その記事との縁?
そこから・・次の縁へと繋がっていく。
祖父からことずかったものを届けてくれた人物は・・
つきもり・・という名です。
月守
月を守る と書きます。
私はこのブログを完全匿名で書いていますが・・
この方の名だけは 惹かれるもがあり・・書かせて頂きます。
もう 亡くなっています。
存命中は 母も祖母も親しくさせて頂いたようです。
月を守る・・
名前を書くことに特に深い意味はありません。
ただ・・私は お月さまが大好きで、あえて名前を書くことにしました。
ただそれだけの理由です(^^)
その小さな記事が新聞に掲載されたのは・・
昭和55年1月13日(日)。
今から、28年前。
終戦から・・35年後。
この記事を発見して、連絡。
すぐに月守さんに繋がったわけではなく・・しばらくして・・
「(同年)8月24日、戦友が岡山に集います。よかったら参加しませんか?」
との案内。
母はその集まりには行ってないそうですが・・祖母が参加。
やっと 会うことができました。
母は、その後数年経って、月守さんに会ったそうです。
その時の気持ちを・・
「父を知る人物に会って 妙な気持ちだった」
「私は知らないのに、この人は父を知っていると思うと・・変な気持ちがした」
会えた喜びよりも・・妙な気持ちだった・・と話します。
「月守さんは きちっとした紳士だった。軍人らしい人」
母も祖母も口をそろえて言います(私は 会った事はありません)
戦争をくぐり抜けてきた人は 今とは教育が違う。
それは・・きちっとしている祖母を見て、いつも感じることです。
まあ それぞれの性格があると思いますが、きちんとしている・・と感じます。
月守さんにとって 祖父との出会いも不思議で・・
「自分が新人?の時の 研修(のようなもの)の先生が(祖父)さんだった。(祖父)さんから教えてもらった。」
第31潜水艦基地隊は、昭和19年7月8日に呉市の西教寺で300名で編成。
同年8月21日、呉港を出て、同9月1日、マニラへ到着。50名をマニラに残し、250名はセブ島配置になった。
(昭和57年6月10日の中国新聞より)
月守さん達は、祖父から新人研修を受け、昭和19年の9月にセブ島に到着したことになります。
この時の心境を・・
「初めての土地で心細かった」と、母に語ったそうです。
その後、不思議な縁で祖父に再会。
「セブ島に到着して、心細かったが、かつての先生である祖父に会えて、安心した。こんなところで会えるとは思いもしなかったので、驚いた」と・・。
月守さんは・・18歳
祖父は・・・・20代後半
驚きは祖父も同じだった様子で・・
「こんなところで会えるとは!」と驚いていたそうです。
そして・・
「妻と子を残して、こんなところに来てしまった・・」
・・と、若い部下に心境を語ったのだそうです。
幼い母と、祖母が心配だったに違いありません。
母は3歳、可愛い盛りです。
セブ島で再会し、上官と部下になったわけです。
縁は不思議です。
やっと・・繋がりました。。
戦後、祖父の遺品を 祖母の里まで届けてくれた人。
祖父をよく知り、戦火を共に潜り抜けた人。
終戦の声を聞いて・・
35年の時が経って・・
3歳だった母が結婚し・・
孫である私が15歳・・
やっと。
残念ながら・・月守さんは{最後を看取った人}ではありませんでした。
けれど・・親しかった様子で、月守さんのことを「つき!」と呼んでいた、と。
遺品?をことずけたのは・・まだ元気な時でした。
「自分にもしものことがあった時に これを届けて欲しい」と・・月守さんに頼んでいたのだそうです。
戦後 祖母の里に届けられました。
私も何が届いたのか・・知らなかったのです。
今回 初めて聞きました。
子供の頃に見た覚えはありましたが・・
それが届けられたものだとは 知らなかった。。
何だと思いますか?
それは・・
母の宮参りの写真
と
家の鍵
話してくれる母は 言葉が出なくなりました。
私も・・・・。
そこから・・次の縁へと繋がっていく。
祖父からことずかったものを届けてくれた人物は・・
つきもり・・という名です。
月守
月を守る と書きます。
私はこのブログを完全匿名で書いていますが・・
この方の名だけは 惹かれるもがあり・・書かせて頂きます。
もう 亡くなっています。
存命中は 母も祖母も親しくさせて頂いたようです。
月を守る・・
名前を書くことに特に深い意味はありません。
ただ・・私は お月さまが大好きで、あえて名前を書くことにしました。
ただそれだけの理由です(^^)
その小さな記事が新聞に掲載されたのは・・
昭和55年1月13日(日)。
今から、28年前。
終戦から・・35年後。
この記事を発見して、連絡。
すぐに月守さんに繋がったわけではなく・・しばらくして・・
「(同年)8月24日、戦友が岡山に集います。よかったら参加しませんか?」
との案内。
母はその集まりには行ってないそうですが・・祖母が参加。
やっと 会うことができました。
母は、その後数年経って、月守さんに会ったそうです。
その時の気持ちを・・
「父を知る人物に会って 妙な気持ちだった」
「私は知らないのに、この人は父を知っていると思うと・・変な気持ちがした」
会えた喜びよりも・・妙な気持ちだった・・と話します。
「月守さんは きちっとした紳士だった。軍人らしい人」
母も祖母も口をそろえて言います(私は 会った事はありません)
戦争をくぐり抜けてきた人は 今とは教育が違う。
それは・・きちっとしている祖母を見て、いつも感じることです。
まあ それぞれの性格があると思いますが、きちんとしている・・と感じます。
月守さんにとって 祖父との出会いも不思議で・・
「自分が新人?の時の 研修(のようなもの)の先生が(祖父)さんだった。(祖父)さんから教えてもらった。」
第31潜水艦基地隊は、昭和19年7月8日に呉市の西教寺で300名で編成。
同年8月21日、呉港を出て、同9月1日、マニラへ到着。50名をマニラに残し、250名はセブ島配置になった。
(昭和57年6月10日の中国新聞より)
月守さん達は、祖父から新人研修を受け、昭和19年の9月にセブ島に到着したことになります。
この時の心境を・・
「初めての土地で心細かった」と、母に語ったそうです。
その後、不思議な縁で祖父に再会。
「セブ島に到着して、心細かったが、かつての先生である祖父に会えて、安心した。こんなところで会えるとは思いもしなかったので、驚いた」と・・。
月守さんは・・18歳
祖父は・・・・20代後半
驚きは祖父も同じだった様子で・・
「こんなところで会えるとは!」と驚いていたそうです。
そして・・
「妻と子を残して、こんなところに来てしまった・・」
・・と、若い部下に心境を語ったのだそうです。
幼い母と、祖母が心配だったに違いありません。
母は3歳、可愛い盛りです。
セブ島で再会し、上官と部下になったわけです。
縁は不思議です。
やっと・・繋がりました。。
戦後、祖父の遺品を 祖母の里まで届けてくれた人。
祖父をよく知り、戦火を共に潜り抜けた人。
終戦の声を聞いて・・
35年の時が経って・・
3歳だった母が結婚し・・
孫である私が15歳・・
やっと。
残念ながら・・月守さんは{最後を看取った人}ではありませんでした。
けれど・・親しかった様子で、月守さんのことを「つき!」と呼んでいた、と。
遺品?をことずけたのは・・まだ元気な時でした。
「自分にもしものことがあった時に これを届けて欲しい」と・・月守さんに頼んでいたのだそうです。
戦後 祖母の里に届けられました。
私も何が届いたのか・・知らなかったのです。
今回 初めて聞きました。
子供の頃に見た覚えはありましたが・・
それが届けられたものだとは 知らなかった。。
何だと思いますか?
それは・・
母の宮参りの写真
と
家の鍵
話してくれる母は 言葉が出なくなりました。
私も・・・・。