

その割に妙にアグレッシブで、彼女が言う「私は用心深い」という言葉と裏腹で、彼氏も心配しているのが想像に難くない。

気持ちが動いたから歌えるようになったといのだから、ナヴォイ劇場でのあれは妄想で、歌いたいという気持ちを表したものなので、歌っていること自体が解放になっている。あの狭い世界が終わり、自分の旅の始まりというタイトルから先を想像させる。

でも、あの歌詞の内容から考えるとリョウちゃんの声、会話はきちんとさせた方がよかった気もしないではない。想像力を奪いはするし、勝手に勝地亮演じる消防士を思い浮かべる楽しみはなくなるが。



山羊はまんま葉子に重ねられている(だから、山の頂上で見えた山羊を解放したオクッだと思う。実際はどうかは分からないがそう思えることは意識の変化とも言える)のだが、あの山羊解放のくだりこそナヴォイ劇場よりはるかに番組にならないだろう。

小型遊園地の遊具は多少わからなくはないが、基準は笑えるかどうかでもないようだし。
それに山羊は見に行くのに、ナヴォイ劇場は見にも行かないのよね。水族館撮影がなくなったのだから時間がないわけでもないだろうし、ディレクターの意固地なのだろうが。だって、名物料理を食べるだけなのはアリなのに。

 

wikiによれば、ナヴォイ劇場は第二次世界大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された、とのこと。
この番組は、いい話や政治的なモノはダメということなのかもしれない。

あの劇場に葉子が入っていき、歩き続ける時の編集は、清水宏の技法を思い出したなぁ。 長屋とかを歩くシーンとかでよく使ってましたね。当時はセットをたくさん作れないので同じ道を飾り替えとかで長くしたりするために使っていた技法なのかもしれない。

 

不安の風である『世界のおわり旅のはじまり』の風の吹き方はよく欧米の映画で見る。
最近では、『エル ELLE』でもやっていました。

 

さすがに、災害の被害者もいるのに、結局自分の恋人のことだけってのも彼女の性格なんだろうし、他人はどうでもいいって感じはしないでもない。東京に住んでで他の知り合いとかの心配は全くしないのよね。海外からスタッフが戻るほどの大災害なのに。
黒沢清が東日本大震災を海外で見た時の経験だそうですが。

 

 

 

前田敦子の日本一の人気アイドルだった過去もまた状況という怪物でもある。

 

 

あの最後の『愛の讃歌』をカメラマンの岩尾は聴いたのだろうか。

 

 

 

 

 

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