で、ロードショーでは、どうでしょう? 第112回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『おとうと』
山田洋次の映画作家としての磨き上げられた嘘を味あわしてくれる映画
断言しよう、山田洋次は映画を愛している。
いや、映画を観る人々を愛している。
もちろん、市井の人々を愛している。
彼らが映画が好きだということを信じている。
自分自身が映画好きだから、愛情を持って映画を撮っているように思える。
『髪結いの亭主』に啓発されて、『男はつらいよ』に髪結いの女性を配し、しかも、それは寅さんと息の合う女性となった。
『虹をつかむ男』はダニー・ケイの同名タイトルの映画と、映画を題材に描いた。
今回の『おとうと』は市川昆(市川監督の『おとうと』からの引用があるからだ)に捧げられている。
そう、山田洋次は、映画人を愛している。
俳優たちも、そんな山田洋次世界のピースというか、住民になっている。
吉永小百合は、いわずもがな、鶴瓶、蒼井優、加瀬亮、小林稔侍・・・。
その独特の空気の中で呼吸している。
『おとうと』は現代劇だが、この現代は日本にまだ残っているのか、不思議なほど懐かしい世界だ。
台詞回しや人の動きに、わざと昭和っぽさを取り入れている.
起こってることは、今の日本でも十分ありえるんですけどね。
そう、確かに、平成の今を描いている。
携帯電話にメール、パソコンは画面に登場するし、医療問題、不況など現代の問題もスパイスとして扱われる。
しかし、それでも20年前の映画なんだけどねといわれても通じる普遍的なノスタルジーがある。
昭和とはこういうやさしい時代であったと誤解をしてしまいそうなほどに。
いや、きっとこういう日本もあったのだ。
そして、今、ないのだから、せめてスクリーンの中にあっていいのだと思う。
極限まで、リアルなファンタジーとして。
そもそも松竹大船調は同時代であっても、すでに古臭さを持っていたスタイルだったようだしね。
現代でも松竹大船調は、本当にわずかに残っている。
残っているのは、もしかしたら、山田洋次がいるからかもしれない。
彼の日本の伝統を守る精神が、邦画を見る人々を支えている。
それは世界に通用する。
なにしろ、米アカデミー賞の外国映画部門でノミネート受けた近年の実写の日本映画は、松竹映画(『たそがれ清兵衛』と『おくりびと』)だけなのだ。
日本的情緒は、世界でも十分、通用するのも、また事実なのだ。
けどね、もう、この『おとうと』のような日本は、日本にはなく、スクリーンの中だけなのかもしれない。
いや、スクリーンの中にあれば、現実にあるかもしれないと思えるじゃないか。
あると思えれば、それは可能になる。
こういう日本が、まだあるに違いないのだ。
そう信じられる。
山田洋次は、このファンタジーとしての現実を、確信犯として描いている。
それは映画の中に出てくる大工の嘘についてのエピソードからうかがい知れる。
水平であるべき天井は、少しだけ上に上げて作る。そうしてはじめて人はそれが水平だと認識するからだ。
それが大工の嘘。
『おとうと』には、それと同じ映画の嘘がある。
もちろん、ここに描かれるのはただやさしい世界ではなく、人の心の貧しさや世間の厳しさもある。
あるからこそ、そのやさしさの有難いことがわかる。
笑えて、泣けて、そして、たぶん、帰って、少しだけ優しくさせる。
いやらしさのない温もりがここにある。
「その国の映画とは、その国のあるべき未来の姿が描写されている映画のことだ」と言ったのは、J・L・ゴダール。
その言葉にあてはまるのが、この『おとうと』だ。
この懐かしさは、未来になくなればいい。
現在の姿になれば、それは懐かしさではないだろうから。
過去には戻れないが、過去をお手本に未来を描くとは出来る。
老人が笑って暮らす国はきっといい国だ。
そういう国にする手がかりが山田洋次の映画にはある。
一昔の今へタイムスリップさせてくれる懐かしい現代の邦画。
先輩方の笑い声と涙とセットで観るのは、優しい気持ちを思い出させてくれますぜ。
まぁ、こういうのは、もういいんだ!と撥ね退ける気持ちも無いと寂しいものだ。
老いるのは、老いてからでも遅くないしね。