五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

黒髪北地区で五高時代の名称が教えてくれるもの

2014-06-02 04:46:11 | 五高の歴史

 戦後の学制改革により旧制第五高等学校が閉校し、新制熊本大学が創立されて既に七十年が経過している。それにもかかわらず、五高時代名称がこの二十一世紀になって未だに使われているということは、まさに驚くべきことではあるまいか?

 たとえば熊本大学附属図書館の広報誌は「東光原」と云う。この広報誌の名前はつとに知られているが、平成二十年度からは熊大生を対象とした文学賞(「東光原文学賞」)も創設されている。
 そして五高記念館の広報誌ニューズレターは、たしか第3号から昔の校友会誌の名称「龍南」を用いて発行されている。また学生が発行していた「白草原」の名称を持ったパンフも発行されていたが、現在はなくなってしまったようだ。

 最近の教職員・在校生諸氏には知らない方も多いだろうと思われるので、五高時代の名を今に引き継いでいるものを列記してみよう。
 学生会館は「東光会館」、熊大グラウンドは「武夫原」、それに黒髪北地区の正門は通称「赤門」と云う。この正門から中門にかけての道路を「サインカーブ」と呼び、さらには「知命堂」という建物もある。
 しかし五高時代の「習学寮」、「瑞邦館」、「済美館」、「猫橋」等々の名称は流石に建物や関連する遺蹟もなくなり、サインカーブ西側の「植物園」共々いつしか呼ばれることもなくなってしまった。

 馴染み深い五高時代の名称を越える名前はなかなか出て来ないようである。