アイスクリームなどを食べていると「びわ」はこんな恰好でジ~とこちらを見ている。
食べたいのだろうが、あげると癖になる。「あっちへ行きなさい!」それでも動かないのであるが、諦めて何処かに行くこともある。
考えてみれば、朝夕のドッグフード、水だけの一生である。人間様は、あれだ、これだ、不味いの、美味いの、まあまあだとか贅沢三昧の一生である。
アイスの包み紙や棒などをゴミ箱あたりから探し出して、ペロペロ舐めていることも偶にあるようだ。
スタインベックの小説「怒りの葡萄」の映画のなかで、主人公達の一家が貧窮農民のキャンプのような所に辿りつき、母親が家族の為のスープなどを作っていると、腹を空かした他の子供たちが何処からともなく廻りに寄ってきて指をくわえて見ていた。
母親は、追っ払うことはせず、お食べと言って分け与えていたのがモノクロだけに印象的であった。
「びわ」は、指もくわえられず、タダただ見つめているだけだ。
よく、何か物が欲しい時に、はっきりと言えないことが多い。それとなく、廻りくどく言い廻して相手が気付いてくれるのを待つ手法をとることがある。子供ばかりではなく、大人も結構使う。
今でも思い出す。食糧難の時代、母親から「遊びに行った先の家で何かを食べ出したら帰ってきなさい。物欲しそうに、物欲しげに居てはいけない」と言われたものだった。
飢餓状態で腹の皮が背中にくっつくということも無かったのは、親が何とか都合をつけてくれていたのであることは確かである。
びわは指をくわえることも出来ず、ひたすら、見つめるだけである。
凡人は、幾つになっても、先が見えていても、命を欲しがるようだ。往生際が悪く、悟りの境地に至らないのである。これが人間であるのか・・・・
食べたいのだろうが、あげると癖になる。「あっちへ行きなさい!」それでも動かないのであるが、諦めて何処かに行くこともある。
考えてみれば、朝夕のドッグフード、水だけの一生である。人間様は、あれだ、これだ、不味いの、美味いの、まあまあだとか贅沢三昧の一生である。
アイスの包み紙や棒などをゴミ箱あたりから探し出して、ペロペロ舐めていることも偶にあるようだ。
スタインベックの小説「怒りの葡萄」の映画のなかで、主人公達の一家が貧窮農民のキャンプのような所に辿りつき、母親が家族の為のスープなどを作っていると、腹を空かした他の子供たちが何処からともなく廻りに寄ってきて指をくわえて見ていた。
母親は、追っ払うことはせず、お食べと言って分け与えていたのがモノクロだけに印象的であった。
「びわ」は、指もくわえられず、タダただ見つめているだけだ。
よく、何か物が欲しい時に、はっきりと言えないことが多い。それとなく、廻りくどく言い廻して相手が気付いてくれるのを待つ手法をとることがある。子供ばかりではなく、大人も結構使う。
今でも思い出す。食糧難の時代、母親から「遊びに行った先の家で何かを食べ出したら帰ってきなさい。物欲しそうに、物欲しげに居てはいけない」と言われたものだった。
飢餓状態で腹の皮が背中にくっつくということも無かったのは、親が何とか都合をつけてくれていたのであることは確かである。
びわは指をくわえることも出来ず、ひたすら、見つめるだけである。
凡人は、幾つになっても、先が見えていても、命を欲しがるようだ。往生際が悪く、悟りの境地に至らないのである。これが人間であるのか・・・・