大正末の鹿児島の七高との野球戦のトラブルで廃止に追い込まれたので、生徒らは対七高野球戦もあらゆる手段を通じて復活が迫ったけれども断固として拒否された。そのためその後は江津湖を中心としたボートレースに力を注ぎ文理対抗をはじめとして昭和三年より盛大に始めたのである。
寮の実際生活上のモットーの一つは「より快適な生活」であり衣食住の三要素の快適である・衣は個人的なものであり、住は学校当局との関係であり、日常直接委員の活躍は食の方面であり、炊事部の活躍に負うところが第であった。
習学寮創立以来の自炊制度が弊害であると言って明治四十五年廃止されたのであったが、請負制度は食物が不味の結果賄い征伐も行われその弊害もまた多く自炊生活を復活する声も大きくなり、昭和三年委員会の決議に基づき総代奔走の結果三月三〇日再び多年の要望であった自炊制度が許可され、炊事委員長は炊事全般の事務を総括することとなった。
このようにして自炊制度は復活したのであったが着々とその成果は上がり四年から五年にかけて炊事内規三〇条を制定、炊事器具の購入、炊事傭人の待遇改善、食事の質及び量の向上は目覚しく日を追うにつれその効果は炊事積立金をなすまでにその余裕を見出すようになった。
自炊制度の確立と共に自治権の確率も叫ぶ声が大になり、昭和三年の九月三〇日の委員会において「総代選挙権を全寮生に与える」の件を決議したが学校当局の許可を受けることは出来なかった。
当時の総代日誌には「既に普通選挙が認められた今日、また竜南会総務選挙県の現状に鑑みるも総代選挙は理論としては大いに合理的な問題で然るに委員選挙の実際に想到せよ、思い半ばにすぐるものがある。我々は理論においては無条件に賛成であるが実際問題としては時期尚早の間を抱くものがある」と述べているが、実際問題として観察すると新旧委員の互選制の如何に現状に即したものか了解できる。寮のごとき家族的気分の濃厚な所に置いては、必ずしも合理主義のみでは立ち行かない場合が多くある。
現在当時の総代日誌等は残っていないので習学史、続習学史を参考としたものである。
寮の実際生活上のモットーの一つは「より快適な生活」であり衣食住の三要素の快適である・衣は個人的なものであり、住は学校当局との関係であり、日常直接委員の活躍は食の方面であり、炊事部の活躍に負うところが第であった。
習学寮創立以来の自炊制度が弊害であると言って明治四十五年廃止されたのであったが、請負制度は食物が不味の結果賄い征伐も行われその弊害もまた多く自炊生活を復活する声も大きくなり、昭和三年委員会の決議に基づき総代奔走の結果三月三〇日再び多年の要望であった自炊制度が許可され、炊事委員長は炊事全般の事務を総括することとなった。
このようにして自炊制度は復活したのであったが着々とその成果は上がり四年から五年にかけて炊事内規三〇条を制定、炊事器具の購入、炊事傭人の待遇改善、食事の質及び量の向上は目覚しく日を追うにつれその効果は炊事積立金をなすまでにその余裕を見出すようになった。
自炊制度の確立と共に自治権の確率も叫ぶ声が大になり、昭和三年の九月三〇日の委員会において「総代選挙権を全寮生に与える」の件を決議したが学校当局の許可を受けることは出来なかった。
当時の総代日誌には「既に普通選挙が認められた今日、また竜南会総務選挙県の現状に鑑みるも総代選挙は理論としては大いに合理的な問題で然るに委員選挙の実際に想到せよ、思い半ばにすぐるものがある。我々は理論においては無条件に賛成であるが実際問題としては時期尚早の間を抱くものがある」と述べているが、実際問題として観察すると新旧委員の互選制の如何に現状に即したものか了解できる。寮のごとき家族的気分の濃厚な所に置いては、必ずしも合理主義のみでは立ち行かない場合が多くある。
現在当時の総代日誌等は残っていないので習学史、続習学史を参考としたものである。