菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

愛に恵まれた男、愛を試す。    『リバティーン』

2006年06月26日 00時20分16秒 | 映画(公開映画)
 
『リバティーン』を観た。

『リバティーン』とは遊蕩者とか、放蕩者という意味のようである。
ジョニー・デップが17世紀に実在した英国の放蕩詩人、ロチェスター伯爵に扮したコスチューム劇。
放蕩詩人は一般的な彼の評価であって、この映画では、そこではない彼を掘り下げるところから、始まる。

素晴らしい才能を有しながらも、挑発的な言動を繰り返し、酒とセックス三昧の奔放な人生の果てに33歳の若さで亡くなった孤独な天才詩人の半生を描く。
本作で製作と共に国王チャールズ二世役で出演もしているジョン・マルコヴィッチがロチェスターを演じた舞台劇を映画化。共演に「イン・アメリカ/三つの小さな願いごと」のサマンサ・モートン。
で、監督はその演出家ではなく、ミュージッククリップなどで、辣腕を発揮した新人ローレンス・ダンモア。


かの『バリー・リンドン』で話題になった蝋燭の灯りで撮った自然光撮影を引き継いだかのような映像は、逆に彼のような映像にこだわってきた監督だからこそ選べたのかもしれないとさえ思うほど。
暗さの中に潜む何かに目を凝らす映像は人を選ぶだろうが、これこそこの映画にぴったりの映像ともいえるのだ。


物語は、1660年代、王政復古のイギリス。国王の親族が居並ぶ大事な宴の席で卑猥な詩を朗読して国王の怒りを買い幽閉されていた第二代ロチェスター伯爵こと詩人のジョン・ウィルモット。恩赦を受けて3ヵ月ぶりにロンドンへと戻ってくる。しかし、ロンドンでは相も変わらず悪友たちと酒を酌み交わし、娼婦を抱く放蕩の日々。そんなある日、ジョンは訪れた芝居小屋で観客のブーイングを浴びていた若い女優エリザベス・バリーに目を留める。彼女の隠れた才能に気づいたジョンは自ら演技指導を申し出る。悪名高いジョンを警戒して固辞するバリーだったが、ジョンの熱意に押し切られ、翌日から2人は一対一で稽古を開始するのだった。



ロチェスター、彼は絶対的に愛されている。
まず国王に許されるところから映画は始まり、彼を愛する妻、友人(彼主役の戯曲まで書く)、愛人が次々と現れる。
自分で「好きになるな」と言わねばならぬほどに。
だから、彼は愛されないものに愛を注ぐ。
誰からも愛される美人に愛を注ぐのは、この映画の狙いからずれる。

今、最も愛されまくる男、ジョニー・デップのために用意されたような役である。
今のジョニー・デップこそ、やるに値する役であった。
今の彼が演じている意味は計り知れない。
映画のリアルな楽しみとはこういう部分にもある。
問題作の問題の部分の多くは、今だからこそ問題なのだ。


冒頭のロチェスター(ジョニー・デップ)の言葉をここに抜粋する。
____________________________
初めに断っておく。諸君は私を好きになるまい。
男は嫉妬し、女は拒絶し、物語が進むにつれて、
どんどん私を嫌いになる。
淑女たちに警告。
私はところかまわず女を抱ける。
紳士諸君も嘆くことなかれ。
私はそっちもいけるから気をつけろ。
私はジョ・ウィルモット、第二代ロチェスター伯爵。
どうか私を好きにならないでくれ。
____________________________

映画には、いくつも幅や挑戦があっていいはずなのに、ある枠でしか見れないのは、淋しいことです。
反モラルを問う作品が人に好かれる方がおかしいので、これは好かれない事が真っ当な作品なのだけど。

嫌悪を望むというナルシズムに逆説的な愛が潜んでいる。
もちろん、そんなの現実には、はた迷惑だが。
だからこそ、彼への最大の罰は無視することであり、彼の理解者であるエリザベス・バリーは彼を遠ざける。
それこそが彼が望んだ事だからだ。

底流に流れているのは、強大な父の存在、その不在を感じていること、というテーマ。
ロチェスターと国王との関係こそがこの映画の肝でしょうな。
ロチェスターの父は、国王を救い、英雄といわれた。
その国王に愛されるロチェスター。
だが、それは父を愛している国王という図も見えてくる。
そして、強大な父とは、神につながっていく。

この物語の影には、歴史的なピューリタンVSプロテスタントの対立があるそうだ。
ピューリタンは人間的快楽を抑圧し、舞台さえ禁止していたので、その反動が吹き上がった16世紀だしね。

女性への物質的愛情として、匂いで見せるのはフランス的ですね。
あのおオープニングの仕草たるや、まさに大人の楽しみ。
パトリス・ルコントの『イヴォンヌの香り』なんてのもありました。
そして、鼻(臭覚)で女を味わった男が、梅毒で鼻を失うシーンの強さがあの仕草から感じ取れる。

愛されるしか知らない男が、最後に議会で発言すること、それは彼が見せた愛するという行為であろう。

ヨーロッパ、特にフランスでは、愛は試されるもので、そして、その上で存在しえるからこそ尊いのであるという考え方があるようだ。
ある意味、ここでは観るものの愛も試される。
享受したい者には、この映画はあまり勧めない。

性的な興味が強い人間というのは幼児性が強いとも言われるのだが、幼児ほど愛がなければ生きていけない生き物はいないとも言えるし、幼生のまま成熟した猿である人間の宿命でもある。


かの岡本太郎が言った言葉で締めくくろう。
「これは醜悪だ。だからこそ、美しい」




おまけ。
サマンサ・モートンの凄さは息が詰まるほどだ。
俳優を志すものはある意味、必見。
舞台でブーイングを受ける女優が彼の指導で成長し、伝説的な人気女優になる様を演じきっている。
だが、打ちひしがれる事も覚悟の上でという注釈付き。
圧倒的な才能についての映画でもあるからだ。
(逆説的に、才能は諸刃の剣でもあることも描いてるけどね)








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