五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高寮歌「武夫原頭に草萌えて」ができた背景

2012-04-15 04:20:45 | 五高の歴史

昨日の続きで熊日講座小山先生の「五高と近代日本」の話をメモからまとめているものである。

惠利 武はどんな人物?
福岡の藩校中学修猷館出身、五高から東大を経て大蔵省から、鹿児島税務署勤務中に死去、五高時代は雑誌部員。詩文にも優れ柔道も強かった。

寮歌の時必ず出てくる名前に天野勘助がある。一高では鳩山一郎と同期で三浦環に恋し退学している。武夫原の曲は飽きが来ない、制作された翌年には高等師範まで普及し生徒は替え歌にしてしまっている。福岡南築高校では、インパクトが強いと曲を好んで唄ていた。

明治34年後藤文夫等が入学した時の学内事情は?
櫻井校長が飲酒禁酒を宣言し「本校は自今、学生の飲酒をやめさせる方針である。もっとも規則を以て之を禁ずるのではない。断然酒を飲まぬという決心を促し,諸子自ら弊害を悟り酒を飲まぬという決心をしてもらいたい。各中学校に学校町名で父兄や保証人に文書送り協力を依頼した、然し2年生以上のものは之を黙認した。
9月の入学式では在学中は飲酒せざることなどの4ケ条の宣誓文を朗読させ校長室で宣誓させた、

背景にあった学内の乱れは飲酒のためであるとの危機感と熊本の風土、軍都熊本は武勇礼賛、学問軽視の風潮があり、それえの懸念があった。一方生徒たちには禁酒令に反発もあって柳井秀岳は漢詩「燗瓶三嘆声」で比喩した。
物置ニ泣ク者アリ就イテ之ヲ見レバ燗瓶ナリ・・・・・・・運動会アレバ即チ招セラレ親睦会アレバ招カル・・シテ今ヤ孤影粛然トシテ家鼠ト居ル  

飲酒処分の第一号の退学処分者は後藤文夫の友人の田沢義鋪であった。これは対抗ボートレースの打ち上げで酒を飲み誓を破り退学処分を受けたもので、同じ下宿の友人が禁酒令に反対し退学届けを出したので学校側は態度を硬化させた。

(田澤 義鋪  ,1885年(明治18年)7月20日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正期及び昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。佐賀県鹿島市出身。青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称されている。)

田沢の復学運動は後藤文夫が主になり繰り広げ退学撤回運動を続け櫻井校長は一年後復学を許可した。この時期五高では有為な人材が排出した。スポーツや文芸活動で校風形成と母校愛の助長の奨励で学寮改革事業に理解を示した。この時期は日本国家が最も力が上昇していた時期で日本の国家の方向性を見出す、純粋な生徒たちが情熱を捧げる。惠利は校風論を展開し、学寮の在り方に問題を投げかけた。

そのリーダー格は後藤文夫であった。成績は振るわなかったが・高文官試験は首位で合格した。時には龍田山の山頂で白川の水辺で煎餅をかじりながら議論に花を咲かせ総務の池田秀雄と一緒にスポーツ関係にも力を発揮した。

 

 

 


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