で、ロードショーでは、どうでしょう? 第116回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『しあわせの隠れ場所』
アメリカン・フットボールのスター選手マイケル・オアーの実話の映画化。
アメフトで1番のエースのポジション、いわゆる花形ポジションは、クォーターバック。
サッカーなら、フォワード。
では、2番目は?
それは、クォーターバックを守るレフトタックル。
それは、クォーターバックの死角である、利き腕でない方を守るポジション。
そこがマイケル・オアーのポジション。
そのポジションは別名、“ブラインド・サイド”と言われる。
この映画の原題である。
そして、これがこの映画の主題になっている。
サンドラ・ブロックがついに米アカデミー賞での主演女優賞を獲得した作品。
(ラジー賞での最低主演女優賞受賞は『オール・アバウト・スティーブ』が対象)
保守派の白人の強い女性を体現していて、それがイヤミにならずに、愛らしく仕上げているのが、その勝因だろうと思われる。
米アカデミー賞は演技はなりきりが評価されやすいのだが、そういう意味では、知らない人物ではなくアメリカ人には馴染み深いタイプになりきっていた。
自信にあふれたアメリカン・ウーマンを。
金持ちの白人役を愛嬌をもって作り上げたのだ。
これを、いつものサンドラ・ブロックと評する人もいるが、まったく違う。
それに、10数年来のファンから言わせてもらうと、『クラッシュ』からサンドラ・ブロックの演技は変わってきている。
そこの変化は年齢によるものもあるだろうが、いままでの、人物の成長の表現から、人物の質の変化へと表現を変えてきている。
もう完成した人間が変化していく表現。
これは本当に難しいことなのです。
ある意味で、ジャンル映画での活躍で、キャラクター設定の強い役を演じてきたからの表現の獲得なのではないか、と読んでいる。
映画は、キリスト教の隣人愛であり、南部の白人の世界を描いている。
民主党であることがはばかれるようなアメリカの右派の世界。
その独特のルールが、支配している世界をすらっと、描いていて、まさに異文化、っカルチャーキャップさえある。
それを監督は理解していて、巻頭、原題の『ザ・ブラインド・サイド』の説明から丁寧にしていく。
定番の演出、回想や繰り返し、なぞりなど、物語から観客を絶対に置いてきぼりにしない。
古典的な演出で、実話の少し都合のいい世界を、地面にしっかり足をつけて語っていく。
下手すれば、古臭いとも言える。
これを作品賞として評価したのは、年配の評論家によっては居心地が悪い感じる方もいるんじゃないかな。
なんていうか、松竹っぽい。
でも、それはこの近年のアメリカを描き出すのにぴったりのスタイルだった。
このスタイルの選択とうのは、21世紀の作家はかなり意識的になっている。
それは古典も近年作も新作も、他のメディアも映画として見られる現代性なのではないかと思う。
クリント・イーストウッドが「映画はスタイルと解釈の芸術だ」といったことは、それを指しているのだと思う。
物語に合うスタイルの発見。
これが映画には重要になっているのだ。
監督(脚本も)はジョン・リー・フッカーは、この、まるで、テレビ映画のように、腰を落ち着けたスタイルを選択した。
善意と猜疑心と、防衛本能を描くのに、まずは観客に物語の語り口に信頼を持たせることに成功したのだ。
この圧倒的な善意に人は穿って見る。
どうやら、偽善は悪徳らしい。
人だから、その底辺にそれが無かったかは分からない。
『バットマン・ビギンズ』で描いていたことを思い出した。
「心は分からない。だから、行動だけが真実だ」
こんな言葉がある。
「嘘も死ぬまでつき続ければ真実になる」
映画、いや物語は嘘でなりたっている。
嘘を重ねて隠して、真実にしようとする。
評論は、その隠された、嘘を暴き、形になっていない真実を固めるものとも言える。
作品の死角、ブラインドサイドから伝えるのだ。
レフトタックルことブラインドサイドというポジション、エースを守る仕事という題材、日本人の方がしっくりくると思うなぁ。
クォーターバックがあなたなら、誰がレフトタックル?
あなたがレフトタックルなら、誰がクォータバック?
そこには、チームにおけるパートナーシップがある。
スポーツ選手の実話を題材にしながら、アメリカで女性人気を獲得したのもうなづける。
映画は、家族をチームとして、チームを家族として、描く。
この重ね具合。
これぞ、映画の上質な語り。
自分のブラインドサイド、そこには誰がいますか?
ぜひ、スクリーンで、見つけてくださいな。