五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

ラフカジイオ・ハーンが慈父のようだと慕った秋月胤永教授について

2010-11-28 05:22:34 | 五高の歴史
秋月胤永教授について
文政2年(1824年)合津若松で生まれ、戊辰戦争の会津篭城の参謀、白虎隊を組織した。会津若松の戦いで勇名を馳せた。五高赴任は明治23年9月それまでは一高で教鞭を執っていた。九州男児に将来の望みを託して五高教授になった,五高魂の「剛毅朴訥仁近し」を唱えて竜南精神を植え付けるため全力をつくした。

五高赴任時は御年67歳。授業は倫理・国語・漢文を講義し、人格高潔,学徳兼備で生徒からも敬慕された。五高の職員間には余りなじめなったラフカジイオ・ハーンであったが「先生は慈父のようである」と云い秋月先生を最も敬愛した一人であった。

第三展示室の秋月の書簡からは老齢のため本学を去った先生の職員・生徒に対する謙虚な人柄がそこはかとなく偲ばれて在職中の想い出が見事な文章でつづられている。会津肥後とも朱子学を基礎として、先生の講義は単に教壇のみに限定されたものでなく、暇な時には常に数名の生徒を自宅に招きせんべいを齧り,酒を振舞って時勢を語り、談笑団欒のうちに子弟に薫陶を与えた。立田山に登ってはちくわを肴に浅酌を試み、和気あいあいのうちに無限の教訓と感化を与えたものである。

努めて土地の史蹟を訪ねた。明治26年4月菊池方面へ旅行した際には、菊池川の畔で菊池勤皇の事蹟を鮮やかに説き、ついに木剣を持って立ち上がり,自ら吟じ自ら舞って見せた、そのときの詩は「北越潜行之詩」であり、遥か西国の地で図らずも菊池の往時を追想して感極まったのだろう。その熱血さが忍ばれる。

鹿児島行軍を終えて肥薩の境界、加久籐越えをするとき大雨で生徒は重い銃と土産一杯詰め込んだ背嚢で疲れきって、列が乱れ、ついには離れ離れになって山道を歩いていた。先生は背の曲がった猿のような格好でエイエイと一歩踏みしめる毎に声をかけながらすべる坂を右の手で道端に刈って積んであった枯れ草をつかんでは後ろへ棄てた。そして「こうして枯草を敷いておくと後から来る人が滑らぬからのう」といわれた。まさに千軍万場の士、面目躍如足るものがある。

教室では白ひげを扱きながら指先でコツンコツンと机を叩き、入学して修身の授業人出ると各生徒から「私は何藩のものであります」と名乗らせた。時代錯誤の感なきしも各藩の志士と交わって藩特有の士気を心得ていたのでそうすることが訓育上必要であったのだろう。
或る時一人の生徒がおくれて教室に入ってきたとき、その姿をみるや大喝一声「王法に曰く、遅れて到る者は斬るとある。大事の聖賢の道を聴く講座に遅刻するとは何事じゃ、君は何藩か」と叱ったと言う事でその風格の一端が偲ばれるものがある。
 
全身道にならざるべからずと至誠一貫熱心な教育者で在職六年間、竜南人に生活と理想に多大の影響を与えた。

秋月先生の五高における終焉は「高齢に達し授業上の都合有り候に付今般非職命ぜられ以段申候也」と明治28年8月6日非職の上申がされ、仝年8月26日には非職が発令されている。それから非職の期間は約2年間で辞職時の理由書を紐解いてみると「当校非職教授秋月胤永より別紙辞表差出候為本人は七旬余の老年にて復職の見込無之候に付速かに願意御許容成候様致度此段上候也」と辞職の添申がなされている。その上で明治30年6月16日秋月先生本人より恩給請求書が進達されている。
以上参考文献  五高人物史、五高50年史から纏める。

秋月胤永の五高在籍期間について確認する。
明治二十八年辞職、その後の様子について非職教授として明治三十年まで在籍していた  ことを以下の関係書類で月日を追ってみる
  
 明治二八年六月六日       起案者    余田 司馬人
     教授 秋月胤永増俸上申の件
    第五高等学校教授 高等官五等八級俸   秋月胤永
    七級俸
    右者職務勉励其功積不抄候に付頭書の通り下賜相成候様致度以段上申候也
        文部大臣宛           校長

 明治二八年八月六日
     教授 秋月胤永 非職上申の件
    第五高等学校教授 高等官五等七級俸   秋月胤永
    右は高齢に達し授業上の都合有り候に付今般非職命ぜられ以段申候也
         文部大臣宛           校長

 明治二八年八月六日   電信   親展
     秋月の非職発令ありたし

 明治三〇年五月六日
     非職教授秋月胤永辞職添申の件
  当校非職教授秋月胤永より別紙辞表差出候為本人は七旬余の老年にて
  復職の見込無之候に付速かに願意御許容相成候様致度上申候也
           文部大臣宛          校長

 明治三〇年五月六日
      非職教授秋月胤永位階特進上申の件
  非職登校教授秋月胤永今般辞職願出候為本人は多年奉職中倫理の授業を担当致躬行実践  生徒を誘導し専ら人材養成に心を用い生徒間に良風を生じたる等功績少なからざりし者  に付特旨を以て位一級被進候様付度此段上申候也 
            文部大臣宛          校長

 明治三〇年六月十六日
       秋月胤永恩給請求種進達の件
   元当校教授秋月胤永より別紙恩給請求種の・・・・・・・・・・

非職というのは広辞苑では位はそのままで職を解かれるとなっているが、熊本をただちに離れたかどということは解らない。辞職した人の分も非職の場合は学校が世話を行っている。



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