本山 博氏の{カルマと再生}より
最後に 「では どうすればいいのか?」という疑問が出てきますよね。
<カルマを越えるにはどうすればいいか?>という疑問。
その答えと思われる記述を・・
・・・・・・・・・・・・
「あるカルマが解ける とはそのカルマが持っている心身的なエネルギーが消滅することを言う。
カルマは、種子(潜在的なある機能を持ったエネルギーパターン)として チャクラに潜在的に蓄えられている限りは 解けない。
それがある縁を得ることにより、活性化し、現実の世界で働きとして現れると、そのカルマの持つ心身的エネルギーは消費される。消費されてしまうとそのカルマは消滅する。
ところが普通の人の場合 そのカルマによる働きそのもの(悲しい出来事や苦しい出来事・嬉しい出来事)や それに伴う感情・想念に執着し、再びそのときの 自己の行為の果や感情のエネルギーパターンを種子として心身に貯え、保持するのが常である。
カルマの種子が働きとしてあらわれた時に それをその働きのままに任せて執着しなければ、そのカルマはエネルギーを消失して解消する。」
・・・・・・・・・・
これは・・
身体のチャクラに貯えられたカルマは 縁・環境が整う事で発現する。
出てきたカルマは出す!!(出し切る!)
肝心なのは・・
出てきたカルマに対して・・行為した結果に対する心構え。
結果に執着・とらわれないこと。
これは 先日書いた{超作}。
{執着心}・・この扱いは本当に難しいと感じます。
とらわれない心・・これまで {過去の悪い記憶}にとらわれていると自覚がありませんでした。ここで棚卸をして 初めて気が付いた・・。
執着心を手放す。とらわれない心を持つ=超作。
先日も書きましたが 坂本政道さんの{死後体験}にも・・
「生まれ変わりポイントにまで行けない霊は・・自らの執着心で同じ波動を持つ霊達と同じ次元に留まる」という記述があります。
あの世の霊も 次元上昇のポイントは執着心。
この世でも それは同じ。
いかに執着心を捨てるか・・超作するか・・。
これが カルマを越える第一のポイントのようです。
・・・・・・・・・・・・
「人間は、長い人生の間には種々の困難に出会う。地位・名誉・財産が崩壊するかもしれない危機に面したり、死ぬかもしれない大病にかかる。またある家では代々子供が(男子が)早死にして家が絶えるようになるとか、兄弟の間で争いが絶えないとか、離婚・色情 などなど・・代々一定の困難な問題が続く等、人生には解決困難な問題が生じる。
そのような時 人間は非力を知り、より大きな存在、神へ心を向ける。
神へ向いた心は、最初は 今自分が面している困難が解決しますように・・これはご利益主義といえよう。しかし、一心に祈って願いが叶うと 人間は大いなる力を持つ神に直接触れ、人間は神より支えられ、生かされていることを感得するようになる。
初めはご利益主義であっても 願いが叶えられる体験を重ねていくうちに、自分の存在を神に託して 安心して生きる態度が自然に具わってくる。
(略)すなわち どのようなことが自分に起きようと、神が自分に必要があって与えたものとして、それを受け入れるようになる。
このような神への全託が生じて 神への祈り続け、祈りの中で祈っている自分を忘れ 祈りそのものになりきる時・・神はその大いなる力を持ってその祈りの中へ、自分を捨てた人間の中へ流入してくる。
ここで カルマの内で生きている人間存在が浄化され、否定されて 次第にカルマを越えた次元へ超越せしめられる。」
・・・・・・・・・・
また 左脳が疲れてきたあ~(笑)
つまり・・
神様に{依存する}のではなく、{委ねる}ということですよね??
・依存・・・努力せずに結果を求めること (根底に執着心がある)
・委ねる・・努力して結果は求めない(執着心がない)
これは 自分勝手な解釈ですが・・大きく違うと思います。
神様に向かうのに・・どうしても{依存}したり、ご利益主義だったり・・
私は 手を合わせながら いつもこの事が疑問でした。
「これって・・困った時の神頼みだよな・・」と・・。
もちろん 良い事があった時に感謝を忘れているつもりはない・・つもりではありますが・・。
入り口はそれでもいい・・ということ??
努力をする。出来るだけの行為はしっかりやる。
その上で神様に委ねて、結果に執着しない。
{依存}と{委ねる}には 大きな差がありますよね。
第2のポイントは・・
<神様の存在を信じる>ということ。
存在を信じていなければ・・委ねるもなにもない・・。
これが 一番大事。
<カルマを越える>
肉体を持って学ぶとは「監獄のような学校」だと 船井先生は言われます。
課題をこなしても、その課題の結果に執着したら・・またカルマを持ち越すことになるとしたら・・本当に学びにくい学校だと思います。
与えられる課題を どんなことでも神様に与えられるもの・・こう捉えて生きられたら もう悟りの境地ですよね。。
せめて・・過去の出来事を、神様に与えられたと 捉えたいと思います。。
執着心(自我欲・エゴ)の扱い方。
神様を信じる心。
越える道はここに ポイントがある。
執着心バリバリの私・・神様はどうご覧になっているのかな~???(汗&涙)
最後に 「では どうすればいいのか?」という疑問が出てきますよね。
<カルマを越えるにはどうすればいいか?>という疑問。
その答えと思われる記述を・・
・・・・・・・・・・・・
「あるカルマが解ける とはそのカルマが持っている心身的なエネルギーが消滅することを言う。
カルマは、種子(潜在的なある機能を持ったエネルギーパターン)として チャクラに潜在的に蓄えられている限りは 解けない。
それがある縁を得ることにより、活性化し、現実の世界で働きとして現れると、そのカルマの持つ心身的エネルギーは消費される。消費されてしまうとそのカルマは消滅する。
ところが普通の人の場合 そのカルマによる働きそのもの(悲しい出来事や苦しい出来事・嬉しい出来事)や それに伴う感情・想念に執着し、再びそのときの 自己の行為の果や感情のエネルギーパターンを種子として心身に貯え、保持するのが常である。
カルマの種子が働きとしてあらわれた時に それをその働きのままに任せて執着しなければ、そのカルマはエネルギーを消失して解消する。」
・・・・・・・・・・
これは・・
身体のチャクラに貯えられたカルマは 縁・環境が整う事で発現する。
出てきたカルマは出す!!(出し切る!)
肝心なのは・・
出てきたカルマに対して・・行為した結果に対する心構え。
結果に執着・とらわれないこと。
これは 先日書いた{超作}。
{執着心}・・この扱いは本当に難しいと感じます。
とらわれない心・・これまで {過去の悪い記憶}にとらわれていると自覚がありませんでした。ここで棚卸をして 初めて気が付いた・・。
執着心を手放す。とらわれない心を持つ=超作。
先日も書きましたが 坂本政道さんの{死後体験}にも・・
「生まれ変わりポイントにまで行けない霊は・・自らの執着心で同じ波動を持つ霊達と同じ次元に留まる」という記述があります。
あの世の霊も 次元上昇のポイントは執着心。
この世でも それは同じ。
いかに執着心を捨てるか・・超作するか・・。
これが カルマを越える第一のポイントのようです。
・・・・・・・・・・・・
「人間は、長い人生の間には種々の困難に出会う。地位・名誉・財産が崩壊するかもしれない危機に面したり、死ぬかもしれない大病にかかる。またある家では代々子供が(男子が)早死にして家が絶えるようになるとか、兄弟の間で争いが絶えないとか、離婚・色情 などなど・・代々一定の困難な問題が続く等、人生には解決困難な問題が生じる。
そのような時 人間は非力を知り、より大きな存在、神へ心を向ける。
神へ向いた心は、最初は 今自分が面している困難が解決しますように・・これはご利益主義といえよう。しかし、一心に祈って願いが叶うと 人間は大いなる力を持つ神に直接触れ、人間は神より支えられ、生かされていることを感得するようになる。
初めはご利益主義であっても 願いが叶えられる体験を重ねていくうちに、自分の存在を神に託して 安心して生きる態度が自然に具わってくる。
(略)すなわち どのようなことが自分に起きようと、神が自分に必要があって与えたものとして、それを受け入れるようになる。
このような神への全託が生じて 神への祈り続け、祈りの中で祈っている自分を忘れ 祈りそのものになりきる時・・神はその大いなる力を持ってその祈りの中へ、自分を捨てた人間の中へ流入してくる。
ここで カルマの内で生きている人間存在が浄化され、否定されて 次第にカルマを越えた次元へ超越せしめられる。」
・・・・・・・・・・
また 左脳が疲れてきたあ~(笑)
つまり・・
神様に{依存する}のではなく、{委ねる}ということですよね??
・依存・・・努力せずに結果を求めること (根底に執着心がある)
・委ねる・・努力して結果は求めない(執着心がない)
これは 自分勝手な解釈ですが・・大きく違うと思います。
神様に向かうのに・・どうしても{依存}したり、ご利益主義だったり・・
私は 手を合わせながら いつもこの事が疑問でした。
「これって・・困った時の神頼みだよな・・」と・・。
もちろん 良い事があった時に感謝を忘れているつもりはない・・つもりではありますが・・。
入り口はそれでもいい・・ということ??
努力をする。出来るだけの行為はしっかりやる。
その上で神様に委ねて、結果に執着しない。
{依存}と{委ねる}には 大きな差がありますよね。
第2のポイントは・・
<神様の存在を信じる>ということ。
存在を信じていなければ・・委ねるもなにもない・・。
これが 一番大事。
<カルマを越える>
肉体を持って学ぶとは「監獄のような学校」だと 船井先生は言われます。
課題をこなしても、その課題の結果に執着したら・・またカルマを持ち越すことになるとしたら・・本当に学びにくい学校だと思います。
与えられる課題を どんなことでも神様に与えられるもの・・こう捉えて生きられたら もう悟りの境地ですよね。。
せめて・・過去の出来事を、神様に与えられたと 捉えたいと思います。。
執着心(自我欲・エゴ)の扱い方。
神様を信じる心。
越える道はここに ポイントがある。
執着心バリバリの私・・神様はどうご覧になっているのかな~???(汗&涙)