五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末  2002 

2010-10-03 04:18:21 | 五高の歴史
九月三日 火 晴
今年も後四月か、月日の経つのが早い気がするが?俺自身が年取ったと言うことだろうか?

今日はテレビ熊本が中村汀女の特集を組むと言うことで五高の江津湖に於ける文科・理科対抗ボートレースの写真を複写に来ると言っていたので格好だけでも準備してやらなくてはなるまいと七時四十五分出発する。
小.中、高は夏休みも終わり二学期が始まっているからか少々通行の状態が悪い。しかし十五分には到着する。ボランテイア案内ガイドの返信を出したりと言うことで駐車してすぐ事務局へ、

中門の飾りの電球が割られているそうである。「あら、今度は四回目ですよ、まだ予備はあるので、準備はしておきます」と回答する。その他設計図の保管の打合せ、入館者の意見を書いたものがあるか確認するも四月以降一枚しか書いた者はいない。五十分センターへ、館長からの連絡事項は何もなし。開室は九時、

先日TKUの製作部長と打合せた時、休憩室で複写させると言っていたので同室を開室・点灯し暑いので冷房を入れる。百周年の写真帖のボートレースの模様の写真に付箋を入れ休憩室の机に置く、写真担当三名で来ると連絡があったので三名分のスリッパを用意する。十時過ぎTKUはやってきた一応写真帖について説明しあとは任せた。十二時も近くなったかので弁当を食らう。今朝も早かったので腹の減り具合ちょうどいい感じ

管財係長がやってきて中門の電球を取りに来た。TKUはその時まで盛んに写真は撮っていたが終わったと言って帰っていった。中門の電球の取替えはこの前も作業員にさせてあったのだが、いままで換えたことはないと言張る。どうでもよいことであるが実際思い出せないのか忘れてしまったのか、あんなに換えたじゃないか、ばかたれめといいたい。

久しぶりに上村教授が来た。俺も何か資料の中から目新しいものはないか、いろいろ探したことを話す。職員願書の中からビートナー・ヴェルグステルンの両ドイツ語教官から在職証明願いを本人が書いたものですよと見せる。喜んでコピーすると言って研究室に持ち帰ったが四時まで返却にこなかった。また冷やかす種が出来たぞー、五高医学部のドイツ語の教師に付いて調べているそうであった。

第十三臨時教員養成所の中の三十人の採用に三百人も受験しているので、不合格の連中にでも一人くらい俺が知っているのちに熊本で有名になった人は居ないかを見つける。あさって見るが名前も聞いた事もないものばかり、こんな事を言ったらしかられるのおちかもしれないが、高等師範ということをどう解釈していたのか、自分の出身校であるのであまり悪口は言えないが私立の中学からの受験者が多いこと、多いこと、我等の時代さえ、○○中ボンクラボンクラ、◎◎はお洒落、X中・x校はこれまた野暮よと言う替え歌さえ出来て馬鹿にしていた私立の中学であったので学力の程度からして合格出来なかったと言うことを改めて実感させられた感じであった。しかしこの学校の卒業生は師範学校への進学は多く小学校の教諭になっていた者が多かったそうである。そのためか熊本に出来た高等師範ということで師範と同じに考えて受験生が多かったのだろう。

事務局から連絡はしてもらったのでといって見知らぬ人がドアの前に立って入って来た。用件を尋ねると、建物の写真を写しているものという。公開日は土・日の休みの日だと言ったが事務局から連絡があっている筈だと粘られた。ただ天井の写真を写すのだそうでそんならよいようにしなさいと対応しない。しばらくして第二展示室を開けてくれと言う。開けてやると三重県津市立女子短大の環境生活学科の助教授だと言う自己紹介があり建物について研究しているらしい、それならそうと順序を踏んで閲覧させてくれと頼むように指導する。記念館の設計図については工学部の北野教授が十分に研究されていることを教え、必要なことは聞いて見なさいと言っておいた。

2010年の夏は「猛暑であったが確実に季節は秋が忍び寄っていた

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