【ブロぐ。】に続いて、【コラむ。】しました。
いくつかある母校の内の一つ、日本映画学校のホームページに、コラムを寄稿しました。
http://www.eiga.ac.jp
まぁブログで書いてるようなことの延長です。
文字数少なかったので、導入がちょっと中途半端ですな。
コラムとエッセイがいまひとつ分からないのですが、どうなんでしょうね。
辞書では、エッセイは随筆、試論とあり、コラムは短評、時評、新聞の囲み記事とあるので、おいらが書いたのは、エッセイではなかろうかとも思うのですが、HPが新聞と同じメディアであるとすれば、コラムなのかしら。
そのコラムの内容の趣旨のところには、[映画学校のこと、映画のこと、日々のことなどをお書き下さい]とあったので、実は、学校でのエピソードも書いてみたのですが、どうもフツウだなぁと以前ブログに載せたことを書き直したヤツを出してしまいました。
そこで、どうせということで、出さなかった方をブロぐ。に載せる事にしました。
モノを大事にするというよりは、貧乏性ってヤツですな。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
『反骨心も無いよりは、あった方がいい』
菱沼康介(映画家)日本映画学校第9期卒
日本映画学校の思い出といえば、苦い思い出ばかりである。
なにしろ、シナリオを書けば、「ふざけているのか」と怒鳴られ、実習で、監督すれば、「フィルムの無駄」と言われた。
苦学生だったので、徹夜でバイト後、そのまま寝ないで授業を受けるのも辛かった。
それに、学校のレンタルシステムに文句をつけたり、演出コースだというのに、俳優コースの実習を受けようとしたり、あまり行儀のいい生徒とは、お世辞にもいえなかったし、実力も実績も大して無いのに自信家で、先生にも生徒にも疎ましいと思われる方であった。
面と向かって、「学校を止めろ、才能が無い」と言われた事もあった。
そんな私が、なんとか3年間通えたのは、反抗心が大半と、母に心配をかけたくないという気持ち少々のおかげかと思う。
さて、卒業が近づくと、就職相談の面接を受けることになった。
それで、希望する職種について書くように紙を渡された。紙には第三希望まで書く蘭があったので、正直に希望を書いた。
____________
第一希望:映画監督
第二希望:映像作家
第三希望:ディレクター
____________
今思うと呆れるが、その時は、それ以外考えられなかったのだ。
だが、こんな呆れるような希望に、担当の五十嵐さんは、「何とか探してみよう」と言った。
実際、探してくれて、あるTV局の下請けの制作会社の面接を受けさせてもらえることになった。そこで、順調に行けば、3~5年で、TV番組のディレクターが出来るという。
けれども、私は、その制作会社の作ってる番組が気に入らず、その面接を断ってしまった。
「映画ならまだしも、TVでつまらないのは、続かないと思う」
あちゃー、言っちまったこれで、もう学校から就職は世話してもらえないな、と心で思っても、もう遅い。
しかし、五十嵐さんの口から出てきたのは、「なら、プロデューサーを紹介してやるから、映画の助監督をやってみろ」という言葉だった。
「その人なら、一年我慢すれば、メジャーの映画の助監督につけてくれるから頑張ってみろ。映画監督になるのに助監督の経験は無駄にならないはずだから」と続けた。
私は、確かにメジャー映画で現場の仕組みを学んでから、監督をしても遅くは無いな、と考えはじめていた。
が、一つ気になり、訊いてみた。
[私のような生徒を紹介するのに不安は無いのか?]
返ってきたのは、「こっちが言うことに、ハイハイ言って従う奴の方が不安だよ。とはいえ、ただ反抗してるだけのも困りモンだ。でもな、そういうのは、特に自分から動かない。少なくとも、お前は文句を言いに来る行動力はあるからな。反骨心も無いよりあった方がいい」
自分をそういう風に見てくれてた人もいたのかと、私は納得して、助監督になることにしたのだった。第一希望の映画監督になるために。
さて、そんなこんなで、学校出てから、10余年。
私の職業は、あの頃、希望した3つのドレでもない。
上の方に目を移していただけば分かるが、私は今、【映画家】を名乗っている。
画家、漫画家、小説家、写真家、音楽家、脚本家、演出家、建築家などには、素直に形態に“家”がついて職業になるのに、なぜか映画だけが映像作家や映画監督と呼ばれる。
映画は複数人で作るものだからか?だが、時折、映画作家という言葉も見かける。
例えば、映画賞では、作品賞はプロデューサーに与えられるからか?
しかも、映画監督が自分の作品の権利を所有してる事は稀だからか?
演劇家がいないことと同じ理由か?
いろいろワケはあるのだろうが、なんとなく納得がいかないので、勝手に名乗ることにした。
しかし、その人の本業というのは、それで食を得ているかどうかで決まるそうだ。
(職と食は通ずるものがあるからか?)
それに従うと、私の本業は、助監督ということになる。CMやPV、Vシネ、DVDマガジンやら多くの映像作品で、演出家として、仕事はしているが、報酬は圧倒的に助監督での方が多いからだ。事実だから、仕方ないし、そういう見栄を張る気は無い。
実際、助監督も含めて映画家のつもりだし、誇りもあるが、社会的には、助監督という職業があるのだから、そうなってしまうだろう。自称と公称の違いである。
映画監督は食えない職業、とは言われ続けていたが・・・。厳しいもんである。
だが、今年、12月に映画監督としての長編デビュー作の撮影が決まった。
(http://www.aries-net.jp/saigo/index.htm)
ここが正念場である。あとは、ただ自分も観たい映画を作ることだけである。
そして、今でも、私は、ウディ・アレンの映画の台詞、「ああしろ、こうするなと言う意見には、そうですねとうなづいて、自分の好きなように生きろ」を心がけている。
どうも、十余年たっても、行儀はあまりよくなっていないようだ。
しかし、現在、ここまでこれたのは、あの時の「助監督をやってみろ」という言葉があったからだと、少なからず感謝している。
だから、日本映画学校の苦い思い出は、じょじょにビタースウィートな思い出になりつつもあるのだ。
まぁ、“悲劇も時間を経れば、喜劇”になるらしいし。
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まぁ、恥は書き捨てってことで。
他のコラムは、著名人に、さまざまな映像系のプロ、現役学生が寄稿していて、かなり読み応えがありますよ。
天顔大介さんのコラムなんて、おいらもふむふむと頷かされました。
ぜひ。
『フィルム・メモワール』DVD発売!
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=entanohosi
ページ下の方にある
『Film Memoire~フィルム メモワール~』
をクリックしてください。
いくつかある母校の内の一つ、日本映画学校のホームページに、コラムを寄稿しました。
http://www.eiga.ac.jp
まぁブログで書いてるようなことの延長です。
文字数少なかったので、導入がちょっと中途半端ですな。
コラムとエッセイがいまひとつ分からないのですが、どうなんでしょうね。
辞書では、エッセイは随筆、試論とあり、コラムは短評、時評、新聞の囲み記事とあるので、おいらが書いたのは、エッセイではなかろうかとも思うのですが、HPが新聞と同じメディアであるとすれば、コラムなのかしら。
そのコラムの内容の趣旨のところには、[映画学校のこと、映画のこと、日々のことなどをお書き下さい]とあったので、実は、学校でのエピソードも書いてみたのですが、どうもフツウだなぁと以前ブログに載せたことを書き直したヤツを出してしまいました。
そこで、どうせということで、出さなかった方をブロぐ。に載せる事にしました。
モノを大事にするというよりは、貧乏性ってヤツですな。
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『反骨心も無いよりは、あった方がいい』
菱沼康介(映画家)日本映画学校第9期卒
日本映画学校の思い出といえば、苦い思い出ばかりである。
なにしろ、シナリオを書けば、「ふざけているのか」と怒鳴られ、実習で、監督すれば、「フィルムの無駄」と言われた。
苦学生だったので、徹夜でバイト後、そのまま寝ないで授業を受けるのも辛かった。
それに、学校のレンタルシステムに文句をつけたり、演出コースだというのに、俳優コースの実習を受けようとしたり、あまり行儀のいい生徒とは、お世辞にもいえなかったし、実力も実績も大して無いのに自信家で、先生にも生徒にも疎ましいと思われる方であった。
面と向かって、「学校を止めろ、才能が無い」と言われた事もあった。
そんな私が、なんとか3年間通えたのは、反抗心が大半と、母に心配をかけたくないという気持ち少々のおかげかと思う。
さて、卒業が近づくと、就職相談の面接を受けることになった。
それで、希望する職種について書くように紙を渡された。紙には第三希望まで書く蘭があったので、正直に希望を書いた。
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だが、こんな呆れるような希望に、担当の五十嵐さんは、「何とか探してみよう」と言った。
実際、探してくれて、あるTV局の下請けの制作会社の面接を受けさせてもらえることになった。そこで、順調に行けば、3~5年で、TV番組のディレクターが出来るという。
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返ってきたのは、「こっちが言うことに、ハイハイ言って従う奴の方が不安だよ。とはいえ、ただ反抗してるだけのも困りモンだ。でもな、そういうのは、特に自分から動かない。少なくとも、お前は文句を言いに来る行動力はあるからな。反骨心も無いよりあった方がいい」
自分をそういう風に見てくれてた人もいたのかと、私は納得して、助監督になることにしたのだった。第一希望の映画監督になるために。
さて、そんなこんなで、学校出てから、10余年。
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上の方に目を移していただけば分かるが、私は今、【映画家】を名乗っている。
画家、漫画家、小説家、写真家、音楽家、脚本家、演出家、建築家などには、素直に形態に“家”がついて職業になるのに、なぜか映画だけが映像作家や映画監督と呼ばれる。
映画は複数人で作るものだからか?だが、時折、映画作家という言葉も見かける。
例えば、映画賞では、作品賞はプロデューサーに与えられるからか?
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映画監督は食えない職業、とは言われ続けていたが・・・。厳しいもんである。
だが、今年、12月に映画監督としての長編デビュー作の撮影が決まった。
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ここが正念場である。あとは、ただ自分も観たい映画を作ることだけである。
そして、今でも、私は、ウディ・アレンの映画の台詞、「ああしろ、こうするなと言う意見には、そうですねとうなづいて、自分の好きなように生きろ」を心がけている。
どうも、十余年たっても、行儀はあまりよくなっていないようだ。
しかし、現在、ここまでこれたのは、あの時の「助監督をやってみろ」という言葉があったからだと、少なからず感謝している。
だから、日本映画学校の苦い思い出は、じょじょにビタースウィートな思い出になりつつもあるのだ。
まぁ、“悲劇も時間を経れば、喜劇”になるらしいし。
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まぁ、恥は書き捨てってことで。
他のコラムは、著名人に、さまざまな映像系のプロ、現役学生が寄稿していて、かなり読み応えがありますよ。
天顔大介さんのコラムなんて、おいらもふむふむと頷かされました。
ぜひ。
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